第106話:おかえり春菜・1
文字数 2,729文字
見慣れ始めた景色も、これで最後になる。
ホームに見送りの姿はないが、寂しくはない。
今日から戻ってくる楽しい日々。
勝手知ったる懐かしのあの街へ。
多少の荷物も重たくはない。
「あ、薫? 今、空港。あと少ししたら搭乗だから! うん、遅れてないよ。そっちも晴れてるんでしょ? さっき待合室のテレビで天気予報やってた。でも、暑そうだねー」
スマホで話す声も弾む春菜。
白い姫高のセーラー服。
左胸には1年のときの文化祭で買ってもらった小さなクルス。
何もかもがあのころに戻る証し。
待合室の窓越しには、旅客機の大きな機首が見える。
既にボールディングブリッジは接続され、コンテナをいくつも牽引したトラクターが機体の下をちょろちょろしている。
その向こうの滑走路を、今まさに飛び立たんと、小さな旅客機が轟音とともに全力で駆け抜けた。
「ご案内します。帝国航空302便、羽根田行きは、これより搭乗手続きを開始いたします…」
「春菜、搭乗始まるわよ」
「じゃあ、薫、もう飛行機乗らなきゃならないから、うん、羽根田着いたら乗る電車連絡するね。いっちばん前に乗ってくから! じゃあね、待っててね!」
希望への扉が開く。
あの街へと続く、春菜にとって特別な扉が。
小さくなってゆく、北の大地。
遠くの山にはまだ雪が残り、ふもとは濃い緑。
それに分け入るように刻まれた、幾条もの曲がった川。
濃い青色の海には波もなく、行く船ももはや豆粒だ。
やがてそれらも雲の下に隠れ、苦痛の日々は終わった。
◇ ◇ ◇
「まずは北からです。樺太方面は全般的に晴れるでしょう。降水確率は豊原が午前、午後ともにゼロパーセント、
こちらも晴れだが、梅雨のない樺太はもちろん晴れ。
飛行機もちゃんと飛ぶだろう。
朝早くに起きて、そわそわしている。
学校でもないのに、朝6時前に起きたため母親も驚きだ。
国営テレビでは天気予報が終わり、ニュースに切り替わっている。
どうやら甲子園出場校がすべて出揃ったよう。
暑い夏がやってきますねぇ。
親父は俺に遅れること30分で起床。
一瞬意外そうな顔をしたが、
父母ともに出勤していくとオレ一人。
ちょっと眠くなるが、ここで寝るわけには…
「おお、天気いいみてーじゃん! 飛行機は遅れてないよな? こっち? こっちも真っ晴れよ! でも30度越しててやってらんねー」
9時ちょっと前。
春菜からの電話に気勢が上がる。
これから飛行機に乗るようだ。
「あ、もうあれか、飛行機乗る時間? そうか。じゃあ、羽根田着いたらトークでいいから乗る電車連絡くれよな。彩ケ崎の駅で待ってるよ。うん、それじゃ、気をつけて」
樺太を午前9時に出発の便だから、羽根田着は11時30分ごろ。
荷物受け取ったりするから、電車に乗り込むには30分以上はかかるな…
彩ケ崎は空港特急もあるけど、止まるのは上りだけだから、特快にでも乗ってくるのかな。
12時過ぎに羽根田を出れば、午後1時ぐらいには彩ケ崎だな。
よし、ホームで驚かせてやる。
その前に、山葉に電話しとくかな。
そんで、腹ごしらえっと。
◇ ◇ ◇
地元で出迎えなきゃ、出迎えたことにならねーという東城の理屈も、何となくわかる。
俺だったら空港まで行ったかもしれないが、育った街に帰ってくるんだから地元の彩ケ崎で待つというのもアリか。
あいつらしいな。
春菜が着くのは午後1時過ぎになるんじゃないかということで、俺にも前々からお誘いがかかっていた。
ほかにも、かすみとか来栖や穐山、紀伊國、柏木なんかが来るらしい。
かすみは実家の蕎麦屋の手伝いだったのを、きょうだけ休みにしてもらって来るというから、みんなも大歓迎だな。
1時過ぎなら直前でもいいんじゃないかとも思うが、東城はよほど待ちきれないのか、数日前から、12時半ぐらいには駅に行くと宣言してたので、その時間に俺も付き合うことにした。
朝から空には雲ひとつなく、暑い夏の日。
きょうも部活があるという美砂。
母の作った弁当の包をサブバッグの底へ丁寧に置く。
東城との日々が終わった美砂は、きょう春菜が帰ってくるということは知っているのだろうか。
仮に知っていたとしても、もはや感慨があるのか、ないのか。
ここのところ、美砂は非常に落ち着いた毎日を送っているようで、きょうだいの関係も、去年の大雨騒動があったころ以前の平穏な状態に戻っている感じがする。
この歳にありがちな、朝、顔を見ても不機嫌そうな挨拶しかしないときもあるが、東城と付き合っていたころの、俺に対する忌々しそうな態度とは明らかに違う。
口数は少なくなって、どこかおとなしくなってしまった、というより、借りてきた猫みたいになってしまった気もするが、部活にも復帰し毎日のように出かけ、美砂も吹っ切ろうと頑張ってるんだろう。
「きょうは美砂の好きなスクランブルエッグだよ」
母と一緒に食卓に皿やコップを並べる。
こくりと頷いて席につく美砂。
「って、オムレツが出来損なっただけなんだけどね」と、失敗を自分でフォローする母さん。
「…ありがとう。いただきます」
そういう美砂は、いつでも学校へ行けるよう、すでに制服姿になっていた。
トーストに載せた崩れたオムレツもどきは、朝の胃袋を刺激し、みるみるうちになくなってゆく。
テレビでは朝の連続小説も終わり、ニュースに続き、男女のアナウンサーがにこやかな笑顔で街ネタを提供している。
へー、渋谷であんなのやってるのか。
パンをかじりながら、画面を注目する。
面白そうだから、休み中にでも行ってみるかな。かすみや東城たちも誘って。
つーか、テレビでやっちまったらメチャ混みすっか…うーん、ホトボリ冷めるの待った方がいいかもしれないな。
でも、期間は8月いっぱいか。
夏休み中に行くしかないじゃないか。
そんなことを考えているうちに、ひと足早く食べ終わった美砂が、すでに空いた食器を流しに運んでいる。
白のセーラー服。
紺色の襟に太い一本線。
半そでから、華奢な腕をのばし、皿をすすいでいる。
水道の流れる音。
「ああ、いいよ美砂。置いときな。母さんやるから」
俺もさっさと片付けるかと思ったとき、その音に混じりスマホが振動を始めた。
東城のようだ。
「うい~す。おお。うん、うん。じゃあまあ、1時過ぎってのはだいたい間違いなさそうだな。ああ。分かってるって、ホームで待つんだろ。ああ、わーった」
あと数時間もすれば、春菜が戻ってくる。
短いようで長かったが、ついに、この日がやってきたんだな。
それを実感させる、東城の弾む声だった。