第50話:家庭訪問~救い
文字数 6,216文字
キーンコーン…
「よぉし、今日はここまでだ」
足し算もロクにできないくせに、なぜか数学を担当している金村剛が偉そうなことをほざいて今日の授業は終わった。
まあ、バカではあるが悪い人間じゃないのは分かってるけど。
しかし、あの口のきき方は何とかならないのだろうか。
女子だけのお嬢様学校時代もあんなふうだったのだろうか。
だとしたら、よくクビにならなかったものだと感心する。
肩を怒らせて教室を出て行く。
引き戸を開けて、廊下に出ようとしたとき、ホームルームに備えドアの近くで待っていたかえで先生に衝突しそうになってしまった。
びっくりしたかえで先生が、手に持っていたプリントの束を廊下にブチまける。
「あ、姐さん、し、失礼しましたっ!」
金村は直立不動で謝ると、すぐに拾い始めた。
「あ、いいんですよ、金村先生。それに、姐さんって言い方…」
「だめです、姐さん! 私が悪いんです。私に拾わせてください」
かえで先生は、とことんうんざりした表情で立ち尽くしている。
自分で拾った方が早いのは分かってるんだけど、変に手伝おうとするとまた「姐さん、姐さん」が始まるので、諦めている。
そのくせ金村は教室の方を睨みつけると、
「見てねーで手伝え!」
と声を荒らげる。
「私に拾わせてください」って言った舌の根も乾かぬうちにだ。
仕方なしに、ドアに一番近い最前列に座っている慈乗院と吉村の2人が廊下に出て行って手伝うはめになった。
「ごめんなさいね、慈乗院くん、吉村さん」
かえで先生は本当に優しい。
金剛が立ち去り、教室に入ると真っ先に2人の前に来て声をかけていた。
「それじゃあみんな、今日もご苦労さま。少しの間、辛抱してちょうだいね」
かえで先生のホームルームが始まった。
「みんな知ってると思うけど、来週の授業は午前中だけよ。火曜日から土曜日までの5日間、午後から家庭訪問にお邪魔します。それで、実はお願いしたいことがあるの」
かえで先生のお願い。
お願いされるのは何度目だろうか。
俺はどんなお願いが出るんだろうと、身を乗り出した。
「実は、家庭訪問の最初の3日間、同行してくれる人を探してるの。私…うふ、方向音痴だけどカーナビはないし。車の中で地図を見ながら道案内をしてほしいのよ。それで…」
「山葉くん、お願いできるかしら」
体育祭で御山を怪我させてしまった俺。
クラスの中でも何となく浮いた存在になってしまったことを気遣ってだろう。
かえで先生は、ナビ役に俺を指名した。
車での道案内。
そういったかなりプライベートな空間で、気兼ねなく俺の話を聞き、慰めたりしよう。
たぶん、これは先生らしい計らいなんだろう。
「分かりました」
「ありがとう。じゃあ、あと一人、女子にもお願いしたいんだけど。誰かいける人?」
なんだ、俺だけじゃないのか。
はっきり言って落胆した。
だいたい、クラス全員が敵みたいなこの状況で、かえで先生がいるとはいえ、俺と行動をともにしたい女の子なんているわけないじゃないか。
やめてくれよ。
俺にもっと恥をかけとでもいうのか、先生は。
女生徒たちも気まずそうにうつむいている。
沈黙が続く。
生き恥とは、こういうことを言うのだろう。
俺は、机の木目を虚ろに眺めるしかなかった。
「わたし、大丈夫です」
え?
聞き覚えのある声。
右斜め前の方向。
顔を上げると、手を挙げていたのは、かすみだった。
一瞬顔をこちらに向け、微笑んでいる。
帰り道。
久しぶりに隣にはかすみがいる。
「かすみ、いいのか、俺…それに、部活も」
「だって山葉くんと一緒なら楽しそうじゃない」
「そ、そうか。…はは」
「それに、小さいころ、お父さんの出前の車に一緒に乗ったりして、昔からこのあたりの道には詳しいのよ」
鬱々としていた俺の毎日。
学校を辞めたいとすら思ったりもした。
東城や春菜でさえ、気を使っていたのかもしれないが、話しかけてくる回数が減り、いじけていた。
そんな俺に手を差し伸べてくれた、かすみ。
小さい頃から知っていた幼馴染のかすみ。
そんなかすみが光を放つ女神様のように見えたといっても、言い過ぎじゃない。
照れくさかったので言えなかったが、感謝の言葉が胸の中で反復された。
彼女は、俺を、信じてくれている。
きっと、これからは好転するだろう。
夕方の坂道。
何ともいえない確信じみた思いすら湧いてくるような気がした。
◇ ◇ ◇
「えっと、次は…あら? 山葉くんの家ね」
その次の週。
家庭訪問が始まり、俺はかえで先生の車に乗って生徒たちの家を回っていた。
家庭訪問とはいえクラスには40人の生徒がいる。
しかも私立なので方向や距離もバラバラだ。
訪問は最初の3日間は市内や比較的近郊の生徒宅を、残りの2日は東京市内や隣県を回る予定となっている。
俺がナビを頼まれたのはこの3日間。
あとは先生単独で電車やバスで行くらしい。
助手席に座り、生徒の家までの道順をスマホのナビ機能を使いながら曲がる場所や一方通行がないかなど、分かりやすく伝えていく。
ミスなんかない。
この日のために、家で穴が空くほど地図で予習していたんだから。
後ろの席に座っているかすみはペットボトルの飲み物を時たま俺やかえで先生に渡したりしているが、窓の外の普段見ない景色が楽しいのか、嬉しそうにしている。
俺は普通の道順だけじゃなく、少しでも見晴らしがよかったり、お洒落な街を通れるよう、それなりに考えた。
これも、かえで先生やかすみに、少しでも退屈な思いをさせないためだ。
「あ、先生、2つ目の信号で左に曲がりますから、左に寄っといてください」
「ありがとう。助かるわ」
「でも、ごめんなさいね。車、狭くて」
「そんなことないですよ。俺は…いえ、なんでもないです」
かえで先生の車は中古で買った軽のライトバン「コニー」だ。
色は銀色で、結構人気の美咲ナンバー。
ナビの中を赤い矢印が進んでゆく。
2つ目の信号で車が左に曲がり、うっかりスマホがかえで先生の足元に落ちた。
慌てて拾おうとして手を伸ばしたとき、かえで先生のふくらはぎに手が触れてしまった。
「!」
「!…」
かえで先生は嫌な顔ひとつせず、軽くこちらを見ると口元を緩めた。
サーモンピンクのきらりと光る口紅。
つるりとした、くちびる…
思わずドキっとする。
俺の家に着いた。
助手席に座って一緒に回っているのだから省略しても良さそうだが、自宅での生活環境をしっかり把握するという先生の方針だ。
「こんにちわ~、かえで先生。どうぞお入りください」
玄関を開けると先に帰っていた美砂が出迎えた。
来ることが分かっていたので、部活を休んで待っていたようだ。
普段俺には愛想がないが、さすがに先生相手では礼儀正しい。
当然かえで先生も知っているように、俺の家は親が1年の半分は不在だ。
父親が転勤で樺太に行ってしまい、母親も単身では何かと不便だろうということで、だいたい1カ月おきに樺太に行っている。
その間は1カ月分の生活費をもらって、俺と美砂で暮らしているのだ。
母親は先月は彩ケ崎にいたが、今月は樺太。
本当は家庭訪問の日までいるはずだったが、親父が胃潰瘍で入院したため予定を早めて戻ってしまったのだ。
そういう変則的な家庭環境だからこそ、かえで先生も俺たちがどんな生活をしているのか、ちゃんと見ておく必要があるわけだ。
俺とかすみはナビ役なので他の生徒宅へ行った際は車の中で待っている。
しかしさすがに自分の家なので遠慮はいらない
かすみも一緒についてくる。
「いつも兄がお世話になってます」
美砂に促され、ダイニングに通された。
何だか客のような気分。
「山葉くん、結構綺麗にしてるじゃないの」
「美砂がいつも掃除してるもんで」
「いい妹さんね」
「いや、その、へへ」
せっかく家に来たとはいえ、わざわざここで進路とかの話をすることもなく、美砂の煎れた紅茶を飲みながら、世間話に花を咲かせた。
「あ、そうだ、山葉くん。よかったら、あなたの部屋見せてくれるかしら」
「ええ”っ! 俺の部屋っすかぁ?」
「山葉くんの部屋に入るの何年ぶりかしら」
かすみもニコニコしている。
そんな顔をされたら逆らえない。
渋々ではあったが、先生たちを部屋に案内した。
だがこれは想定の範囲内。
こういう場合に備え、数日かけて部屋はきれいに整えてある。
カンペキだ。
「きれいにしてるじゃないの。自分で掃除してるの?」
「ええ、まあ」
返事はするが、でも何となく落ち着かない。
先生は本棚の横にあるステレオの空いたスペースに置いてある『アルペンの少女 クララ』のフィギュアを見つけると
「あら、山葉くん、これ好きなんだ」
と指差した。
それはもう何年も人気の続いている名作アニメで、全話録画して持っている。
「へえ、私もね子供のころよく見たのよ」
「かえで先生も見たんですか」
「ええ。クララがフランクフルトに帰りたいって思いが募って泣いちゃうじゃない。私も一緒に泣いちゃったわ」
かえで先生は懐かしそうに笑うと、顔を近くに寄せて、フィギュアに見入った。
先生とは普段でも学校で接しているが、こういう話はしたことがないから、知らない一面が見られて何だか得したような、かえで先生がもっと身近になったような気がして嬉しくなってしまった。
部屋には他にもゲーセンで獲った格ゲーキャラのぬいぐるみが置いてあったり、壁にはポスターが貼ってあったりと、いかにも男子の部屋という雰囲気だ。
ポスターは何枚かあり、うち1枚は天井にまで貼ってある。
それには交錯する2機の巨大な人型ロボットと、それを操る美しい戦士が描かれている。
かえで先生もそれに気付き、上を見上げたまま立っている。
「山葉くんは、こういうのも好きなのね?」
「ええ、修学旅行で行った那古野の方にイトコがいるんすけど、そいつの影響です」
先生はポスターを正しい向きで見ようと、上を向いたまま数歩歩いたとき、壁際に平積みで置いてあった雑誌の山に体が触れてしまった。
ばさばさばさ
雑誌が崩れ、床に広がる。
「あ、あらあら、ごめんなさいね、山葉くん」
俺の反応を待たず、その場にしゃがんだかえで先生は素早く雑誌を集め始めた。
かすみもすぐに手伝う。
しかし、その雑誌の中の1冊を手に取ったとたん、かえで先生は黙ってしまった。
手にしている雑誌の表紙には、学校の机の上に座り、セーラー服姿でスカートをたくし上げた少女が下着の中に指を突っ込んで恍惚とした表情で大写しになっている写真が使われており、正月ごろに買ったものなのだろう「初抜き8連射 巻頭グラビア 煩悩直撃 オール現役スク水美少女中学生大集合」なんて書いてある。
かすみが手にしたもう1冊にもビキニを着た茶髪の若い女が大股を開いて写っており、「イキまくり!爆乳お姉さん わたしが抜いて あ・げ・る(ハートマーク)」なんて字がピンク色でデカデカと書いてあった。
こういうのに免疫のなさそうなかすみは、「きゃっ」と短く叫ぶと、いかにも不潔なものに触れたと言わんばかりにその雑誌を放り出し、困惑の表情でうつむいてしまった。
俺は立ち尽くし、言葉もない。
これを目的に買った雑誌ではないのだが、そんな言い訳じみたこと言ってもアレだしな…
かすみが投げ出した分も含め、かえで先生は黙ってそれらの雑誌を積み直すと、バッグから手帳を取り出し何やら書き付けていた。
「じゃ、山葉くん、出ましょうか」
「う、あ、は、はい」
俺とかすみは下を向いたまま黙ってかえで先生に続いて部屋を出た。
「ありがとうございました。何もお構いできませんで失礼しました」
美砂の健気さと真面目さだけが妙に印象に残った、自分チへの家庭訪問だった。
美砂のやつ、自分の兄が自分よりも年下の女の子を扱った変な雑誌を持ってるなんて知ったら、どう思うだろうな…
あいつが一緒に部屋に来なくて本当によかった。
俺はぶるっと肩をすくめ、ドアを閉めた。
◇ ◇ ◇
「じゃあ、気を取り直して次、行くわよ」
気を取り直して…か
車のエンジンをかけると、かえで先生はわざと元気そうな声を上げた。
「はい。次は東城の家ですね」
かすみは「しょうがないわね」という顔で俺の方を見た。
さっきのエロ本のことだろうが、むしろ冷静で何事もなかったようなそぶりをされるよりは救われる。
かすみって、昔から機微に富んだところがあり、一緒にいて肩が凝らない。
ぴんぽーん
東城の家は俺の家からも歩いていける距離の集合住宅だ。
通路に各戸のドアが並んでる横に長いタイプの建て方で、11階建ての6階にある。
いつ建ったのか分からないが、何となく古そうだ。
呼び出しに反応はない。
「おかしいわねえ。今日のこの時間に行くって伝えてあるのに」
かえで先生はもう一度ボタンを押した。
ぴんぽーん
「先生、春菜の家はこの向かい側ですから、そっちへ先に行きますか?」
俺は訪問順と住所の書いてある紙を見ながら、顔をうかがってみた。
かえで先生は腕組みをしたまま顔を少しかしげ、唇の前で指を立てている。
か、かわいい!
思わず声に出そうになるのを必死にこらえ、自分の胸を右手でぎゅっと握ってしまった。
「仕方ないわね。そうしましょうか」
ドアの前を離れようとした時、部屋の中をドタドタと慌てて走る音がし、東城がドアを開けた。
「ああっ! やっぱり」
「東城くん、いたのね」
「す、済みません。その、日にち間違えてた…かも」
開いたドアから玄関を見ると、学校に履いていく焦げ茶色のローファーが二つ並んでいる。
でも、大きさが違う。
東城はどことなく慌てて服を着たような形跡があり、カッターシャツの前ボタンは上の3つぐらいがまだ留められていない。
裾も、半分はズボンの中に入っているが残り半分は出たまんまだ。
「い、いい…かしら?」
かえで先生が部屋に入れてくれるよう声をかけたとき、東城の背後でもうひとつ慌てて走ってくる音が聞こえた。
「ヤバいよぉ。明日じゃなかったっけ? あたしも勘違いしちゃってたよ」
出てきたのは春菜だった。
慌ててかぶったセーラー服にリボンはまだ付いておらず、胸ポケットにしわくちゃに突っ込んだままで、セーラーの襟も後ろがまくれ上がっている。
しかも、何かに引っかかってしまったのか、スカートのサイドファスナーを上げるのに必死で、よもや玄関のドアが開いてるなんて全く気付いてない様子だ。
「あたし、とりあえずベランダに隠れてるね。靴、取ってくれ……あっ!!……やっばあ」
ファスナーに手をかけたまま、春菜はその場で硬直している。
「お、お楽しみ中…だったかしら」
かえで先生も状況を察知したものの、何て言っていいのか分からず、思わずホンネが出てしまったみたいだ。
かすみは笑いをこらえ、春菜とアイコンタクト。
「か、かえで先生…その…」
「ど、どうやら親御さんはいらっしゃらないようね」
「え、ええ」
「分かったわ、東城くんと佐伯さんの家は改めて伺うわ。そう、ご両親にお伝え願えるかしら」
「す、すみません」
「じゃ、じゃあ失礼するわね…そ、れと…」
「は、はい」
「こ、こんなに天気がいいんだから…その、外に出なさいよ、若いんだから」
「ええっ!? そ、外でですか?」
ばたん!
東城のあまりにも正直でバカな反応に、かえで先生は思いっきりドアを閉めた。
ドアの向こうからは「もう、何で今日来るのよぉ! 信じられない」と春菜の叫ぶ声が聞こえる。
「信じられないのは、こっちだわ」
かえで先生はそう独り言を言うと、白いハンカチで汗を拭きながらその場を後にした。