第83話:怨嗟の影
文字数 4,151文字
「どうしたの東城さん、きょう、変」
passion heart 2。
302号室。
美砂は怪訝そうな顔で、東城を眺めた。
いつもなら結構時間をかけて美砂を愛する彼だが、きょうは部屋に入っても何もする気にならず、美砂と抱き合うことしかできない。
背中を撫でる指もどこか硬い。
「疲れてるんですよ。無理しないでくださいね、東城さん」
昨日の修羅場。
そしてきょう、船橋から聞いた沙貴子の過去。
何となく自宅に行く気にはならず、東花岡の駅近くで合流し、ここまでやってきたのだ。
「ふふ。そういうのも、たまにはいいかな」
何も知らない美砂は笑う。
笑顔に落ち着き、例によって髪をぐしゃぐしゃにしてみる。
だが、ふと、沙貴子が近くに来ているのではないか、ホテルの前にいるのではないかという、漠然とした不安にかられる。
東城にしか見えない沙貴子の影。
鏡に映る東城と美砂の姿。
しかし、そこにいてはいけないはずの第3の姿が映っているような気がしてならないのだ。
それでも冷静に考えれば、沙貴子は自宅で休んでいるはずだし、このホテルだって知るはずもない。
聞くんじゃなかった、あんな話。
…思い過ごしだ。時間がたてば、何とも思わなくなるさ。
「今度はわたしから」
抱きついてきた美砂を受け止め、今度は優しく愛し始める。
「じゃ、またあした」
あと二つ角を曲がれば美砂の家。
いつも、ここでキスをして別れる。
毎回このパターンだ。
家の前まで送って行きたい気持ちは当然ある。
だが、山葉と不期遭遇しないとも限らない。
美砂の後姿を見送る。
角を曲がる直前、こちらを振り返る。
お互い小さく手を振る。
きょうはちょっと遅くなった。
スマホで時間を見ると間もなく午後9時になろうとしている。
家に急ごう。
美砂とは毎日のように会ってはいるが、家に招き入れたりホテルに行ったりするのは多くない。
そもそも下校も別々で、山葉や学校の連中にバレない程度に公園で話をしたりする程度だ。
思えば不自由な思いをしてるが、それがまた逆にスリルとかあっていいと、お互い思っている。
そりゃ、堂々と手をつなぎ下校デートをしたり、駅近くに来るキッチンカーで人気のアイスクリームやクレープの一つや二つご馳走してあげたい思いはある。
しかし、バレないようにするにはこれが限度だろう。
まあ、沙貴子には、バレてしまったわけだが…
沙貴子、このことを知ったとき、どう思っただろうか。
誰かにしゃべったりしないだろうか。
幸い、沙貴子は山葉の天敵なので、この線が繋がることはないだろうし、ないと信じたい。
しかし、気になるのはやはり船橋の話。
俺と美砂が付き合ってることを知らないで話したわけだから、余計に気になる。
かといってこんなこと、誰にも相談できないしな。
背中がなんとなく、むずがゆい。
じっと、後ろ姿を見られているような、嫌な感覚。
振り返る。
もちろん誰もいない。
アパートもすぐそこに見えている。
さっさと部屋に入ろう。
がさっ
思わず音に身構える。
建物の影から現れたのは、ゴミ袋を持った住民。
脅かすなよな。
ほっとため息をつく。
再び思う。
そのうち、何とも思わなくなるさ。
◇ ◇ ◇
<5月14日 月曜日>
考え過ぎということは分かってる。
分かってはいるんだが…
東城はその後も、いないはずの沙貴子の影に、得も言われぬ不安を覚え続けていた。
「東城さん…」
ここは東城の部屋。
さっきも抱き合ってキスをしていたのだが、その最中、台所の方で聞こえた水がぽたりと落ちる音に動揺し体を離してしまった。
自分の家の中、2人以外には誰もいないことが分かっているのにだ。
「ごめん美砂、何でもないよ。変わったHなこと考えてただけさ」
「ええ? どんなことですか?」
「それはナイショ…」
その場はごまかしキスをする。
しかしこの先もこんなことが続いていったら、美砂とうまくやっていけるのだろうか。
外の足音もいちいち気になる。
今までだって当たり前のように聞こえていた音なのに。
眠れず明け方近くまでベッドの中で起きていたときも、ポストに放り込まれた朝刊の音に全身の神経を逆なでされたように驚き、結局一睡もできなかったこともある。
一昨日の夜も、帰ってきたとき、呼んでもいないのに無人のエレベーターが下りてきて、乗る気にならなかった。
乗れば乗ったで、エレベーターの窓から見える通過する途中のフロアに沙貴子が立っているような気がして目をつむってしまう。
気になりだすと止まらない。
下らないと分かっていても悪循環。
沙貴子は登校こそしていないが、死んでしまったわけではない。
それなのに、彼女の念が体から抜け出し、まるで東城の周りを絶えず浮遊しているような、そんなあり得ないことすら考えてしまう。
振り払えない。
振り払おうとすればするほど、頭の奥底にまで深く入り込み、抜けなくなっていく。
このままでは、精神は蝕まれてゆき、美砂との関係もいずれ壊れてしまう…
嫌だ、そんなことは、嫌だ。
「じゃ、送っていくよ」
この言葉も、自分が1人取り残されるのが怖くて言ったようなものだ。
結局、情けないことに、美砂を送った後は何年かぶりで駅まで母親を迎えに行ってしまった。
1人になるのが怖いあの部屋へ、一緒に帰ってもらうために。
『どうしちゃったんだ、オレ』
こんなこと、毎日続けられはしない。
もう嫌だ。
どうしてこんなに臆病になったんだろう。
怯えてるのか?
そんなことはない…はずだ。
相手は生きている人間だ。
だが、曲がり角が気になる。
夜の闇が不安だ。
1人になる空間が薄気味悪い。
手洗いに入っていても、風呂に入っていても、気配を感じる。視線を感じる。息遣いまで感じる。
沙貴子…どうしているんだろうか。
ずっと学校に来ていない、沙貴子。
とにかく変な呪縛から逃れたい。
沙貴子…本当に家にいるのだろうか。
家にいることを確認したい。
それで楽になれるのなら…
無意識のうちに握り締めていたスマホ。
トーク画面の、沙貴子の名前。
「今、どうしてる?」
ただそれだけの文面。
送信…して、いいのか。
いいんだ。
あんな酷いことをしたのに。
いいんだ。
目の前で嘘を言い、傷つけまくったのに。
いいんだ!
どんな恨み辛みの書いてある返事であってもいい。
ここではない別の場所に、沙貴子がいるという証拠が欲しい。
オレさえ良ければいいんだ!
楽になりたい。
自分が楽になりたいという気持ちだけで、
美砂とまた、心置きなく過ごしたいという気持ちだけで、
送信ボタンを押した。
机の上の、使わなくなったアラーム時計が時を刻んでいる。
ベッドに仰向けになり、時間は手の中のスマホで確認する。
午前1時。
1分、1秒が長い。
・・・・・・返事・・
・・・・・・・・・来る・・
・・・・・・・・・・・・わけ・・
・・・・・・・・・・・・・・・ない・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・よ・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・な・・
◇ ◇ ◇
夢を見ている。
見覚えのある場所。
学校の、チャペルの中だ。
春菜が見える。
山葉もいる。
かすみもいる。
ほかのクラスメートも、先生も、理事長も。
ここは壇の上なのだろうか。
みんな少し下の位置に集まって、拍手している。
楽しそうだ。
笑っている。
何かいいことでもあったのだろうか。
壇を下りる。
おい、何があったんだよ?
返事はない。
山葉、何を喜んでるんだ?
こちらを見もしない。
春菜、いつ帰ったんだよ?
壇上を見て、拍手を送り続けている。
何があるんだ。
…沙貴子、か。
制服姿なのに、ベールを被って頭にはティアラ。
左薬指には銀色の指輪。
沙貴子、結婚したのか。
表情が硬いな。
もっと楽にすればいいのに。
相手の姿も見えない。
でも、胸のところに両手で写真を抱えて。
黒い‥リボン?
いったい誰が映ってるんだ。
映ってるのは、2人………え?
ぶーん、ぶーん
着信の振動に夢が妨げられる。
握り締めたままのスマホが点滅し、メッセージの到着を告げている。
「!…さき‥こ」
時計を見る。
随分寝たような気がしたが、10分も経っていない。
恐る恐る、アイコンをタップする。
「今、下にいるよ」
全身に走る悪寒。
噴き出す得体の知れない汗。
スクロールしても、それ以外には何もなく、ガチガチ震え、衝突する歯。
沙貴子の家から
10分で
来れるはずは…
ない!
嫌だ! 嫌だ! 嫌だ!
助けてくれ! 許してくれ!
俺は、外なんか、行か…ない! 行きたく…ないんだァ!!!
それでも、見えない糸を首に巻きつけられたように引っ張られ、通路に引きずり出される。
目を閉じようとしても無理やり見開かれ、
目に飛び込んできたのは、
街路灯の白い光の中に佇んで、こちらを見上げる沙貴子の姿だった。
「東城‥さん」
「沙貴子」
向き合っている。
こんな時間なのに、彼女は制服を着て、まるで学校にでも行くような雰囲気だ。
5月とはいえ夜は肌寒いのか、制服の紺色のスカーフを外し、頭にかけている。
まるでベールのように。
「‥沙貴子‥」
「行きましょ」
「行くって?」
「ついてきて」
彼女に手を引かれ、一歩遅れて歩いていく。
暖かい手。
俺の手を優しく包み、引いていく。
深夜とはいえ、車一台走っていない道路。
音もなく、動いているものは俺たち以外は、黄色い点滅信号だけ。
どこまで歩くのか、東の方へ無言のまま。
不思議と、恐怖感はない。
たまに振り向き、少し微笑む沙貴子。
30分ほど歩き、ある建物の前に着いた。
passion heart 2
手を引かれ無抵抗のまま、廊下の案内灯に導かれ、
着いたのは302号室。
そして、ドアの閉まる音。
「東城くん」
ふと、我に返る。
「沙貴子…」
名を呼ぶが、声はどこか力がない。
答えずに、沙貴子はスカーフを頭から外す。
柔和な顔。
憎しみもなければ、悲しみもなく、純粋に見つめてくる。
「オレ…」
駄目だ。帰るんだ、家に。
だが、沙貴子はゆっくり手を握ると、引き寄せ、
唇を重ねてきた。
「‥沙貴子」
「恨んでないよ…また、会えたね」
「…」
「また、あなたと思い出を…つくれるね」
「…さ」
「あなたのこと…大好き」
「沙貴…」
「世界で一番、わたしを、わたしだけを…愛して」
「沙貴子…」
「…許して…あげる…から」
次の言葉はなく、ただ、目を閉じる沙貴子。
感覚が…なくなる。
東城は操り人形のように吸い寄せられ、粘液をたたえた食虫植物の葉が閉じるように