第95話:春菜の元へ~その1
文字数 3,582文字
突然、夜遅くに訪ねて行った俺に、一瞬顔をこわばらせた東城だったが、告げられた事実に、ただ言葉を失っていた。
「山葉。お前、これ何の冗談だよ…」
やっと搾り出された言葉は、やはり、メッセージの内容を疑うものだった。
団地の下にある植え込みの横。
街路灯に照らし出されたベンチに腰を下ろし、東城の顔を見据える。
俺だってこんなこと信じたくない。
ひょっとして、俺たち春菜の友人を驚かせるため、北麗の連中が送ってきたタチの悪い「釣り」なのかもしれない。
だが、春菜が「うまくいっていない」のは事実だろうし、実際俺が会ったとき、彼女の口から出た言葉でもある。
「お前には言ってなかった、というか、言うタイミングがなくなっちまったんだけどな」
大きく息を吸い込み、そして吐き出す。
そして俺は、あの日、樺太で春菜に会った日のこと、そこで彼女から語られたことを、落ち着いて、冷静に伝えた。
一言も言葉を挟まず、黙って聞いている東城。
ややうつむき、右手の指で挟むように額を押さえている。
空には月。
ゆっくりと流れる夜の雲。
街路灯に寄ってきた小さな虫が、とりつく場所を探し、くるくると飛び回っている。
長い沈黙。
「オレに、どうしろって…」
東城が次に漏らした言葉は短いものだった。
業を煮やし、俺は畳み掛けた。
「お前、春菜をこのまま放っておくのか」
「…」
「今でも春菜はお前のことを思ってるんだろ。毎日メッセも来てんだよな」
「…」
「その春菜が酷い目に遭って、どうしようもなくなってるんだぞ」
「…」
「何黙ってるんだ。お前、春菜のところへ行ってやれ。そして助けてやれよ」
「…しかし」
「しかしじゃねーだろ! お前が行かなくって誰が行くんだ? 俺か? クラスの奴か? 違うだろ!」
思わず東城の肩をつかみ、体をゆする。
「お前じゃなきゃ、できねーんだよ!」
「…沙貴子、どうして」
「今は御山がどうのこうの言ってる場合じゃねーだろ。だいたい、御山以前に始まってたんだよ、あっちでは!」
東城は頭が混乱しているのだろう。
春菜と長い付き合いだった東城。
途中、美砂にちょっかいを出されても一応は折れなかった。
それが、春菜がいなくなったとたん、御山に落ち、その次には…美砂に手を出しやがった。
こんな奴、どうにでもなればいいと思う。
これが東城一人だけの問題で、ほかの誰も困らない、傷つかないというのなら、俺は間違いなく放置したはずだ。
だが、春菜は、春菜には何の責任もない。
俺が行って済むんなら、今すぐにでも行くさ。
当事者の一人は紛れもなく美砂なんだし。
しかし、残念だが、今の彼女に力をやれるのは、この東城しかいない。
こうして話している間にも、奴の頭の中には確実に美砂が存在しているはずだ。
その美砂が、東城の決心を邪魔しているのなら、それこそ俺にとっても不本意だ。
「はっきり言って、俺はお前のことを今この瞬間も殴りたくて、うずうずしてるんだ」
「美砂ちゃんの、ことか」
ああ、そうだよ。それもある。
俺だって、これを機会に東城が春菜に戻れば美砂が帰ってくるなんてことを考えてる。
春菜が死ぬかもしれなかったのに、それを美砂に、自分の望む結末に、結び付けて考えちまう自分にもムカついてるんだ。
だがな、この期に及んで東城の口からなおも「美砂」なんて名前が出てくることは、もっとムカつくんだ!
2日前の晩、美砂はわずかな着替えを持ちこっそり家を出て行ってしまった。
しばらくたって気づいた母さんは半狂乱になって東城の家に電話し奴の両親とひと悶着起こした。
もちろん、美砂は出て行ったとはいえ両親のいる東城のところへ転がり込むわけにもいかず、結局は駅前をほっつき歩いているところを補導され母さんが迎えに行った。
帰ってくると玄関から平手打ちのような音が聞こえた。
あの母さんが、俺たちに手なんか上げたことのない母さんが。
俺は息を殺し、自室で耳をそばだてていることしかできなかった。
俺はもうこれ以上心を乱されたくはない!
家の中を、家族を目茶苦茶にされたくないんだ!
「うるせーんだ! 美砂じゃなくって、春菜だろ! 春菜は死のうとしたんだぞ!」
立ち上がると俺は、東城の肩を激しく揺すった。
黙ったままベンチでうなだれる東城。
「あとはお前が考えろ」
あの日、春菜から託された手紙。
渡しそびれている間にあまりにもいろんなことが起き、ずっと持ち続けていた。
「やっぱりあれ、もう渡さなくていいよ」
その後、春菜は俺にそう伝えてきた。
中には何が書いてあるのか、もちろん知らない。
他愛のない日常が綴られているのか、東城を安心させるための空元気が記されているのか、そんなことは分からない。
だが、この手紙は今、きょうこの場で渡すためにあったんだろう。
バッグの中にずっとしまってあったその手紙と、別れ際にスマホで写した彼女の写真。
東城に黙って差し出し、その場を離れた。
◇ ◇ ◇
薫ゲンキにしてる?
スマホ取られちゃったから、手紙を書いたよ。
なんか薫に手紙書くなんて初めてなので何書いていいかわかんないよ。
なんかはずかしい(^-^;)
よんだら捨ててよ
とりあえずわたしはゲンキだよ
でもすごく寒いです・・・
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テレビのコマーシャルも見たことないのばっかでおもしろいよ
看板にはロシア語も書いてあるんだけど、数字しか読めません
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学校は、まあ、フツーかな
やなことも、あるけどね・・・
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毎日、姫高でのこと思い出すよ
みんなもゲンキかな?
N組はサイコーのクラスだったね
会いたいよ、薫とみんなに(もちろん薫が一番だよ!♪)
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うちの上をヒコーキが飛ぶんだよ
あれに乗ると帰れるのかな
でも雪に邪魔されてすぐに見えなくなってしまいます
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会いたいよ
会いたいよ
会いたいよ
でも、遠いよね
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いつか会える日までどんなつらいことも耐えるから
待っててね薫
添えられたプリクラシール。
家出し、逢坂で一緒に撮ったまま、ずっと春菜が持っていたものだ。
フレームの中で頬を寄せて写っている2人は、家出という緊張のためか、ちょっと真顔に近く、ぎこちなく笑っている。
東城の頬を光るものが落ちた。
◇
◇
◇
「春菜」
電話は3回目に通じた。
名前を呼んでも返事はない。
ただ、電話の向こうからは、そこに顔を押し当てているであろう人物の、かすかな息遣いは感じ取れる。
「今、写真見てるんだよ、お前の」
また電話は没収されたのかもしれない。
いま通じた相手は春菜の両親か、それとも違う誰かなのかもしれない。
続く沈黙。
だが、この無言の相手から伝わる思念、そこにいると感じられる一種の香りからも、東城は確信している。
電話の向こうには春菜がいると。
「手紙、ありがとな」
「…」
駅の方から、ピーっという機関車の警笛がかすかに聞こえてくる。
月にかかる雲は相変わらずゆっくりで、木々の葉はかすかに揺れるだけ。
通行量の少なくなった道を車が1台、昼間より速い速度で走り抜けていった。
返事のない相手に続ける。
「寒そうだな」
「…」
街路灯の傘の中に入り込んだ虫が翅を傘にぶつけ、じりじりという音をたてている。
団地の前にタクシーが止まり、屋根の上のハザードランプがオレンジ色の光を点滅させる。
少し左に傾き、元の水平に戻るとドアの閉まる音。
そして走り去る。
エレベーターホールの方へ消えてゆく足音。
「写真も見たよ」
「…」
団地の部屋の明かりが、ひとつ消えた。
取り込み忘れた洗濯物が、ベランダで月の光を受けている。
「珍しいなジーンズなんか履いて」
鼻をすする音がする。
「似合ってるじゃん。オレ、こういう姿見たことないよな」
「…うん」
春菜
「オレも、見たいよ」
「…うん」
久しぶりに聞く春菜の声
「写ってるのは家の近所?」
「…うん。山葉が撮ってくれた」
春菜だ、ああ、春菜だ
目を閉じると浮かぶ春菜はいつも笑っていて
「そうか。山葉撮ってくれたのか」
「…」
悲しそうな顔なんて一度も見たことなかったけれど、
「どうした?」
「…ケガしたんだ」
「ケガ? どこを?」
「脚。教室で…足かけられちった」
「!」
オレの知らないところで、悲しい顔を
悲しい顔を
「けがした跡…それを、見せたくなくって。だから履いたの」
「…春菜」
悲しい顔をさせられて
「会いたいよ」
「…春菜」
誰にも助けてもらえず
たった独り
「会いたいよ」
「…春菜」
電話の向こうから聞こえる泣きしゃべりの声。
いつしか東城の頬にも涙が伝う。
手にした電話。
薄くて軽い、どこにでもある無機質な物体なのに、
目の前のそこには春菜がいて、その髪も瞳もまごうことない春菜がいて、
その春菜は助けが来るのを待っていて、
東城は今、確かに彼女を抱き寄せ頬ずりをする。
「…春菜…ごめん」
「もう嫌だ、耐えられないよ。薫がいなきゃ…」
「…春菜」
「薫、助けに来てよ」