第79話:それぞれの思い
文字数 3,999文字
手のひらに載せた白い木綿豆腐。
そのまま包丁で慎重に切ると、味噌汁の鍋に落とす。
レンジ兼用トースターの中では2枚の食パンがほぼ狐色になって、チンと鳴るまであと数秒。
システムキッチンの、4口あるコンロの一番手前には熱したフライパン。
まな板の端で卵を割り、ゆっくり殻を開いて2個落とす。
塩とコショウをかけ、蓋をする前にお湯をさすのがポイントだ。
目玉焼きができたら、残ったお湯を捨ててそのままソーセージも焼いてしまう。
「私、前からやってみたかったんですよ。東城さんに、こうやって朝ごはん」
振り向いた美砂は、肩にもフリンジのついているエプロンではにかむ。
ウエストをきゅっと絞る腰のリボン。
紺色のワンピースで、スカートの裾と、半袖の袖口にもひらひらがある。
大胆に開いた背中と、金色のボタンで止めている黒のチョーカー。
そして、こげ茶色のタイツ。
これは去年の学祭のとき、美砂の家庭部が開いたイタリアンレストランで女生徒たちが着ていたウエイトレスの衣装だ。
「美砂、その衣装」
「あは、分かります?」
「また見られるとはね」
「1回で終わりじゃもったいないじゃないですか。だからみんなで持ち帰ったんですよ」
机の上に並べられていく出来立ての品々に、思わずおお~、と声が出る。
11時も回って、本当なら昼食の準備という時間だが、これはきょうの一食目。
東城が起きたのは30分ほど前だから、美砂はそれより早くベッドを抜け出し準備していたのだろう。
「さあ、どうぞ」
「いただきます!」
2人向き合うダイニングテーブル。
東城の箸運びを眺めている美砂もニコニコ笑顔で実に満足そうだ。
「おいしいよ♪ オレ、朝は抜くこと多いからさ、こういうのすげー感激」
「よかった、そう言ってもらえて♪」
「にしても山葉の奴、毎日こんないい思いしてるのか」
炒めたソーセージを半分かじり羨ましがる。
「まさか、そんなことないですよぉ」
「え、違うの?」
「そんなことしませんよ。パンなんか袋のまま食卓に置いといて、焼くなら勝手に焼いてって感じです。ご飯がいいなら前の日の残りをお好きにどーぞって」
「ひ~、そうなのか」
「東城さんだから、ですよ」
「‥ありがと、美砂」
思わず手を伸ばして美砂の頭を撫でてしまい、例によって「ぐしゃぐしゃに~」と嬉しそうに嘆かれる。
「でも‥なんか、新婚夫婦‥みたいだね」
「…」
頬を染めてうつむくだけで、美砂は何も言わない。
「東城さん」
「ん?」
「きょうは、ずっとうちにいませんか」
「え? 遊園地行かなくていいの?」
「なんか、こういうのも、いいかな、って」
「…いいよ。でもその代わり」
「その代わり?」
「晩ご飯も、美味しいの頼むぜ」
「は~い♪」
譲二もいない、もちろん両親もいない山葉の家で美砂と一緒に過ごしている。
一緒に食器を洗って、一緒に片付けて、居間のソファーで肩を寄せ合い、ただボーっと。
キスをしたくなればキスをして、抱きしめたくなったら抱きしめて。
レースのカーテン越しに射し込む陽の光の角度だけが、時間の経過を知らせてくれる。
肩に頭を載せ、いつの間にか眠ってしまった美砂を左手で抱き、幸せの意味を考える。
◇ ◇ ◇
<5月3日 樺太・豊原市>
「山葉ぁ~」
ジーンズで駆けてくる女の子。
そして聞き覚えのある声。
派手に手を振りながら、目の前にやって来て、そのままハイタッチ。
「変わってねえなぁ、春菜」
「山葉だって全然変わってないじゃなーい」
「いや、変わったぞ! 背が1センチ伸びた」
「すごいじゃない、それって髪の毛切ってないだけじゃないの!?」
「違う! 脳天蚊に刺されたのかも!」
「ぎゃはははははは」
豊原市。
待ち合わせの約束をした郊外電車の駅前。
3カ月ぶりに会った春菜は、前と変わらず元気そうだ。
再会の喜びで思わず見つめ合う。
知らん奴が見たら付き合ってると思われるかもしれないほどの熱視線。
「初めて来たけど、豊原って大きい街だな」
「そりゃそうよぉ。これでも政令市なんだからね。彩ケ崎と一緒にしてもらっちゃ困るんだよぉ」
「ははははは! 完全に地元民してんじゃん」
「きれいなお店もいっぱいあるんだから。ね、あそこの喫茶店入ってみない? 気になってたんだけど、いつも1人だから入りづらくってさ。積もる話、しようよ」
「うーし。嫌になるほど話そうぜ」
駅前から少し外れたところにある、客もまばらな喫茶店。
50歳ぐらいのマスターがカウンターの中。
奥さんだろうか。それより少し若い感じのソ連人とみられる金髪の女性がオーダーを取ったりコーヒーを運んだりしている。
音を絞ったスピーカーからはモダンジャズ。
店に入って3時間はたっているだろう。
学校のこと、街のこと、お互いのこと、ずっと話している。
そして必ず出てくる、同じ名前。
東城のこと。
今でも大好きだと語る春菜。
行けるのなら今すぐ飛んで行きたいと。
彼女、つくっちゃったかな?
大丈夫だと、笑顔で答えるしかない俺。
同じの何度も読み返すんだよ。
メッセで交わされる毎日のやりとり。
繋がっていると実感できる、唯一の手段。
内証で契約したスマホには東城の写真。
プリクラを複写してつくった待ち受け画面。
少しブレている2人の笑顔。
ときたま浮かぶ寂しそうな表情。
あの、ブレザー、うちの学校だ…
窓の外、歩く女生徒の姿。
虚ろに眺め、目をそらす。
聞いてしまった事実。
春菜は、学校でうまくいっていないという。
共学の神姫から女子高にやってきた春菜。
ふとしたひと言でターゲットにされ、友はいない。
登校も1人、昼食も1人、そして下校も。
ごめんね。もっと楽しい話するね。
気の利いたことも言えず、湧いてくるのは怒りだけ。
それは、名も知らぬ、彼女の級友に対してか。
それとも、東城なのか、御山なのか。
「きょうはありがとう。久しぶりに楽しかった。私は、まあ、大丈夫だから!」
別れ際、表情は前と変わらぬ春菜に戻っている。
少しは気が晴れてくれたなら、と思うし、思いたい。
「そうだ。俺、スマホ機種変したんだよ。撮ってやるよ」
駅前の、何ということもない歩道で写した彼女の姿。
ポプラの街路樹に手を添えて立つ、スタイル抜群の全身像だ。
「お宝写真ゲットォ! 帰ったら東城に見せびらかしてやるぜ」
「ふふ。あ、そうだ、山葉。これ、薫に渡して」
薄い緑色の封筒。
中身は軽く、手紙か何か入っているんだろう。
「春菜も手紙書くんだな」
「そりゃ字ぐらい書けるわよ、あはは……渡す機会、なくなっちゃってさ」
「え?」
「…プリクラシール。逢坂で、捕まる前の日…一緒に撮ったんだ」
「…分かった、確かに預かったぜ。必ず渡すからな」
「うん」
右手を途中まで上げて見送る春菜。
「…薫には、私は元気にしてたって伝えてね」
「…分かった」
頑張れ。
援軍は俺が必ず派遣する。
だから春菜、つぶされるなよ。
夕方の豊原市。
封筒をしまったバッグをぽんと叩き、山葉は中心部へ向かう郊外電車に乗り込んだ。
「東城。春菜を守るのはお前しかいないんだ。お前は絶対、春菜に戻るべきなんだよ」
◇ ◇ ◇
<5月3日夕方 山葉宅>
冷蔵庫の中には結構潤沢に材料が残っていて、これなら1週間ぐらいの篭城なら耐えられるかもしれない。
ふだんコンビニ弁当やレトルトになることもたまにあるが、趣味はまがりなりにも料理。部活は家庭部。
その名にかけて、いざとなればどんな創作料理でも…といいたいところだが、失敗することも多々。
しかし、朝「おいしい」と言ってくれた彼に、夜も満足してくれるものを食べてもらいたいとレシピ本を広げ奮闘している。
晩は餃子。
前にも作ったことはあるが、あの時は出来上がる寸前に兄が家を飛び出していってしまい、腹立ち紛れに全部自分で食べてしまったので味の感想は聞いたことがない。
それ以来の挑戦。
皮も手作り。
焼くのはごま油。
手伝うと言ってくれた彼には餡を混ぜてもらい、それが済んだらヘラで皮の中心に適量置いてもらう。
皮の端を濡らした指で湿らせて、包んでいくのは私の出番。
「あんまりたくさん載せると、皮を閉じられなくなっちゃうから」
「適量ってのが、難しいなぁ」
少なすぎたり多すぎたり、量はまちまち。
それでも、一緒に料理を作るという普段経験できないことに2人とも満足の表情だ。
やがて、大小さまざまな餃子がバットの上に並んだ。
「もうじきご飯が炊けますから、30分ぐらいたったら焼き始めますね」
「じゃあ、ひと息入れようか」
「なら、お茶淹れますよ」
ピンポン
玄関のチャイムが鳴る。
時計は19時を回っている。
世の中はまだじゅうぶんに動いている時間ではあるが、後ろめたさのある東城と美砂は不安そうに顔を見合わせる。
まさか、兄が帰ってきたとか…
ピンポン
間を置いてもう一度。
家の外には部屋の明かりも漏れているだろうから、居留守を使うのも逆に拙いか。
「‥はい」
探るような声で、美砂がインターホンの受話器をとる。
その間に東城は、念のため奥の使われていない部屋に退避する。
訪ねてきたのは隣の家の主婦だった。
昨日の夜、家の前に立っている不審な人影を見たので、変わったことがないか注意しに来たのだという。
「夜中の1時過ぎに帰ってきた、うちのおとうさんが見たっていうから」
「‥そうなんですか」
「変質者とか最近多いから、美砂ちゃんも気をつけた方がいいわよ」
「はい」
「何かあったら大声出しなさい。すぐに飛んでくるから」
「はい。ありがとうございます」
かちゃん。
ドアを閉め、チェーンロックをかける。
「東城さん」
足早に戻ってきた美砂は不安そうな表情だ。
ふだん、兄妹だけで生活しているため、両親が両隣の家に頼んでいるのだろう。
「確かにそんな時間にいるのは変だけど、たまたま通りがかった人かもしれないし…それに」
「…」
「それに、オレがいるんだから大丈夫だよ。美砂のこと、守るし。心配するな」
「そうですね」
美砂は笑顔を取り戻し、東城の腰にしがみついた。