第87話:絶望
文字数 4,195文字
ぽっかり空いた4つの席。
別に風邪が流行ってるわけではない。
「いや、こう言っちゃなんだけど、穐山がいないと落ち着くわ」
山葉は隣席の怖い「姉貴」がいなくなったことで、羽を伸ばしている雰囲気だ。
翻って、「愛人」の紀伊國は浮かない表情で、さっきからスマホを握り締め、右手の人差し指を動かしている。
左手にスマホを持ち、右手の人差し指でキーを押すのが紀伊國の特徴だ。
クラスのほかの女生徒は、片手で持ったまま親指というのがパターンなので、ちょっと変わっててかわいい。
昼飯前最後の休み時間。
見回すと、ほかに空いている席は3つ。
慈乗院、来栖、そして、隣の沙貴子。
きょうからこの4人は、樺太にある北麗へ1週間の日程で交流に行っているのだ。
北麗‥か。
昨日の日曜に壮行会があり、各クラスからの36人はバスで空港へ出発していった。
きょうの1時間目から、すでに向こうの学校で授業を受けているはずだ。
どんな様子なんだろうか。
沙貴子とか、慈乗院は春菜に会っただろうか。
春菜。
どうしてるんだろうな、あいつ。
毎日メッセが来るから元気ではあるのだろうけども。
友達とかできただろうか。
でも女子高だし、なんか似合わないよなあいつには。
去年の今ごろは、何の疑いもなく春菜とこのまま一生、一緒にいるんだろうと考えていた。
しかし、思いがけなく春菜は転校していなくなり、その代わりのポジションには美砂がいる。
このことは、沙貴子以外は誰も知らない。
春菜や他の連中が知ったら、酷い奴だと思うだろう。
でも…仕方ないんだ。
俺は美砂が好きになってしまった。
そして美砂も俺のことを好きになってしまった。
もう離れられない。
いつかは春菜に言わなきゃならないだろうが。
今は、まだいいよな。
ごめん、春菜。
◇
◇
◇
「何だよ、慈乗院。お前とサシなんて初めてじゃねーか」
出発を3日後に控えた昼休み。
購買に向かおうとしたところを呼び止められ、オレはなぜか慈乗院と中庭で昼飯を一緒にすることになった。
「で、何か用でもあるのか?」
焼きそばパンをかじりながら、慈乗院の顔を眺める。
男2人でベンチに座り、お互い顔を見合わせるなんて、なんだかなぁ。
「来週、北麗に行くじゃん、おれ」
「ああ」
慈乗院は何となく探るような感じで話し始める。
「それで、佐伯に会うと思うんだけど」
要するに、春菜に会うであろう慈乗院は、オレと沙貴子の件をどうしたものかと気を揉んでいるということらしい。
オレと沙貴子が、春菜がいなくなった途端に付き合い始め、そしてあっという間に別れてしまったことは、もちろん慈乗院も知っている。
そのことを春菜は知っているのか、いないのか、そして春菜に何か聞かれたら何て答えたらいいものか、オレに聞いておきたかったということだ。
「これで御山がメンバーでなきゃ、ここまで悩まないんだけどね。うわっ!辛っ!」
慈乗院のカレーパンの袋には、鉄兜と炎のイラストとともに「激辛!突撃一番」と書いてある。
500ミリリットルのペットボトルを一気に半分。
大量に茶を補給してもなお辛さは消えないのか、異様な汗を流している。
「御山は何も言わないはずだぜ」
「ぐふっ! そ、そうか。なら、いいんだけど‥くう、辛い」
「だから、来栖と穐山にもさりげなく伝えてくれよ」
「ああ、分かった‥‥ひ~…で、佐伯に何か聞かれたら?」
「オレは元気にやってるからって…」
「そんだけでいいのか?‥‥ああっ、辛っ」
◇ ◇ ◇
<6月11日 月曜 北麗>
「春菜!」
「‥みんな」
休み時間の教室の一角。
春菜を囲む4人の顔。
「佐伯さ、元気そうでよかったよ」
慈乗院はニコニコしている。
「いやあ春菜さん、このブレザーかわいいですねぇ。何着ても似合いますねっ」
来栖は挨拶もソコソコに、制服を褒めちぎる。
「まだ4カ月だが、もう2、3年会ってないような気がするな」
穐山も懐かしそうに語りかける。
「‥‥」
御山は笑顔のまま、黙って頷く。
「みんな…」
春菜は少し涙ぐんで、言葉がなかなか出てこない。
「みんな…」
「ま、まあまあ春菜さん、久しぶりに会ったんですから」
ちょっと湿っぽい雰囲気を嫌って、来栖はいつもの元気な声を出しながら春菜の肩をぽんぽんと叩く。
「あ、ご、ごめんねぇ。久しぶりで、あは、なんていうか、急に涙出ちゃった」
学校側の配慮で4人は揃って春菜のクラスで机を並べることになった。
懐かしい顔、懐かしい声、懐かしいノリ、懐かしい制服。
メンバーは少ないが、まるで半年前、1年前に戻ったような感覚。
ホームルームが終わりそのまま授業となったため、待ち遠しかった最初の休み時間。
「来栖って、そういえば樺太に来たことあるって言ってたよね」
「来ましたよ~。生まれる前ですけどね~。お母さんのお腹の中にいました」
「それ、来たことにならないから」
来栖と慈乗院は漫才のような掛け合いを始める。
思わず笑みがこぼれる春菜。
思えば彼女がこの教室で笑顔を見せたのは、これが初めてかもしれない。
気が置けない楽しい仲間。
同じく姫高から派遣された隣のクラスの連中も顔を見せにやってくる。
あまり口をきいたことはなく当時は挨拶する程度だったけれど、やはり懐かしいのか、わずかの話題で盛り上がる。
「帰り、よかったらファミレスにでも行かない?」
「わぁ、樺太のファミレス、変わったメニューがありそうですねっ!」
「そうしよう、そうしよう」
「昼ごはんは抑えないとな」
神姫高校を思い出す楽しい空間で、会話は休み時間目いっぱい続いた。
◇
◇
◇
そして、楽しい日々はあっという間に過ぎ去り、慈乗院たちが内地へ戻るのもいよいよ明日。
「薫、元気にしてる?」
御山に時間をとってほしいと頼まれ、2人だけでやってきた神社の境内。
春菜は、何かを悟ったのか、ぽつりと呟いた。
日の傾くのが早い、北の街。
オレンジ色の光が、柔らかく降り注ぐ。
「佐伯さんは大学どうするの?」
「北麗には行かないよ。美咲女子大行くつもり。だめだったら、戻って仕事探すよ」
「そう」
「薫はどうしてるかな。あいつも前、
「東城さんとは連絡取ってるの?」
「毎日、連絡来るよ」
「そう」
「この前来たメッセにも、一緒に大学行こうって書いてあったし」
「そう」
春菜も分かっている。
御山がこんな話をするために、2人だけになる時間をつくったんじゃないってことを。
でも、わざとおどけた言い方をしてみたりして、漠然とした不安を何とか振り払おうとしている。
胸が、どきどきする。
「御山さんはどうする気? 9月には推薦入試だから、もう決めたんでしょ、進路」
「美咲女子に行くと思うけど…」
「じゃあ、みんなとまた一緒に遊べるね。山葉や慈乗院、ほかの女子もほとんどが咲女に行くんだし。楽しみだねぇ」
「楽しくなんか…ないよ」
「え?」
「佐伯さん、知ってるんでしょ?」
「え? 何の‥こと? わたし、何も」
「やっぱり‥‥聞いてなかったんだ」
御山は、春菜の顔を見据えると、東城と美砂のことを告げた。
「わたし、東城さんに言ったの。春菜さんがいるんだから、待ってなきゃ駄目だって。でも、東城さんは『ぼくはずっと前から美砂が好きだった』って」
「‥そんな‥何言ってるの、御山‥さん」
抑揚のない声で、御山は続ける。
「偶然、東城さんのスマホ見てしまったことあるの。待ち受け…山葉さんの妹さんとキスしてる写真‥だった」
「‥い、いつから‥なの」
「‥佐伯さんがいなくなって、すぐ」
「そうか…そうよね…美砂ちゃん…前から薫のこと、好きだったから…わたし、いないんだもん。‥そうなるに、決まってるよ‥ね」
「彼女にも言ったわ。人の彼氏を取るようなこと、すべきじゃないって。でも、あの子…あの子…東城さんと結婚するって」
「な! …嘘‥でしょ」
「嘘じゃないわ。高校卒業したら、ちゃんと結婚して、東城さんの子供産むって。彼も約束してくれたって」
「ああ、やめてよぉ、何言ってるのよ! そんな話!」
耳を両手でふさいでしゃがみ込む春菜。
だが、御山はなおも続ける。
「こんなこと言いたくないけど…東城さん、あなたのこと、もう何とも思って…ないわ」
「そんなこと、ないっ!」
「あなたのためを思って教えてあげてるの。分かって。あの人、『春菜のことはもう忘れた』って言ってたわ」
「いやだっ! そんなの信じないっ! 薫がそんなこと言うわけないっ!」
御山は耳をふさいでしゃがみ込んだままの春菜に哀れみのまなざしを向けると、「これだけは見せたくなかった」と言いながら、スマホの画面を向けた。
そこには、舌を絡めキスをする2人の姿。
美砂が手を伸ばしてスマホで撮ったのだろう、彼女の右腕は画面の途中で切れているが、その根元では目をつぶった美砂の頭の後ろに手を回し、唇を重ねている東城の姿がはっきり見て取れる。
御山が実行委員の作業室で東城のスマホを拾ったとき、とっさに接写したものだ。
「この2人、毎日のように愛し合ってるわ。あなたの場所は、もう、ないわ」
「いやあ! どうしてわたしにそんなこと言うの! どうして、わたしをいじめるのよ!」
「いじめてるんじゃないわ。何も知らず騙されてる佐伯さんが気の毒で…。悪いのは、東城さんを奪った、この娘なんだから」
「嫌だ‥嫌だよ。昨日だって、好きだってメッセ来たのに…待ってるって書いてあったのに」
「…たぶんそれ、この娘が…打ってるんだと思う」
「酷い、酷いよ…薫がいるから、また会えるからって信じて…耐えてきたのに」
這いつくばったままの春菜。
その目にはすでに生気はない。
手を繋いで歩く2人。
一緒に過ごした日々。
学校で、自宅で、ファミレスで、カラオケで、いろんな場所で楽しく過ごした思い出。
しかし今、いつも自分がいたその場所には美砂がいて、薫はわたしのことなんか忘れて、美砂のことしか見ていない。
わたしに向けてくれたあの眼差し、それはもう美砂にしか向けられてなく、今、この瞬間も、あの2人ははるか遠い彩ケ崎の地で…
わたしの帰る場所が…なくなっちゃった
薫は、わたしのこと…忘れちゃったんだ
もう、薫はわたしを助けに来ては…くれないんだ
「佐伯‥さん」
「う…うわあああああああ」
春菜の絶望の叫びが境内に響く。
見下ろす御山。
その口の端に、一瞬だけ白いものが浮かんだ。