第96話:春菜の元へ~その2
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お金の入っている水色の封筒を受け取り、東城は頭を下げた。
翌日。
教室の後ろ。
窓際の角で人目につかないように渡す。
昨夜、東城は春菜に電話をした。
そして、春菜の元へ行く決心をしたということを、すぐさま俺に連絡してきた。
今すぐにでも行きたいという。
その気持ちは非常によく分かる。
俺が東城の立場だったら、などと考えるまでもない。
しかし、高校生の身にとって、春菜のいる樺太への交通費は、天文学的といっては言いすぎだが、それほどまでに高く、おいそれと出せるものじゃない。
飛行機だけで片道3万円。
それに空港までの電車賃や、腹が減れば飯だって食わなきゃならないし、あちらに行けば行ったで宿代や、そもそも何日いることになるのかすら分からないのだから。
俺もそうだが、東城も夏や春のまとまった休みにでもならないとバイトはしていない。
普段の収入といえば、親から毎月もらう小遣いや、お年玉、春休みのバイト代の残りぐらいだ。
逓信貯金を全額引き出したり、引き出しの小銭をやっとかき集めて3万円ちょい。
これでは片道燃料じゃあるまいに、行っても帰ってくることはできない。
短期のバイトという手もあるし、実際俺たちはそういうのを何回かこなしてピンチを凌いだりした経験もあるが、まさか1日で2万も3万も稼げる夢のような話なんかあるはずもない、というか、そもそもたとえ短期でもバイトをする時間的余裕などない。
今すぐ東城は樺太へ飛ばなければならないのだ。
「みんなからかき集めたカンパだ」
封筒の中には俺からの3万円を含め14万円強入っている。
これに東城の手持ちの5万円を加えれば、端数なんかを足してざっと19万円ほどになるだろう。
◇
◇
◇
東城から連絡を受けた俺は、ネットで検索した樺太へのルートや必要経費などを伝えた。
羽根田から樺太・豊原への便は1日6往復ある。
落合や
あす出発なら、夕方6時の直行便だろう。
これは俺が5月に樺太へ行ったときと同じ便だから、こちらでの電車の接続なんかも経験済みで、何時に出ればいいか分かってる。
早いに越したことはないが、朝の便は午前9時。
今の時間、旅行代理店も閉まってるだろうし、そもそもカネがない。
あす一日、それも東城が出発するまでに1円でも多くカネを集めないと。
はやる気持ちの東城をなだめすかせ、とにかくあす、悟られないよう着替えなどの荷物をバッグに詰めて持ってくるよう言い含めた。
問題は、カネだ。
クラスでこの話をできる相手は限られている。
まずは、最初の連絡をくれた慈乗院に電話し対策を練る。
奴も事情が分かっているだけに、話は早く、快諾してくれた。
しかも、慈乗院からも吉村など数人に話を伝えてくれるとのことで、心強い。
次は、かすみ。
重い話だけに、電話ではなく直接、駅向こうの自宅前まで出向き、伝える。
かなりのショックを受けている。
それでも頭の整理がつき、冷静な顔に戻って力を貸してくれる。
「私も手伝うわ」
かすみの家への道すがら、生徒交換で北麗に行き、現地事情に他の生徒よりは詳しい穐山や、ちょっと迷ったが来栖にもメッセを送った。
もちろん、伝える内容は包み隠さずすべてだ。
「春菜がいじめで自殺未遂した。東城があす樺太へ向かうので至急カンパを願いたい。詳細はあす学校で話す」
ただ、これだけの内容で、中にはもう寝ている連中もいるだろうとは思ったが、意外にもリアクションは早かった。
穐山に至ってはすぐさま折り返しの電話があり、自分も乗り込むと息巻いていたが、さすがに断った。
ほかにも数人、同行を申し出る返事があったが、もちろん丁重にノーだ。
これは東城でなければ解決できない。
6月の平日に、何人もの生徒が学校を休んでは事が大きくなり、そもそも事情が事情だけに春菜も喜ばないだろう。
だいたい、多人数で押しかけてどうにかなる問題ではない。
5、6人で北麗に乗り込み、首謀者の佐々木玲子を痛めつけるのは簡単だろう。
佐々木をねじ伏せ、土下座させる穐山。
かすみや来栖、紀伊國に助けられ、ガードされる春菜。
「ごめんなさい」と泣いて詫びる佐々木の手下たち…
そんなシーンを夢想すれば、思わず拳を握り締め、一種の胸の高鳴りというか血湧き肉躍る武者震いみたいなものも感じる。
だが、それでどうなる。
俺たちが去った後、春菜は?
前にも増して酷い目に遭わされるのは、どんな鈍い奴が考えても明々白々だ。
それに、まがりなりにも姫高と同じ系列校で、今年は記念祭の年。
そんなことをすれば、俺たちだけでなく、責任のない春菜までが処分の対象となり、場合によっては退学だ。
いや、担任のかえで先生や理事長だってただでは済まないことになるだろう。
俺が冷静にならないでどうする。
慌しい夜が過ぎていった。
◇ ◇ ◇
美咲元町駅の改札。
通い慣れたいつもの場所から、東城は旅立とうとしている。
見送りは俺とかすみのほか、慈嬢院、吉村、来栖、穐山、紀伊國に織川とレナーテだ。
ここにはいないが、椎名や柏木に船橋、それに涼子までカンパに加わってくれたという。
穐山は手回し良く航空券の手配までしてくれ、これが餞別代わりだと手渡した。
「ご武運を」
この場にふさわしいセリフかどうかは置いといて、紀伊國は伸ばした両手を膝の前で重ね、お辞儀している。
「ドカンといっちゃってください!」
来栖はやはり何かを勘違いしているようだ。
「春菜のこと、お願いね」
かすみは目が潤んでいる。
「必ず助けてあげてください」
吉村も同じだ。
「春菜を、必ず連れて帰る」
全員と握手する。
最後に俺の前に立った東城は、誰としたよりも強く両手で俺の手を握ると、目を見据えて頷き、駅の雑踏の中に消えていった。
俺もつくづく、お人好しなのかもしれない。
美砂と深く付き合ってしまった東城。
普通なら、そんな相手にここまでしてやる理由なんかないだろう。
だが、被害者は春菜であって、春菜には一切の責任がないことは、しつこいほど俺の頭の中を巡っている。
もちろん、これで美砂も東城と別れることになるだろう。
それを願っている気持ちがないと言ってはウソになる。
いや、それどころか、春菜の件を知り、直ちにこの答えに辿り着いたというのは紛れもない事実であり、それを思うと、打算のように「春菜の不幸を渡りに船で利用している」自分に対し、吐き気を催すほどの嫌悪感を抱いている。
東城が春菜とよりを戻せば美砂は諦めるのだろうか。
いや、諦めなければならない。
そのことを東城は、いつ美砂に伝えるのだろう。
あるいは、もう伝えたのかもしれない。
そんなことは分からない。
しかし東城や春菜が戻ってくれば、その姿を見たとたんきっと、美砂との間に修羅場が訪れるだろうし、それに俺も巻き込まれ、また嫌な思いをすることになるだろう。
だが、それは覚悟の上だ。
「美砂と別れるんだよな」
本当は聞きたかった。
けど、聞けなかった。
ここで聞いてはならなかった。
東城が春菜に会う。
それがすべての出発点であり、最良の答えは自然についてくる。
俺はそう信じている。
見送った俺たちは、解散し、それぞれに家路に就いた。
「東城さん、どこにいるのかな…」
下校する生徒の姿もまばらになった校門前。
いつもと同じ待ち合わせ場所で腕時計を眺め、つぶやく美砂の姿に気付く者はほとんどいなかった。