第92話:白日の関係
文字数 3,233文字
表で車の止まる音。
ややあって、ドアが閉まり、走り去る。
開いた玄関に立つ美砂は膝の包帯が痛々しい。
膝だけでなく、腕や手にも治療した跡。
付き添ってきた東城も顔や腕に包帯を巻き、美砂の背中から通学カバンを下ろしてやっている。
階段を下りたところに立っている俺を2人は気付いているはずなのに、目は合わさない。
「じゃ、あしたまたね」
美砂の言葉に頷くと、髪を撫で玄関から出て行った。
どこの医者で診てもらったのか、夜の9時過ぎ。
俺と同じ病院に行ったのだろうか。
少し足を引きずりながら、奥の洗面台に向かう。
カバンを床に置き、鏡に映った顔を見て左の頬を気にしている。
俺が張ってしまった跡だ。
幸い顔には目立つような傷はなく、特に大きな治療を受けた形跡もない。
明かりを消し、戻ってくる。
俺の横を抜け、階段の下。
「美・・・」
「警察呼ぶよ」
呼びかけようとしたが、スカートのポケットからスマホを取り出し、ただそれだけ。
目を合わすことなく、ただ低い声で凄む。
これ以上の干渉は許さないと。
そのままゆっくりと階段を上り、部屋に消えていった。
声をかけたところで、美砂に何を話そうとしていたのか自分でも分からない。
ただ、妹に手をあげてしまったことが後味悪く、胸に重たいものが詰まったままで、とにかく何かを言いたかったのだ。
あのとき、妹ではなく、ただの憎い女として殴りつけてしまった。
耳の奥にこびりついて離れない美砂の悲鳴。
子どものとき、泣かせたことはあっても決して暴力なんか振るったことはないのに。
後ろめたさと自分への嫌悪、そうさせてしまった2人の態度への怒りが複雑に絡み合った表現しようのないドロドロが体じゅうに溢れ、やり場のない何かが染み出してくる。
とても1人では処理できない感情に支配されているのだ。
俺は悪くないけど、ある意味悪い。
俺は悪いけど、ある意味悪くない。
どうしたらいいんだ。
相談できる相手など、いない。
両親がここにいないのが、幸いなのか、そうでないのか。
美砂が東城とセックスしました。
怒り狂った俺は東城だけでなく美砂まで殴りつけ、けがをさせました。
こんなこと、親に伝えられるわけが…ない。
鼓動に合わせるように、オレの治療跡も痛み出してきた。
<6月20日 朝 山葉>
ぱりっとアイロンの効いた、真っ白なセーラー服。
紺色の襟に、紺色のスカート。それに紺色のソックス。
大きなサブバッグを肩にかけ、こげ茶色のローファー。
右脚の白い包帯が、妙に艶めかしく、扇情的ですらある。
見たわけでもないのに、体を重ねあう2人の姿がフラッシュバックする。
俺が決して知ることのない、美砂の、秘められた姿。
昨日、あんなことがあったのに……俺はいったい、何を考えているのか、自分でも嫌になる。
「東城さんとセックスしたの!」
決定的な、一番知りたくもないことを、よりによって妹の口から聞かされてしまった。
あの美砂が…男を、知ってしまったなんて。
それが、あの男だなんて。
美砂の顔を見るたび、東城の姿を見るたび、あの2人が交わる姿を想像することになるのか、これから毎日、来る日も、来る日も。
嫌だ、嫌だ、嫌だっ!
決して祝福できない交わり。
それなのに、いつの間にか俺の股間は熱くなり、猛っている。
悔しく、情けなく、自分に腹が立つ。
ちくしょう! 俺の体に腹が立つ。!
これでは動物と同じ、いやそれ以下じゃないか!
今すぐ頭を割いて、こんな脳みそ捨ててやりたい。
両手で頭をかきむしる。
「くっ!……美砂!」
思わず、大声で名前を叫ぶ。
だが彼女は決して視線も合わさず、一切口をきくこともなく、玄関を開ける。
開け放たれたドア。
その先の路上には、東城の姿があった。
ばたん
重い音をたてて閉まった扉の向こう。
「おはようございます。具合、どうですか」
くぐもった声で挨拶が聞こえた。
◇ ◇ ◇
<6月20日 朝 東城>
バスを降りて校門をくぐる。
車内でもずっとそうだったように、校内でもまた、好奇の視線がさまざまな方向から注がれる。
校内では知らぬ者はいないほど春菜とアツアツだったのに、いなくなった途端に御山と付き合い始め、そしてあっという間に別れた男が、また別の女の子、それも、よりによって同級生の妹と、手を繋いだまま登校してきたのだから無理もない。
しかも、その両方とも体のあちこちに治療を受けた跡がある。
何かあったと考えるのが普通だろう。
「ん? 東城‥それと、山葉美砂‥だな。ちょっと来い」
校舎の入り口で服装チェックをしていた風紀指導の体育教師に呼び止められる。
いつ見てもジャージしか着ていないその男は、竹刀を手にしたまま、つま先から頭のてっぺんまで、そして2人の背後にも回って舐めるように見回す。
その横を通っていく生徒たちも、興味津々の表情だ。
さっそく女子生徒がヒソヒソやっている。
その中には、東城や美砂のクラスの生徒もちらほら。
「お前ら、一応聞くがそのケガは何だ?」
教師は当然の質問をする。
「ケンカして、殴られました」
「ああ、そうらしいな。今朝、太刀川の病院から学校に連絡があったぞ。『昨日、けがをしたおたくの生徒3人が相次いで病院に来た』ってな。誰とだ? 山葉も一緒にか? 相手は? 他校の生徒か?」
そんないっぺんに聞かないでほしい。
尋ねられなくても、順を追って説明するから。
「あの。私の兄です」
美砂がさっさと核心部分を答えてしまう。
「兄‥って、や、山葉譲二か? 東城と同級の?」
「山葉とケンカしたんです」
「はぁ? 何でまた? お前ら仲良かっただろう」
ほかの生徒たちは昇降口に入る気なんか完全に消え失せて、立ち止まって聞いている。
どうせケガのことを聞かれるのは分かっていた。
そうしたら本当のことを言おうと、美砂と決めてきていた。
俺と美砂が付き合ってること。
そのことを知った山葉が怒り狂い、3人で殴り合いになったということを。
入り口で生徒が膨れ上がっていることに気付き、すでに教室に入っていた連中まで集まってくる。
「お、おまえらなぁ」
理由が理由だけに、この体育教師も答えに窮したか、困惑の表情を浮かべ仁王立ちだ。
「へえ、東城くん、3人目の彼女かぁ」
「あの男も節操ないわねぇ」
「…美砂ちゃん」
「あれって、山葉の妹だろ! 親友の妹に手ぇ出したのか」
「羨ましい奴だ」
周りの連中は好き勝手、言いたい放題。
「お前ら、教室に入らんか」なんて注意する気力も失せて、ただただ腕を組んだままの生活指導教師。
そこへ、皆が最も期待する人物、山葉譲二が登場した。
何も知らず、こちらへ向かって歩いてくる。
あいつの拳にも白い包帯。
額や頬にも「いかにも病院で治療しました」って感じで、ガーゼが貼られている。
十戒の物語で割れた海のように、左右に開き道を空ける生徒たち。
山葉も、俺と美砂が体育教師の前に立っていることで、すべてを察したようだ。
一瞬立ち止まったが、逃げるわけにもいかず、俺の横へ、教師の前に進み出た。
「山葉。この2人が言ってることは本当なのか? 3人で殴り合いしたっていうのは」
違うって言われたらどうするんだろう。
だが、山葉の答えは、教師の、そして生徒たちの期待を裏切ることはなかった。
「殴りました。最初に手を出したのは、俺です」
「おおー」とギャラリーから声が上がる。
「そ、そうか。で、その、なんだ。理由は‥お前の妹‥なのか」
「はい」
そう答え、俺の方を顔だけ向けて睨む山葉。
「だが、暴力はいかんぞ」
こういう場合に必ず聞くセリフだ。
思わず、ぷっと吹き出してしまう。
「東城、何笑っとるか!」
バカにされたとでも思ったか、教師が怒り出す。
それで若干は周りが見えたのか、集まっている生徒にやっと気付き「こらぁ、お前らぁ! さっさと教室に入らんかー!」と、解散を宣言した。
「お前らはちょっと待て。職員室まで来い」
忌々しそうに3人を睨みつけ、俺たちは居心地の悪い場所へ先導されていく。
こうして、オレと美砂が付き合っていることは、全校の知るところとなった。