第80話:最高の背徳
文字数 3,705文字
なんちゃって夫婦、といえなくもない。
2日の晩から山葉家に転がり込んでいる。
山葉家というよりも、この場合は「美砂のところ」というのが正解だろう。
普段の不自由な付き合いを取り戻すべく、朝から晩まで1日中、美砂と一緒に過ごす。過ごしまくる。
最初は毎日どこかへ出かけるはずだったが、他人の目を気にせずいつでも密着できる居心地の良さで、一歩も外に出ていない2人。
キスしたいときにキスし、愛したくなったら愛し合う。
東城は、春菜とすらここまで濃密な毎日を過ごしたことはないだろう。
家を出てくるときは、関西へ越していった中学の同級生の元へ夜行列車で遊びに行くと告げてきた。
母親も父親も、わずか歩いて10分足らずの、しかも同級生の妹の部屋で息子がこのように
そういう意味では、一歩も外に出ないのは必然といえば必然。
家庭部で記念祭の打ち合わせや準備があるからと、両親の元へ行かなかった美砂。
そのような予定は、もちろん絵空事。
兄のクラスに家庭部の生徒はいない。
彼が唯一知る部の生徒はタカちゃんだけ。
彼女には、口裏合わせが頼んである。
美砂の恋路を応援してくれる、頼もしい親友。
美砂も結局は外へ出るよりも、2人で部屋に篭ることを望んだ。
お台場も横濱も、一緒に行こうと思えばこの前の渋谷のようにいつでも行ける。
それよりも、今しかできないこと。
狭い閉鎖空間の中で、全く邪魔されない2人だけのときを過ごしたかったのだ。
短期の「同棲」。
求め合った後も時間を気にして離れる必要はない。
朝、目が覚めるといつもはいないはずの彼が同じベッドで寝息を立てている。
表面上は御山が恋人であっても、あの人は彼のこんな顔を知らない。見ることもできない。
あしたも、あさっても、その先も、永久に、ずっと。
自分にしか許されない独占。
連休もあしたまで。
あす、兄が帰ってきた瞬間に始まる日常。
それまではずっと、この時を…大切に…
ガチャガチャとドアを無理やり開けようとする音。
それに続いて鳴り響く、チャイム、チャイム、チャイム。
そして、
「おーい、美砂!」
兄が、帰ってきた。
「美砂、チェーン外してくれ!」
◇
◇
◇
「何だよ、この航空券。時間は同じだけど、出発日が5日になってるじゃないか」
予約してくれた山葉の父が、連休最終日を5日と勘違いしたのが原因だった。
6日から出勤の父は、何の疑いもなく「今年のゴールデンウイークは5日まで」と思い込んでいたのである。
直ちに6日の便が空いていないか探したが、どだい無理な話である。
「ごめんな譲二。でもまあ、学校前に1日ゆっくりできていいだろ」
確かに、帰った途端あすから学校というのもせわしない。
1日あれば疲れも取れるし、春菜に会うという終わってみればとても大事だった目的も達成できたので、大げさだが、思い残すことはない。
「美砂には連絡しといてやるから」
「…いや、いい。急に帰って脅かしてやるさ」
「美砂のことだから怒るぞ」
「土産も買うし、文句言わせねーさ」
こうして山葉は、予定より1日早く5日の午後6時、彩ケ崎の自宅に辿り着いた。
◇
◇
◇
慌てて服を着ながら東城を起こし、現在進行中の事態を説明する。
まさにパニック。
ドアにチェーンがかかっていたのが不幸中の幸い。
どこのだれだか知らないが、あの不審者に感謝したいぐらいだ。
早くドアを開けなきゃならないけど、すぐに玄関へ行かなかった理由は何にしよう。
お風呂、じゃだめ。ここは2階なんだし。
気分が悪く寝ていた?
いや、顔色はいいからバレてしまう。
そうだ、イヤホンで音楽聴いてたことにしよう。
とりあえず、携帯プレーヤーの電源を入れるだけ入れてみる。
彼も服を身に着け、逃げる準備はできた。
しかし、服を着ていようがいまいが、兄に出会うことは断じてできない。
窓から出るなんてもってのほか。
「東城さん、とりあえずクローゼットに」
小声で伝え、入るべき場所を指し示す。
ただ頷いて、バッグを抱えた東城はクローゼットの中に消える。
美砂の臭いが充満した狭い空間に。
ドアを閉めた美砂は本の詰まった段ボールをさりげなく設置した。
さあ、とにかく玄関へ向かおう。
服が変になってないか、さっと確かめる。
階段を下りながら考える。
台所の食器は…大丈夫。
食卓に変なものは…置いてない。
脱衣所に東城の服は…脱いでない。
「えー、何? あしたじゃなかったのぉ?」
少しだけ開いたドアの隙間の向こうに、兄の顔が見える。
慌てず平然と、向かう玄関。
サンダルを履いて、一歩だけ。
チェーンを外せば‥‥!
目に飛び込んだのは、東城の靴。
幸いなことに、あの隙間の角度からは見えないはず。
「今、開けるから」
チェーンを外すために、いったんドアを閉める。
このときが最初で最後のチャンス。
音を殺し、脇のシューズラックを開く。
新しいローファーの入っている靴箱。
手際よく中身を入れ替えて、これでよし。
かっちゃん
「ただいま」
「どうしたの?」
◇ ◇ ◇
さっき、お昼までは東城がいた場所に兄が座っている。
--そこはあなたの場所じゃなかったのに
あちらで見聞きしたことをいろいろ話してくれる。
--本当なら今も彼と話してたはずなのに
「えーっ、4Kテレビ? 自分たちばっか何よそれ、ひひひ」
いつもなら「ふーん」で済ます美砂だが、後ろめたさと危なさが混じり合った複雑な気分で妙にハイになってしまい、笑いもぎこちない。
「しかもパソコンも新品でさ、いい思いしてるよ、ったく」
目の前には向こうで買った流行りの空弁。
私には「焼きさんまの棒鮨」、兄は「石狩鮨」。
ああ、東城さん、クローゼットの中で何も食べられず、トイレにも行けず、どうしてるんだろう。
早く出してあげたい。
「どうだ、美味いだろう?」
勝ち誇ったような表情。
「すごい、美味しい!」
「ああ、美味いっていえばさ…」
尽きることのない土産話。
いつまでも動こうとしない、兄。
それに付き合わされる美砂。
「でも、きょうはなんか機嫌いいな。何かあったのか?」
「え? 別に。休みでリフレッシュできたなーって。まだあしたもお休みだし、お弁当も美味しいし」
「その割にはあんま食べてないじゃないか」
美味しいと言いつつも、美砂の弁当はまだ半分以上残っている。
「あとで部屋で食べようかなって」
「ふーん、変な奴。ああ、そういえば…」
「春菜に会ったぜ」
そうか。
春菜さんに会ってきたんだ。
そのこと、東城さんにも言うんだろうな。
「‥そう‥元気だった」
「ああ。まだ、東城のこと、大好きだって‥泣かれちゃったよ」
「…」
無理してつくった演技とはいえ、さっきまでの高揚感がいっきにしぼんでゆく。
兄も弁当箱の底を箸で弄びながら、どこか元気がない。
「でも、あいつ、御山と」
「…」
「なんでかな。なんで、あいつ、御山と‥あんなに春菜のこと好きだったのに、なんで。離れてたって、恋人続けられるじゃないか」
「…」
「東城も東城だけど、御山、まるで春菜がいなくなるの待ってたみたいだよな」
兄のボヤキも自分への非難のように聞こえてしまう美砂。
「俺、東城と春菜をまたくっつけようと思うんだ」
「くっつけるって、いっても」
「…距離がな。難しいと思うけど、何とか、また」
◇
◇
◇
3時間以上はあれこれ話していただろうか。
やっと解放された美砂は、自室に駆け込んだ。
「山葉どうしてる?」
「今、お風呂です…」
「‥そっか」
無事に逃げてほしい。
でも、夢のようだったこの数日間を思い、「帰って」とは言い出せない美砂。
東城の思いも同じなのだろう。
脱出の好機に意を決することもできず、「…」と、声にならない声を出すことしかできない。
またすぐに会えるのに、離れたくない。
思い出す、兄から聞いた春菜のこと。
まだ、東城が大好きだと、泣きながら言ったという春菜のこと。
「キス‥して」
とりあえずのお別れに、軽くてもいいから。額でも、ほっぺたにでも、いいから。
私があなたの恋人だという証拠を…ちょうだい。
両肩に手をかけ、見つめる東城。
返事はなく、そのまま抱き寄せ、口の中に舌をねじ込む。
押し倒し、重なる。
嬉しい。
でも、拙いよ…いるのに
分かっていても、止まらない。
止まらなくなってしまった2人。
「…美砂」
耳元のささやき。
唇を重ねたまま、胸を合わせる。
短いスカート。
取り去られる、薄い布。
そして、手を這わせ、
だめ。
離れないと‥
だが、それとは裏腹に求める体。
背中をのけぞらせ、シーツをむしる。
声を押し殺し、漏れそうになる喘ぎを閉じ込める。
…兄がいるのに
…美砂
…ばれちゃう、ばれちゃう
…美砂、美砂
…でも…わたし‥もう
階段を上ってくる気配がする。
でも、とまらない。
とめないで。
脚を絡め、奥深く迎え入れたまま、漏れそうになる声を必死に
隣の部屋。
ドアの開く音。
そこにいる、兄、そして、友。
すさまじい背徳の香り。
出してはならない声。
軋ませてはならないベッド。
乱してはならない息。
脳天に突き抜ける。
脊髄が砕ける。
すべてが白くなる。
完全に、ひとつの塊になって‥‥
!
わずか一瞬の、悲鳴にも似た美砂の声が、東城の口の中に放たれた。