第44話:沙貴子、馴れ初め~その1
文字数 3,350文字
「彩ケ崎、彩ケ崎です。太刀川方面、各駅停車ご利用のお客様は降りました向かい側3番線でお待ちください。4番線の電車は通勤特快
快速電車から降りてくる客を待ち、どっと車内に入る。
後ろから押され、前の客の背中に顔が押し付けられる。
ホームの発車メロディーが鳴ると、その勢いと圧力も増す。
毎朝繰り返される光景。
美咲と並び、このエリアの中核である彩ケ崎市は東京のベッドタウン。
上りほどではないにせよ、美咲や、その隣の太刀川、八皇子に向かう客も多い。
ドアは閉まったはずだが、なかなか動き出さない。
どこかの車両で客が挟まれていて、完全に閉まっていないのだろう。
5月。2年生になってはや1カ月。
連休も終わった、気だるい平日。
冷房を入れるほどではないにせよ、多数の客が押し合い、だんだん額に汗もにじんでくる。
いい加減にしてくれよな。
無理やり乗ってこないで、次のやつ待てよ。
なんでお前のせいでオレたちまで遅れなきゃならないんだ。
どこの誰なのかは知らない。
そもそも挟まれているという確証もないが、その名前も性別も知らない誰かに心の中で悪態をつく。
やっと動き出す。
前の方から客が一斉に押してくる。
つり革がぎりぎりとしなる。
進行方向と逆の向きに体が斜めになるが、それはほかの連中も同じだ。
ほんのちょっとの間、耐えればいい。
みんな、最後の一歩を踏ん張り、自分の場所で決壊しないよう必死だ。
電車がスピードを上げる。
それにあわせ体の向きが徐々に垂直に戻る。
ほっとする瞬間だ。
ふうっと息を吐く音があちこちから聞こえてくる。
込み合いまして大変ご迷惑様です。鷹尾ゆき、通勤特快です。次は、美咲元町、元町です。
いつも聞くアナウンス。
ほとんどの客が毎日同じ電車に乗っているだろうに必要あるのか? とも思う。
オレに密着したままのオヤジがポケットから何とかハンカチを取り出すと、額の汗を拭く。
彼のスーツごしに湿った体温が伝わってくる。
暑苦しい。
少しだけ体の向きを変えてみる。
「ちっ」と心の中で舌打ちする。
東城はふだん春菜と一緒に登校しているが、きょうは一人だ。
家を出るのに遅れ、乗れたのはいつもより2本遅い電車。
2本違うだけで別世界のような激混みだ。
こんなとき「遅いよ、薫ぅ」と口を尖らせて彩ケ崎の改札前で待っていてくれるのが常なのだが、先に行くようメッセで伝えてある。
週番で教室の準備をしなくてはならない彼女を遅刻させるわけにはいかないからだ。
ぶおん、と音がしてエアコンが入った。
急に吹き出してくる涼しい風。
生き返る。
ドアの近くに立っている東城は、何を見るでもなく虚ろな表情だ。
仮に春菜がいたとしても、電車の中ではあまりしゃべらない。
しゃべる用事があったとしても、比較的小さな声でやりとりするようにしている。
満員電車の中ではでかい、というか、普通の声でしゃべらないというのが、通勤・通学客の暗黙の了解だからだ。
東城はきょう、ラッキーなことに進行右側のドア近くの角に位置取りすることができた。
左手でドア横の手すりにつかまり、右肩をドアに押し当てている。
元町は右側のドアが開くので、これならすぐに降りることが可能だ。
これが真ん中あたりだと回りすべてを他の客に囲まれ、つり革にすらありつけない。
揺れたが最後、支えになるのは自分の足のみ。
まるで波にもまれるように、自分の意思の伴わない方向に押され、流される。
ブレーキがかかるときは特に危険だ。
だから、どの客も何とかつかまれるもの、あるいは寄りかかれるものを得ようと、乗車前から必死だ。
学校に入ったころは、そんなこと知るわけもなく、ずいぶんと痛い目に遭った。
目の前に落とした折り畳み傘すら見つからず、ネクタイを客と客に挟まれて引っ張られたり、ブレザーのボタンが飛んだこともある。
もちろん、足を踏まれるなど、物理的にも痛い思いをしている。
学校に着く前から、その日一日の体力すべてを使い切ってしまうような、理不尽な重労働。
ああいう場所だけは避けたい。
そんな、不利な位置に、その娘はいた。
胸の前でカバンを抱え、必死に圧力に耐えている。
周りを幅の広い奴、背の高い奴に囲まれ、まさに翻弄されている。
歯を食いしばり耐えている。
そもそもこのままじゃ元町でも降りられるのだろうか。
距離にすればほんの50センチほど離れているだけだが、それがやたら遠く感じる。
その女の子は御山沙貴子だった。
クラスメートの沙貴子はバレー部員。
体育会系に限らず部活の連中は朝練とかあるだろうに、こんなきわどい時間にどうしたのだろう。
彩ケ崎から元町までは特快ならノンストップとはいえ、途中4駅ある。
今は2つめの
結構大きめで長いカーブだ。
東城は戸袋の窓から外が見えるから今の位置が分かるが、沙貴子は…
「あいつ、つぶされなきゃいいが」
普段いくら体を鍛えているとはいっても、高校生の女の子にこの混雑はきついだろう。
他人事ながら不安になる。
東城の前には、座席横との間に僅かな空間がある。
女の子なら無理すれば押し込めるかもしれない。
いくら満員とはいえ、電車が揺れるにつれ、少しずつではあるが、密着もほぐれ、折りたたんだ新聞なら読める程度にはなってきた。
「この先、揺れますのでご注意ください」
始まった。
車両の左が持ち上がるような感触。
「あ」
小さな叫び声を上げ、人の波に飲み込まれそうになる沙貴子。
だが、揺れた瞬間、わずかに客と客の間の空間が広くなる。
今しかない。
東城は揺れと傾斜を利用して、1センチでも広く周りの客を押しのける。
手すりを握った左手を離すと、そのまままま彼女に手伸ばす。
「こっちきな!」
声を掛けて、安心させつつ、一気に自分の前の空間に引き寄せた。
まさにどんぴしゃ。
空けた空間にすぽっとはまる。
この後はすぐに揺り戻しがくる。
足を踏ん張り、右手で手すり、左手で沙貴子をかばうように荷棚の端を握り締め、そのときに備える。
ぎぎぎ。
直線に戻るため、右に傾いた客が一斉に左に戻る。
全身で圧力を受け、彼女を守る。
ここでこらえ切れなかったら、2人とも潰れる。
なんか、脚がつりそうだ。
東城は背中に巨大な荷物でも背負ったように、歯を食いしばっている。
1秒が長い。
今は武蔵新橋を通過中で、電車も水平に戻る。
少し体が楽になった。
ふう。
彼女もとっさのことで困惑気味だったが、相手がクラスメートだと分かると、安心した表情になった。
体は向き合ったまま密着気味で、沙貴子は左に視線をそらす。
その瞳の中で電車は美咲口を通過し、やがて元町の駅に滑り込んだ。
「あの、ありがとう、東城…くん」
降り立ったホーム。
少し上気して何となく決まり悪そうに目を逸らす。
「いいよ。気にすんなよ」
沙貴子は東城と同じく彩ケ崎の駅から乗っているが、出身中学は別だ。
彩ケ崎は人口55万人のそこそこの都市だから、中学もいくつかある。
東城や春菜たちが駅の北方にある彩ケ崎中だったのに対し、駅から成川を渡って少し奥まったところにある南中が彼女の母校だ。
入学後、クラスであった自己紹介で知った。
ふだんクラスで話すことは殆どないが、かわいい娘だなとは思っていた。
「毎日これだったら、たまんないな」
もじもじと居心地悪そうな沙貴子の気をほぐそうと話しかける。
「東城くんはいつもこの電車なの?」
「いや、家出る時手こずっちまって。普段は2、3本前」
改札を出て、バス乗り場に向かう。
「神姫中学高校行きスクールバスのりば」と書いてあるバス停には見慣れた連接バスがすでに止まっており、立ってる生徒もちらほら見える。
満員電車の次は座れないバス。
いつもなら学校までの坂道を歩くのだが、きょうみたいに遅れたときや雨の日なんかはお世話になることもある。
さすがお嬢様学校だっただけのことはありバスは3台も持っている。
しかし駅前の専用乗降場は1台分のスペースしかないため、乗り遅れると次のバスが来るまで結構待たされることもあり、結局歩くか、路線バスにお金を払って乗るしかなくなる。
ま、若いんだし、基本は歩けということなのか。
「神姫中高行きスクールバス間もなく発車します」
女性ドライバーのマイクの声が響く。
駆け足で乗り込むと、待っていたかのようにドアは閉まった。