第97話:春菜の元へ~その3
文字数 2,757文字
勉強机の上にある時計は、午後9時を指そうとしている。
制服のカッターシャツのままベッドに転がっている俺は、顔を少し傾けるだけでその文字盤が目に入る。
羽根田から直行便で2時間半。
順調なら東城は、もう樺太の地を踏んでいるだろう。
春菜にはあと少しで会えることになる。
あるいは、空港や駅で、もう会っただろうか。
会ってまず何を伝えるんだろうか。
夕方5時半過ぎ、今から飛行機に乗るとメッセがあって以降、東城からは音沙汰がない。
次に連絡が来たとき、そこに書かれている言葉は、どんな内容なのだろうか。
乱暴に閉める玄関の音。
美砂が帰ってきたようだ。
母が何か声をかけているが「黙ってよ」と、いつになく荒れている。
あいつのところに東城からは何か連絡がいっているのだろうか。
きょう一日、正確には東城が学校帰りの元町駅から出発するまでだが、その間、俺はずっと東城と一緒だった。
だから、東城はきょう、美砂とは一切会っていないはずだ。
もし何かを伝えるならば、メッセか電話だろう。
美砂は知っているのだろうか、東城が春菜の元へ向かったということを、そしてそれは、お前が東城と別れることを意味するということを。
階段を上ってくる足音。
いつになく怒気を含んでいるようにも聞こえるそれは、やがて自室の前で止まると、ドアを開け、ばたんという大きな音をさせた。
決別の挨拶が届いたのか、それとも、まだ事情を知らないまま待ちぼうけを食わされたのか。
いずれにせよ、何かの怒りが美砂の中にあることだけは確かだ。
しばらくはそんな日が続くだろうが、普通の日々に戻るための序章には違いあるまい。
東城は、もうお前には戻らないんだぞ、美砂。
<7月2日 夜 樺太・豊原市 郊外電車の駅前>
見慣れない地名。
見慣れない景色。
空港からバスに乗り、市中心部の豊原駅から郊外電車で20分ほどの小さな駅。
7月なのに肌寒く、駅前を歩くわずかな人々には長袖姿も多い。
自販機に入っている飲み物も、ほとんどがホットのままだ。
商店街らしきものもあるが、市の中心部から離れているためか、元町や彩ケ崎の駅前より寂れた感じがする。
すでに閉まった店もあり、心細さが募る。
いつも学校へ行くときに持っているサブバッグと、きょうは大きなスポーツバッグ。
中からブレザーを取り出し、半袖カッターの上に重ね着する。
春菜のいる街に着いた。
直線距離で1000キロ以上あった2人の距離は、いまや数百メートルにまで縮まった。
春菜のいる街。
春菜の吸っている空気。
春菜の、におい。
春菜の今を知ってしまった昨日の夜。
そのわずか24時間後には、もうすぐ近くにやって来た東城。
「来たぞ、春菜」
地図を広げる。
前に来たことのある山葉が書いてくれたものだ。
右の方に目をやると、角に喫茶店が見える。
もう閉まっているのか、明かりはない。
その横を奥に向かうと左側にロシア正教の教会があるはずで、春菜の住むアパートはそこから東へ伸びる一本道沿いにあるはずだ。
深呼吸をする。
さあ、行こうか。
ブレザーを出したとはいえ、まだ重いスポーツバッグは肩にくる。
春菜との別れは辛いものだった。
部屋に引きこもっていたため、別れの言葉も言えなかった。
2人でした家出。
そのためにスマホを取り上げられた春菜。
彼女の両親はオレのことを今でも怒っているだろう。
そんな奴が突然訪ねてきて、しかも自殺未遂をした直後の娘に会わせてくれるのだろうか。
春菜。
羽根田で搭乗前、今からそちらに向かうと伝えた。
豊原の空港に着いてから確認しても既読はついていなかった。
前のスマホを取り上げられてから内緒で再契約したというが、それもまた取り上げられてしまったのだろうか。
昨晩、電話で話すことはできたけれども、それでバレてしまったんじゃないのだろうか。
悪いことだけが頭をよぎる。
駅前の道路。
横断歩道を反対側に渡る。
こんなに遠い地なのに、やはり日本。
美咲や彩ケ崎で見るのと同じ歩行者用信号や、チェーンの飲み屋の赤い看板に、少しほっとする。
だが、駅の案内やバスの行き先、街中の看板にもロシア語が併記されていることが、距離の遠さを印象付ける。
体格のいい酔った男2人が、ふらふらする手に火のついたタバコを持ち、日本語ではない言葉を大声で発しながら機嫌よさそうに歩いている。
オレはここでは完全によそ者だ。
これだけで募る寂しい思い。
そんな中、春菜は…
道の両側にはポプラの並木。
まっすぐに続いている。
日本領になって、更地から碁盤の目のように整備したと授業で聞いたことがあるが、そのとおりだった。
だが、遠く先の方は真っ暗で、街路灯もない。
人口が100万以上ある樺太唯一の政令市とはいえ、街の端っこはそんなものなのだろう。
ハイビームにしたままの車が走ってくる。
まぶしさに顔を背ける。
さっき駅前から見た喫茶店がある。
近そうに思えたが、意外に遠い。
その角を曲がれば教会が見えるはずだ。
角を曲がり、住宅街に入る。
教会が見える。
たまねぎのような形だが先端の尖った塔がある。
明かりの多くない街にあって、その塔は電球の色でライトアップされ、なんとなくほっとする。
その教会の前を、小さなトラックが1台横切っていった。
あの角を曲がれば、あとは一本道。
駅からはずっと石畳の歩道。
春菜は毎日、この同じ歩道を歩いているのか。
こんな時間なのに、教会からおばあさんが1人出てくる。
杖をつき、とぼとぼと歩く。
その、スカーフを被った姿は、何かの写真で見たロシア人の老婆の、まさにそれだった。
ライトアップの光が歩道に反射し、浮かび上がる顔には深い皺が刻まれている。
教会の角を右に曲がる。
赤いレンガに囲まれた前庭と植え込み、そして花壇。
歩道からは数段の階段があり、花壇を分断するように建物入り口に繋がる石畳。
同じような組み合わせを持つ、3階建ての団地のような建物が両側に連なっている。
胸が高鳴る。
ここからまっすぐ道なりに進み、右側10軒目が、春菜の住むアパートだ。
少し足早になる。
会える喜びと、会う不安。
こつこつと、短い間隔で響く靴音。
2軒目の建物を過ぎ、そして3軒目、4軒目。
窓の外を窺っている住人のシルエット。
5軒目、6軒目。
建物が、繰り返される映画の同じシーンのように並ぶ。
7軒目。
そして、佇む人影。
遠目にも、こちらに気付いたのが分かる。
次の瞬間、走ってくる。
だんだん近付いてくる。
オレも走る。
転びそうになる。
バッグを道に投げ出す。
声が出ない。
近付く。
近付く。
見慣れたあの姿に。
懐かしいあの女の子に。
飛び込む。
お互いの胸に。
「・・・・・・うっ」
抱き合っても彼女は言葉を発しない。
発せない。
両腕で力の限り一つになる。
頭をなでる。
頬ずりする。
彼女の顔を両手で挟み、見詰め合う。
「春・・・・・」
言葉にならない声をあげ、2人は泣いた。