第78話:確信
文字数 2,952文字
黒っぽい服の女の子が立っている。
何本も植えられている大きな欅の下は、月明かりも届かず目立たない。
今の季節にはちょっと合わない長めのコート。
同じく黒のブーツとの境界線に見える肌色の僅かな領域が妙に艶めかしい。
公園の中は帰宅の勤め人が近道で通ることもあるが、きょうも休みの会社が多いのだろう。その数は僅かだ。
6階にある彼の部屋。
この位置から斜めに見上げると、通路に面したドアの上半分が、離れていてもよく分かる。
台所の窓には明かりが灯り、室内には人がいることを告げている。
帰りの東城はいつもと変わらなかった。
こちらから手を握ったら握り返してくれて、そのまま駅まで他愛のない話で盛り上げて。
電車の中でも授業や記念祭の話題で笑いを取って。
でも駅前で「じゃっ」と手を挙げ、そこでお別れだったけど。
「沙貴子、出かけるって晩ご飯はどうする気?」
「友達と、約束してるから」
「そう。遅くならないようにしなさい」
「…はい、お母さん」
ちょっと困った顔の母親にそう告げると、帰宅したばかりの沙貴子は急いで着替え、この場所にやってきた。
「きょう・・・・・・・ち時に」
それは待ち合わせか何かの時間だろう。
7時なのか、8時なのか、それとも11時なのか。
そんなことは分からない。
でも、この目で、確かめたい。
間違いであるということを。
◇
◇
◇
「だけど船橋、あれやり過ぎだって」
「書かないのが悪いんだから、自業自得よ」
「ジェシカのやつ、完全に落ちてたぞ。アメリカの留学生にあんなことして外交問題になったら船橋のせいだからな」
「さてと、ちゃちゃっとやって帰るわー」
ひと言コメントを集めた東城と船橋が戻ってきた。
船橋の手にはしわくちゃの紙が7、8枚握られており、かなりの「戦果」があったようだ。
一枚一枚確認しながら打ち込んでいく船橋は、仕事のメドがつきそうなことで普通の表情に戻っている。
カタカタと調子よく響くキーボードの音。
ひとしきり文句を言い終えた東城も書類棚からファイルを取り出すと、机の上のアンケート用紙を一枚ずつ手に取り、内容を確認しながら挟んでいく。
「えっとこれは、蓬莱、よもぎ‥や、ゆ、よ、で吉村の後ろ、と。そんで、これは…」
沙貴子は努めて平静を装い、何事もなかったように写真の仕分けを続けている。
「そんで、これは…み、み、みや‥ま」
名前にびくっとする。
見てはならぬものを見てしまった後ろめたさと、疑惑、憤り。
「みやま、の前の…
「でー・・・・ん?」
最後の一枚を取り終え、下から現れたスマホ。
小さな通知ウインドーには着信を知らせる文字が表示されているはずだ。
東城は立ち上がると、少し離れた場所に移動する。
この場でスマホを開きたくないかのように。
「じゃあ私、帰るから」
先に仕事を終えた船橋が声をかけて出て行く。
東城は手だけで返礼する。
いつの間にかほかの生徒も一部は帰ったようで、放課後来たときに比べ人数は半分ぐらいに減っているだろうか。
「うん、分かった分かった、・・・・だから・・は・・だろ? うん、うん・・・で・・・から」
かすかに聞こえてくる東城の声。
片手を添えて漏れないようにしているが、完全には防げない。
春菜からは毎日メッセが来ると言っていた彼。
春菜がメッセなら、電話の相手は、誰?
あの、待ち受けの…
「・・・うん、うん・・・・じゃ、きょう・・・ああ・・ち時に、じゃ」
電話を切った東城は、変わらぬ表情で席に戻ってくる。
ついでにファイルを戻し、スマホをサブバッグの中にしまう。
「終わりそう?」
横に座り、沙貴子の手元の写真に目をやる。
「これで、きょうは終わりなの。続きは連休明けでも大丈夫だから」
「そっか」
「…ねえ、東城さん」
「ん?」
「…きょう、うちに…来ない?」
自宅で食事か、あるいは何かほかのことでもするのか、そんな計画は特に立ててない。
だが、沙貴子はとりあえず聞いてみた。
いや、とにかく確かめたかったのだ。
もし彼に今夜何か予定でもあるならば少しは戸惑うなり迷うはず。
きっと答える前に、少しの沈黙があって、それで、
「いや、わりい。きょう予定あるし」
あっさりと答えられた。
迷いもせず、即答で。
「あ、そりゃそうだよね。連休前だし。急に変なこと言ってごめんなさい。忘れて」
ありったけの元気を出して、沙貴子は前言を取り下げた。
無理につくった笑顔を添えて。
◇
◇
◇
タクシー代は自宅からここまで1200円ちょっと。
市電なんて待ってられなかった。
時計を見る。
午後6時50分を回ったところ。
7時の待ち合わせなら、もう出てしまっているだろうか。
部屋の明かりだって、彼がいる証拠にはならない。
ちょっと風が吹く。
大木から波のような音が降ってくる。
濃紺の空に、かすかに見える雲。
10人ほどの客を乗せた駅行きのバスが、すぐそこの停留所に止まり、1人だけ乗せて発車していった。
8時を回っても部屋の様子は変わらない。
時間を確認したスマホで、そのままアドレス帳を開く。
電話か、メッセージを送ってみようか。
私がここにいることを告げようか。
いないならいない、それだけでも知りたい。
でも、できない、そんなこと。
まばらな客を乗せたバスが、少しだけ速度を弱め通過していった。
9時になった。
彼の部屋の前に立つ人影がある。
通路の明かりでショルダーバッグのストラップも見える。
何かをまさぐっているのか、やがて自分でドアを開け入っていく。
遠目にも中年の女性だと分かる背格好。
仕事帰りの彼の母。
部屋の明かり。
母親以外の誰かがいる証拠に、少し希望が湧いてくる。
でも、さすがに冷えてきた。
客1人だけを乗せたバスが、当たり前のように停留所を通過していった。
11時も近く、もう帰った方がいいのだろうか。
母からのメール。
行間には不安とともに怒りがにじんでいる。
厳しい母。
連絡もせずに帰宅が9時を過ぎ、平手打ちされたこともある。
漆黒の空には上弦の月と少しだけの星。
赤い行き先表示のバスにもはや客はなく・・・・・そのとき、玄関が開いた。
思わず歩道に飛び出し、左に合図を出したバスが止まりかかる。
すぐに木の下に戻り、通路の姿を追う。
動き出したバスのエンジンの音が遠くなってゆき、再び静まり返る公園の中。
どんなに遠くても一目で分かるその影は、まぎれもなく彼。
エレベーターホールに消えたところを見届け、少し場所を変える。
やがて現れた彼は、ちょっと大きめの荷物を肩から提げてこちらへ歩いてくる。
もう一度木の下。
反対側の歩道を歩く彼の顔を、髪の毛を、そして背中を追いかける。
次を左に折れれば駅へ…向かうことはなく、右に折れ迷いなしにまっすぐ進んでゆく。
そして左に折れて、もう一度右に曲がり…
「どこに行くの…」
心の中でつぶやきながら、10分足らずの短い旅。
着いた家の前。
玄関のチャイムを鳴らす。
開いたドアからこぼれる明かり。
肩から降ろした彼の荷物。
受け取った荷物を胸に抱えた、華奢なシルエット。
だめ、入らないで
握り拳の爪が手のひらに食い込む。
どうして、こんな
「わたし、御山先輩のこと尊敬してるんですよ」
ふざけないでよ…私のこと、バカにして。人の彼を…横取りして
閉まったドアに向けられた怨嗟のつぶやき。
それをはねのけるように、ドアロックの乾いた音が響いた。