第89話:返信
文字数 5,584文字
かちゃ‥
差し込まれた鍵。
続いて、ドアを開ける音がする。
時間は午後9時を少し回ったところ。
美砂が、帰って来た。
腰をかけ、靴を脱いでいる。
両方そろえ、明日に備えて並べる。
立ち上がり、部屋に向かうべく振り返る。
「!」
驚いた表情で一瞬立ちすくんだが、すぐに平静を取り戻し「何?」とでも言いたげに、不快そうな顔を見せる。
<6月18日 月曜昼 学校>
「元気そうだったんだけど、最後の日、休んじゃってさ」
昼休み。
慈乗院に春菜の様子でも尋ねてみようかと思っていたのだが、図らずも食堂へ一緒に行くことになり、こちらから持ち出さなくても、彼女の話題になっていた。
「どうしちゃったんでしょうね。前の日まではすごく明るかったのに」
来栖も相槌を打っている。
「学校の帰りにお茶誘ってくれたり、珍しいところ連れてってくれたり、相変わらず活発だったんだぜ」
「ふーん、風邪でも引いたのか?」
「んー、かなぁ。でも、むこうの先生、何も言ってなかったし」
交流で訪問した慈乗院たちが帰ってきたのは、きのう。
一度、北麗に集まって、いわゆるお別れ会みたいなのをやってから空港に向かったという。
これは全校生徒が出席して行われたそうで、最後はそれぞれのクラスで挨拶して、記念撮影もしてという、一種のセレモニーだ。
しかし、来るはずの春菜は最後まで現れず、そのことについてクラスの担任は何も言わなかったそうだ。
「連絡ないってのも変ね」
一緒に食堂へやってきたかすみも不思議そうにしている。
「そうなんですよ。前の日も一緒にお昼食べたりして、ほら、風邪をひくなら前の日から咳き込んでたりとか、何とな~く前兆があるじゃないですか。そんなこともなかったですし」
来栖にしては結構しっかりした意見だ。
「見送るのが辛かったのかもしれないですね。私だったら、同じように‥なるかも」
目を伏せた吉村。彼女らしい考えだ。
確かに、春菜は現地でかなり辛い状況にある。
このことは、俺以外には誰も知らないし、北麗に行った4人も知らないはずだ。
知っていれば、こんな昼休みを待たず、向こうから話しかけてくるだろう。
旧友との再会が間もなく終わりを告げ、再び嫌な毎日が始まるということで、落ち込んでしまったんだろうか。
それは‥あり得るよな。
あとで、メッセでも送ってみるかな‥。
「ああ、でも」
来栖が何かを思い出したようだ。
「前の日、遅くまで御山さんと話してたみたいですよ」
「御山と?」
「へえ、それ知らなかったな」
「御山さんに話があるって言われた、って言ってましたから」
御山か‥
何だか嫌な予感がする。
春菜は、東城と御山の一件は知らないはず。
何しろ、2人が付き合い始めたのは春菜が転校してからだ。
だが、御山は春菜が今でも東城のことを思っているのは、たぶん知っているだろう。
振られた腹いせじゃないが、御山のやつ何か余計なことを春菜に吹き込んだりしたんじゃないだろうか。
たとえば「私、あなたが転校してから東城さんと付き合ってたの」とか「あなたがいなくなった途端、待ってましたとばかりに女を取り替えるような男よ」とか、あることないこと、本人がいないんだから何でも言えるはずだ。
それで、春菜が落ち込んで休んでしまった、というなら理由として成り立つよな。
きょうの東城は、穐山との、ある意味元気なやり取りを見る限りでは、春菜から御山のことで連絡を受けたとは思えない。
もちろん、御山が自分から何か言うはずもなく、それどころかむしろ東城にバターサンドを渡し、受け取った東城は東城で「レーズンは苦手だ」みたいな他愛のない話ではあったが、普通の態度だったし。
ただ、穐山に制裁を受けて1時間目が始まる前には早々に医務室経由で早退してしまったから、本当のところはイマイチ分からない。
気が引けるが、やはりさりげなく春菜に連絡しとくか。
「それで、向こうってやたらソ連人多いじゃん。来栖ったらさ‥」
話題はすでに春菜から離れ、樺太の土産話になっている。
樺太の北麗も今は同じく昼休みだろう。
きょうは出席しているのだろうか。
よし決めた。
夕方になったら、メッセを送ろう。
◇ ◇ ◇
<6月18日 月曜夜 山葉宅>
「美砂」
横を通り抜ける妹に声をかけるが、もちろん無視される。
「おい、美砂」
もう一度、低い声で名前を呼ぶ。
上りかけた階段の途中で振り返り、俺の方を見下ろしている。
短いスカートの中に、ちらりとぱんつが見える。
それを察したか、さっと裾を押さえ、非難に満ちた顔で向き直る。
そりゃ、恋人でもない男に下着見せたくはないわな。
「何?」
すでに美砂はおおよその見当はついているはずだ。
俺が何を言いたいのか。
「お前、東城と付き合ってるだろ」
やはりそうか。
表情一つ変えない。
「だったら、どうなの」
あっさり認める。
だが、それ以上は何も言わせないという一種の気のようなものを発し、振り返りもせず自室に消えた。
中から鍵をかける音。
<6月18日 月曜放課後>
「教えてくれなかった」
春菜からの返信は、わずか9文字。
最終日に休んだことや、御山のことには一切触れず、久しぶりに皆と会ってどうだった? という当たり障りのない文への返信だ。
「教えてくれなかった」
吹き出しにはこれしか書かれておらず、更新しても変わらなかった。
一体、何のことだ。
主語はないが、どう考えても御山のことで怒っているようだ。
やはり御山、春菜に自分と東城のことを言ったんだろう。
わざわざ呼び出してまで。
何て女だ。
どう返事すべきか迷ったが、とにかくもう一度、当たり障りない内容を送ってみる。
「教えてくれなかったって何のこと?」
放課後。
屋上の階段室際。
その壁にもたれかかって座り、足を投げ出したまま返事を待つ。
1分、3分、5分
すぐには返ってこない。
俺の存在に気付いているのかいないのか、2年生の男女が抱き合っている。
丸い給水タンクの陰になっているが、ここからは丸見えだ。
結構濃厚なキス。
度胸がいいのか、我慢が足りないのか、あの場所は隣の施設棟からもよく見えるだろう。
男の右手は女の子のふとももを後ろからさすっているようだ。
スカートの中に手を入れるのも時間の問題だろう。
おっと、返事が届いたようだ。
短いがよく通るメッセ着信の音。
あれから10分か。
抱き合ってた2人は慌てて体を離し、周りを見回している。
ここからはよく見えるが、あっちからは俺が座っていることもあり、見つけられないふうだ。
「もういい」
今度はわずか4文字。
ラチが明かない。
相変わらず主語も目的語もないが、春菜の怒りは明らかだ。
確かに俺は御山のことを黙ってた。
先月の連休に樺太へ行き、春菜に会った。
そのとき俺は、そのことを春菜には言わなかった。
でも、それは春菜のことを考えてのことだし、幸いにも、御山と東城は別れたんだ。
それでもやはり、俺が黙ってたことは春菜に嘘をついたことになる。
非難されても仕方ない。
気持ちは‥分かる。
何て返事を書いたものか。
正直に、謝った方がいいのは確かだ。
こういうとき、メッセやメールはまだるっこい。
「春菜のことを考えたから黙ってた。ごめん」
長々と考え、何度も消去したり書き直した挙句が、これだけの返事。
われながら情けなくなる。
だが、放っておくわけにもいかない。
送信ボタンを押す。
今、彼女はどこで読んでいるのだろう。
学校なのか、どこかの公園か、店の中か、あるいは家か、駅か。
さっきまでいたカップルはいつの間にかいなくなり、屋上には俺1人。
時間は午後4時半を回ったが、初夏の陽はまだ高く、風はぬるい。
グラウンドからは部活の威勢の良い掛け声が聞こえてくる。
返事は来ない。
とりあえず、帰るか‥な。
スマホを見る。
あと2分ほどで4時40分。
キリのいいところまで、待ってみようか。
そして40分。
鳴らないスマホをカバンに入れようとしたとき、それは届いた。
「自分の妹だから味方するよね。来てくれたのは嬉しかったけど、もういい。手紙とプリクラは捨てて。さよなら」
「‥?」
自分の妹?
何言ってんだ、春菜は。
今までと違って少しは文字数の多い返信。
それなりの情報量もあるが、自分の妹って何だよ‥‥美砂、のことなのか?
どうして唐突に美砂の話になるわけ。
御山の話、してたんじゃないか。
「妹だから味方する?」
俺が?
美砂の?
っつ!
とにかく、何かとんでもないことになっているか、あるいは、とんでもない誤解が生まれている。
御山と春菜の間に何があったのかは知らない。
だが、それ以上に重大な何かが起きていることだけは確かだ。
急いで電話のアイコンをタップする。
春菜へのメッセ通話。
春菜相手にこの機能を使うのは初めてだが、そんな感慨も感傷ももちろんない。
とにかく今は、春菜に直接聞く。
ただ、それだけだ。
呼び出し音が鳴っている。
予想した通り、すぐには出てくれず、やがて留守番サービスに切り替わる。
すぐに切って、またかけ直す。
出るまでかけてやる。
ずっと呼び出し音のままだ。
また留守電になるのか。
そう諦めかけたとき、電話が通じた。
「春菜」
名前を呼ぶが、聞こえてくるのは息遣いだけ。
「春菜。聞こえてるだろ? 春菜」
返事をするかどうか、電話を握ったまま窮している様が伝わってくる。
このまま、無言を通すのだろうか。
それならそれで、聞いてもらうだけでもいい。
俺はもう一度、春菜の名前を呼んだ。
「…山葉まで…いじめない‥で」
沈んだ声が途切れ途切れに聞こえてくる。
いじめるって…俺が?
「春菜、何言ってるんだよ。いじめるって何だよ」
「美砂ちゃん、薫のこと好きだったから‥分かるけど…山葉まで…酷い‥よ」
やっと語ってくれた春菜の口から出た美砂の名前。
今、起きていること。
俺の全くあずかり知らなかったこと、それらが猛烈な勢いで頭の中に注入されていく。
それは…本当なのだろうか。
「ど、どういうこと? 悪いけど、何のことか…分からない」
混乱する頭。
何のことか分からないのは、本当なのだから仕方ない。
少しずつだが、春菜の口から伝えられる美砂と東城のこと。
御山が春菜のことを思って教えてくれたのだという。
少なくとも春菜はそう信じているが、あの女、御山のやつ、何の根拠があって‥いや、待てよ…
あいつら、本当に付き合ってて…
まさか、御山が東城と別れたのは、美砂が、関係してるのか?
御山がどの程度のことまで春菜に語ったのかは分からない。
春菜もやっとの思いで話している感じで、根掘り葉掘り聞くわけにもいかないし、そもそも俺の頭がまとまっていない。
「とにかく…確かめるよ」
それだけ言うのが精一杯だった。
電話を切り、立ち尽くす。
美砂と東城。
2人は今までも何度か接近してはいた。
だが、接近しつつも本物になることはなく、美砂にしてみればむしろ「恋に恋してる」という状況だったようにも思う。
しかし、御山が春菜に語ったという、美砂と東城が付き合っているという話。
多くは語らなかった春菜だが、はっきりさせねばならない。
なぜ御山がそんなことを春菜に言ったのか、そして、俺も知らない美砂のことを、どうして御山が知っているのか。
本当のことなのか、それとも、御山が何らかの理由で嘘を言っているのか…
いろんなことがグルグルとめぐり、混乱に拍車をかける。
とにかく、家に帰って、頭の中をはっきりさせなくては・・
◇ ◇ ◇
<6月18日 月曜夜 山葉宅>
美砂の部屋の前に立つ。
音楽や話し声は聞こえないが、わずかにスマホのバイブレーションのような鈍い響きがしたような気がする。
東城と連絡を取り合ってでもいるのだろうか。
「だったら、どうなの」
部屋をノックすると、意外にも美砂はすんなりドアを開けた。
言葉を選び、問いかける俺に、たったこれだけの返事だったが、美砂はあっさりと東城のことを認めた。
あとは、東城本人だ。
メッセや電話でなく、直接会って確かめてやる。
春菜によると、すでに2月、彼女がいなくなった直後には付き合っていたという美砂と東城。
話の内容から、どうやら東城が御山と付き合っていたということを春菜は知らないようだ。
御山の奴、自分のことは棚に上げ、美砂のことだけ伝えるとは、どういうつもりなんだ。
百歩譲ってこれはいいとしても、問題は東城だ。
東城はつまり、一瞬とはいえ美砂と御山、2人と同時に付き合っていたことになる。
短期間であろうがなかろうが、それは問題外だ。
基本的には、東城が春菜と付き合っていることを知っていながら、美砂が変なちょっかいを出したことが原因の一部、というケースはある。
東城に大雨のとき慰められたりして勘違いした、あのときのように。
だが、東城にしても、2年のとき、何度となく美砂絡みで俺との関係がギクシャクしたことを忘れたわけではあるまい。
殴ったこともあるし、殴らないまでも、胸倉を掴んだり肩を突いたりしたことも一度や二度じゃない。
それを分かっていて、何であの2人は。
東城と春菜の関係を壊すなと、美砂には言った。
それは、あの2人が離れることなく、ずっと同じ場所にいるはずと思っていたからだ。
確かに、春菜はここにはいない。
だが、そんなことではない。
仮に春菜と別れたという前提であっても、その直後に、待ってましたとばかりに美砂と付き合い始めるなんて気持ち、俺には理解できない。
それじゃ、あまりにも春菜がかわいそうだろ。
大喧嘩して別れたんじゃなく、無理やり物理的に別れざるを得なかったわけなんだから。
御山と付き合っておきながら、美砂とも二又をかけるという、そのやり方も気に入らない。
よりによって、俺の妹と。
今回の端緒が美砂であっても、もちろんそれは問題だ。
春菜がいなくなるのを渡りに船とばかり告白したのか?
東城と美砂は、どんな関係なんだ。
ありえないとは…思うが。
ない、と信じたいが。
明日だ。
明日、すべてはっきりさせてやる。