第105話:心の隙間・2
文字数 5,161文字
それは、あなたにしかできないこと。
あの人は、あなたが見えなくなっているだけ。
でも、必ず、あなただけのものになるわ。
あなたには私と同じ思いはしてほしくないから。
あなたなら、できるわ。
私は、あなたの味方。
幸せだったときのことを思い出すの。
目をつぶって思い出してみて。
同じ日々が戻ってくるわ。
あなたは捨てられたんじゃないの。
あなたは、あなただけの宝物を、横取りされたの。
憎むんじゃないの。
またひとつになるの。
悪いのは、あの子だけ。
あの子の目の前で、あなただけがあの人にとっての永遠だと、教えてあげるの。
それは反芻される。
寝ているときも、起きているときも。
それは儀式。
その日が終わり眠る前、部屋の外を眺めること。
そこには、取り返すための方法を教えてくれた、理解者の姿。
それは道標。
なすべきことを教えてくれる。
月明かりのように照らし出し、暗かった道を染めて。
それは暦。
あの人が再び自分に戻ってきてくれる日への、カウントダウン。
その日が近付くにつれて強くなっていく心の力。
理解者がくれるその力は、
蝋燭のように優しく明かりをともし、温かくゆらめく。
それは義務。
理解者の言うとおりに振る舞うこと。
そうすれば永遠は自分だけのものとなる。
そのために守るべきこと。
今を耐えれば、解き放たれる。
◇
◇
◇
「…着いたらお昼しようね。それまでは何も食べちゃダメだよ(ウソ) 明日の今頃は一緒か~!楽しみだねぇ」
昼飯か…。
何にすっかな。
ファミレスとかバーガー屋はあっちにもあるだろうから、
「ねえ、東城」
う~ん、いかにも彩ケ崎に帰ってきたってトコがいいよな
チェーンとかじゃなくって、彩ケ崎にしかないもの…
「ちょっと、東城ってば!」
春菜からのメッセを読み耽り、心ここにあらずって感じで分からなくなっていたが、船橋の怒りの声で我に返る。
夕方近い実行委員会の作業部屋。
今作っているのは部活紹介の冊子で、秋の記念祭で配るものだ。
本当はほとんど完成していたのだが、野球部が県大会に初出場を果たしたことで、写真などを大幅に変える必要が生じ、編集をやり直す作業の真っ最中だ。
なんでも4ページ増えたらしい。
「あ、わりい」
「もう、あんたって、どうせ佐伯さんのことばっかり考えてるんでしょ。それもいいけど、今日中に終わらせないと、あしたも出てもらうわよ!」
怒ってるんだが何となくにやりと笑っている船橋は、横の席でキーボードの手を休め画面を指差している。
春菜があす帰ってくることは船橋も知っており、だから「あしたも出てもらうわよ」なんて言ったんだろうが、当の船橋の力技で作業はほとんど終了しているといっていい状態だ。
東城は目の前のパソコンを使い、掲載する写真を決めてクラウドのフォルダに移す役目だ。
船橋はそのフォルダからさらに選別し、サイズを変え冊子の編集画面に貼り付けてゆく。
「ヒットのシーン、縦の写真はない?」
「縦のはボケてるのしかなかったぜ」
「しょうがないわねー。正方ので使えるのあったらトリミングするか」
と、こんな感じに。
この記念祭の準備作業は夏休み返上で行われているが、さすがに全員登校しているわけでなく、担当を決めてそれぞれが時間割のように作業日や時間を定めてやっている。
手際の悪いグループになるといつまでたっても終わりが見えてこなかったりするが、船橋が仕切ってるといっていい3年N組は彼女のおかげで非常にスムーズに進み、数日のアドバンテージまで持っている。
アドバンテージはすなわち、作業をしなくていい日が増えるってことだ。
もともとお盆周辺は休みになっているが、船橋は地方から出てくる従姉妹と来週マイハマランドに行く約束をしているみたいで、休める日を何日か稼ぎ出したいらしい。
やっぱり、動機付けってのは大切なんだな。
「次は応援席の写真ね…って、何よこれぇ!」
船橋はフォルダを開くとあきれた顔で東城の方を向いた。
ニヤニヤする東城。
「あんたねぇ、こんなパンチラ写真使えないでしょー」
「いや、これはスコートだぞ。ぱんつじゃあない」
「一緒よぉ! もー、やらしいんだから。男子ってみんなそういうもんなの?」
応援風景の写真はきっとほかにもあったに違いないが、東城が選んだものはほとんどがチアガールをローアングルで撮影したもので、脚を上げている彼女らのスカートの中が丸見えのものもある。
こんなのを撮った写真同好会もどうかと思うがね。
「まあ、山葉とかも見れば喜ぶんじゃねーのかな」
「まったく」
しかしここは東城らしいというか、ボツになるのは織り込み済みで、ちゃんと人前に出しても恥ずかしくない写真は別のフォルダに集めてあり、そちらのマトモな写真を使うことで、編集作業も順調に進んでいった。
◇ ◇ ◇
「ふう。できた」
船橋はパソコンの横に置いてあったペットのお茶を飲み干すと、さっきまでのちょっとカリカリした表情も和んだ様子だ。
さっそく全ページをテスト印刷するべく、紙が足りるかどうか、プリンターのトレーを引き出してチェックしている。
「東城、そこのA4の紙をひと束とって」
「あいよ」
東城は袋から100枚の用紙を取り出し、少し捌いてから机の上にコンコンと打ち付けて手渡す。
紙をセットし、印刷のボタンを押すと船橋は、ようやく椅子の背もたれに全体重をかけ、キューっと体を伸ばした。
へそがちらっと見える。
両腕をV字型に、両脚もぴーんと伸ばしたため、後ろ向きに思わず椅子ごと倒れそうになる。
「あっ」
船橋が悲鳴を上げるよりも早く、東城は後ろに回りこみ、彼女が床に叩きつけられるのを防いだ。
彼女の両脇を支え、助け起こす。
「あ、あ、ありがと…その、東城…くん」
あの船橋が顔を真っ赤にしている。
そういえば船橋は以前、東城に告った? ようなこともあったが、今でもそのときの気持ちはあるのだろうか。
先日も初めて2人だけでメイド喫茶デートを楽しんだわけだが。
しかし、あすは春菜が帰ってくる日。
もう、間に合わない。
そんなことを思ったかどうかは分からないが、顔は赤いなりにすぐ椅子に座りなおすと、船橋は照れ隠しのように「さーてと」と声を上げ、妙な雰囲気を変えるためか東城の方に向き直り、あれやこれやと雑談のネタを振り始めた。
東城はバッグからパックのお茶を2つ取り出すと、1つを船橋に渡し自分もストローを突き刺し飲み始める。
印刷は160枚。
時間も結構かかりそうだ。
「にしても、山葉も休みだし、御山さんは全く出てくれなくなったし、さすがに私、紫村先生に言うわよ今度」
「いや、山葉はもともと今日は休みだから仕方ねーんじゃね。それによくやってくれてるだろ」
「まあ、そうなんだけど、問題は御山さんよ」
「…」
「あの子がいれば、少しは楽になったはずなのに、応援準備のときも全然だったじゃない」
「なんか用事でもあるんじゃねーの?」
「って、ああ、そういえば」
「ん?」
「あの子、山葉の妹とはどういう関係なの?」
「え?」
実行委員会の仕事をする義務がある沙貴子は、作業部屋に顔を出さなくなって久しい。
以前修羅場って、その後彼女なりに吹っ切れたのか、普通いや前より明るくなったように見える沙貴子。
あんな思いをさせ彼女には申し訳ないことをしたと思う。
女の子を傷つけた、そんな自分が情けないとの思いは今でも強いがすでに決着していることだ。
その彼女が姿を見せなくなったのは、何か唐突な気もする。
一番最近、彼女を見かけたのは1学期の終業式のときだ。
彼女の性格を考えると、途中で、しかも無断で仕事を放り出すとは思えない。
夏休みでもあるので、それなりにどうしても外せない用事なんかもあるんだろうか。
しかし、そんな沙貴子を船橋は何度か目撃したのだという。
しかも、美砂と一緒にいるところを。
「帰りに花房神社の前を通るじゃない。あの2人が神社の中に入っていくところを見たのよ」
「あの2人が?」
この2人にはもちろん接点はある。
だが、仲が良いという接点ではなく、全くその逆だ。
「見間違いじゃねーのか?」
「なわけないわよ。こう見えても、人の顔を覚えるのには自信あるんだから」
確かにそうだろうな。
船橋はこうやって実行委員をやっているときも、別のクラスや他の学年、それにたまにやってくる中等部の連中もちゃんと名前で呼んでいる。
オレなんか、いまだに名前と顔が一致しない奴がいて「ちょっと、ちょっと」って呼ぶしかないときがあるってのにだ。
ましてや中等部の生徒なんか分かるわけがない。
それが、船橋は一度会っただけで覚えてるわけだから、これは一種の特技みたいなものなのだろう。
「確か、2度ほど見かけたわね」
「2度も? 話しかけてみればよかったじゃねーか」
「私、バスよ。この暑いのに駅までなんて歩けないわよ」
沙貴子と美砂が会っている。
オレと浅からぬ縁だった2人の女の子が。
なぜこの2人が会うことになったのか、もちろん分からない。
ただ、沙貴子も美砂も心根は優しい子たちなのは間違いない。
オレのせいで2人は酷いののしりあいをしたこともあったが、それを修復したのなら喜ぶべきことだ。
あの2人なら、できる。
本当はオレがそういうのを取り持たなければいけないんだろうが、それは彼女たちが嫌がるだろう。
いつの日か、もう一度謝ろう。
許してはくれないだろうけど、特に美砂は顔を合わせるのも拒否するかもしれないけど、もう一度、心から。
そして、以前のように気軽に話せる間柄に戻れれば…などというのは、やはり自己中心的な考えだということは分かっているけども。
印刷も終わり、2部ずつに分ける。
あとはページ番号や誤字脱字がないかチェックすれば終了だ。
80枚1組になった部活紹介冊子の、言ってみればゲラ刷りが完成したわけだ。
積み上げた80枚のプリント。
1枚目は表紙で、2枚目が表紙の見返り部分。
すべてのチェックが終われば、裏表印刷して40ページの冊子となる。
1枚、1枚、チェックが続く。
ミスや手直しした方が良さそうな個所を見つけると、その部分に印をつけたり、書き加えたりし、付箋をつける。
特に部の名称や部員の名前は要注意だ。
もちろん、点検は東城と船橋だけの仕事ではなく、委員会のほかのメンバーや、部の責任者を呼んで最終チェックはしてもらうことになってはいるが、それまでに潰せるミスは全部潰しておきたい。
きょうは、そこまではやらなければならない。
神経を使うだけに、結構苦痛な仕事ではある。
「にしても、不思議よね。あの2人」
ゲラに目を落としながらも、
「だってさ、あなた、御山さんと別れたわよね。だけど、山葉の妹さんとも付き合ってたんでしょ?」
当たり前といえば当たり前だが、船橋はオレが美砂と別れたこともちゃんと知っているようだ。
そりゃそうだよな。
怪我だらけで手を繋いで登校し、校門前で山葉ともども風紀指導の教師に見咎められ、全校に晒されてしまった関係。
そして、一緒に登校しなくなったとたん「あの2人、別れたらしいわよ」と、これまた一瞬で広まってしまった事実。
知らないわけはないだろう。
だが、こうもあからさまに質問されると返答に窮する。
「前に話したじゃない。御山さんが中学でバレーやってたときの、執念深かったって話」
「ああ」
船橋はいつの間にか全ページの点検が終わっていたようで、こちらを見据え真顔で尋ねてくる。
沙貴子が中学にいたころの例の復讐話は確かに聞いた。
そして、春菜が体育祭のバレーの練習で沙貴子にいたぶられたことも、ちゃんと覚えている。
さらに、春菜が転校した後、沙貴子が彼女に対してした仕打ちも…
「御山さんがあんたに振られて、その後で山葉の妹と付き合ったわけだから」
船橋が言いたいことは良くわかる。
敵対して当然の2人が一緒にいる。
そして、その2人はともに同じ傷を負っている…
「佐伯さんが戻ってきてから、この2人がなんか変なことしなきゃいいんだけどなって。まあ、あんたの彼女のことだから、私がどうこう言うアレもないけどね」
しかし、これからは毎日、春菜と一緒にいる。
何か起きても俺は彼女を守ってやれるし、守ってみせるし、沙貴子が美砂に何を伝えているのかは知らないが、美砂は沙貴子に何か言われて事を起こすような子ではない。
「分かったよ」
そう短く返事すると、オレの作業も終わった。
誰もいなくなった作業部屋の明かりを消し、ドアを開ける。
やっと帰れる。
きょうの作業は長かった。
「あした、何時に帰ってくるの?」
「1時過ぎには彩ケ崎着だな」
施錠すると船橋は、ちょっとうつむいて東城の手を握った。
「…最初で最後の役得…いいよね、これぐらい」
船橋の思い。
あす帰ってくる春菜。
すべてを察し、東城はそっと抱き寄せ…キスをした。