第90話:怒りの対決
文字数 6,176文字
いつもより5分ほど遅れて入った朝の教室。
朝食がなかったため、元町駅前のコンビニでサンドイッチなどを調達していたことによるタイムロス。
いつもなら決まった顔ぶれとともに、後から入ってくるクラスメートを待ち受けるところだが、5分の差は大きく、すでに教室内は残り数人という程度にまで生徒が揃っている。
奥の窓際にはすでに東城の姿。
グラウンドの方に目をやり、物思いに耽っているふうだ。
隣の御山は机の上に、水の入ったペットボトル。
開いた文庫本を左手に、視線を走らせる。
まだ買ったばかりなのか、右側は薄く、左側には厚みをかなり残している。
今は別れているが、美砂のことで鍵を握っている、あの2人。
御山。あいつは樺太で春菜に何を語ったのか。
そして、東城。
春菜、御山、美砂。3人の女生徒を繋ぐ接点。
きょうこそ、すべてを白日の下に晒してもらう。
東城には、すでに昨夜のうちに美砂から連絡がいっているだろう。
俺が2人のことを知ってしまったことを、あいつも分かってるはずだ。
今までそうであったように、そのことで俺が何か行動を起こすであろうことも。
「朝から不穏だな」
不意に話しかけられる。
隣の席は穐山。
よほど険しい顔でもしていたのだろうか、普段ならこちらに興味を示すことなどなく、教員が入ってくるぎりぎりまで紀伊國と話をしているのに早々と席につき、こちらの表情を窺っている。
窺うとはいっても、不審そうというか、お前のことなど興味はないのだがなという、どことなく不遜な色を帯びてはいるが。
「‥いや」
あまり相手にしたくないので、それだけの返事。
しかし、穐山はそんな雰囲気を無視して一方的に話し始める。
らしくない。
「昨日、私も行ってみたのだ」
返事はせず、ただ顔だけ向けてみる。
穐山は話しかけておきながらこっちなんか見もせず、カバンから教科書を出しながら続ける。
「メイド喫茶というのは、なかなか良いところだったぞ」
昨日の朝の続きか。
意外に単純なんだな、この女も。
「蓮花が気に入る理由も少し分かった気がする」
なんだかイライラする。
話しかけるな。
俺の頭の中は、それどころではない。
もちろん穐山には関係のないことではあるが、よりによってこんなときに饒舌にならなくてもいいだろうに。
「昨日はあんなことになってしまったが」
東城のことか。
紀伊國に手を出したことがバレ、よく命があったものだ。
手を出したとはいっても、手を握ったり腰に腕を回した程度だが、相手が悪かろう。
「今となっては東城に感謝したいほどだ」
つくづく東城というのは、いろんな女に好かれるものだ。
それがどんな形であっても。
だが、それにも限度というものがある。
相手によりけりであって、それが御山であろうが、春菜であろうが、紀伊國や穐山、船橋であっても構わない。
しかし、俺の‥妹に。
ほかの女と付き合っていながら、俺の妹とも。
許せるはずは‥ない。
「山葉、貴様も東城に連れて行ってもらったらどうだ。東城のように気の利いた店の知識を持っていることはある意味、財産になるぞ」
「…うるせえんだよ」
落ち着いたトーンではあったが、いわゆるドスが利いていたのか。
そのたったひと言は穐山を黙らせるには十分だった。
「‥済まなかった。比較しようなどという気はなかったのだ…許せ」
それ以上、穐山が話しかけてくることはなかった。
◇ ◇ ◇
<6月19日 火曜 放課後>
「お前たち、付き合ってるのか」
腕組みして詰問する。
元町駅の西側にある雑木林の中。
雑木林とはいっても、いつの時代にできたのか朽ち果てた木造の建物が一つあり、そこの少しだけ開けた「元」敷地の中。
滅多に人が立ち入ることのない、隠れた空間だ。
あえて学校を避け、メッセで呼び出した東城は先に来て待っていた。
「昨日も言ったでしょ。わたしたち、付き合ってるから。それが何よ」
声を上げたのは東城でなく、美砂だ。
呼んだ覚えはないが、東城についてきたのだろう。
むしろ好都合かもしれない。
「なんでだ? 俺がお前らが付き合うことを嫌ってるのは知ってただろ」
「え? 何よそれ? 許可を取れとでも言うの? 保護者じゃあるまいし。あは、おかしいよ、そんなの。私たちは私たちなんだから」
東城はあくまで答えない。
呼び出した意味があるのか、返事はすべて東城の横に立ち、腰に腕を絡めた美砂だけだ。
「東城、お前はどうなんだ? 何とか言えよ。御山とも付き合ってただろ。美砂と両天秤にかけやがって」
美砂と目を合わせ、ふっとおかしそうな顔をする。
「ああ、あれか。あれ、カモフラージュ。本気で勘違いしやがったから、振った」
「な!」
「おかげで兄貴も、ぜんっぜん気付かなかったもんね」
全く悪びれることもなく、言い放つ2人。
これが、あの東城なのか、美砂なのか。
「‥な、なんでそんなこと」
「そんなの決まってるじゃない。いちいちあんたが五月蝿いからよ」
「黙ってたのは悪かった。でも、俺は美砂が本気で好きなんだ。それをお前に邪魔されたくなかった。それだけだ。もう、いいだろ」
五月蝿いか。
もう、いいだろ、か。
随分俺も嫌われたもんだな。
それに…
「ふうん、美砂か。呼び捨てか。自分の女のような顔しやがって。人の妹、おもちゃにしやがって、てめえ」
妹の名前を呼び捨てにする東城。
一気に沸騰した俺は、掴みかからんと無意識に数歩前に出る。
だが、東城の前に立ちはだかり、それ以上進ませまいとする美砂。
「おもちゃじゃないわ。わたしたち愛し合ってるんだから、あんたが邪魔する権利なんてないわ!」
「愛し合ってるだと?
一気にまくし立てる。
息が上がり、鼓動も激しい。
「東城さんのこと、そんなふうに言わないでよ! 何も知らないくせに!」
自分の彼をけなされ、敵意をむき出しにする。
「知ってるから言ってるんだ! 事実、そうだろ! 平気で御山を隠れミノに使うような奴じゃないか! 何、騙されてるんだ、お前は!」
「騙されてなんかないよ! 自分だって何よ。かすみ、かすみってのぼせあがってたくせに、紅村さんとも付き合ってたじゃない!」
「な! あれは違う! 話をまぜっかえすな」
「ほーら、慌ててる。説得力ないじゃない。みっともない」
敵意から一転、嘲りの視線を投げかける。
「東城さん、春菜さんとも別れたのよ。何も知らないで、何一人で熱くなってんのよ」
「な、何て言った!」
「だ・か・ら! 春菜さんとも別れて、東城さんは私だけと付き合ってるって言ったの」
「嘘をつくな! 春菜と東城は別れてなんかいない!」
そうでしょ? という顔で東城を見る美砂。
それに応えるよう、美砂の肩に手を置くと、
奴は俺の目の前で、
抱き合って、
キスを
した。
「納得してくれた?」
抱き合ったまま顔だけこちらに向ける。
「東城、てめえ、離れろ! おい! 春菜を振ったのか、本当に!」
「あいつが転校していなくなったあと、確かに落ち込んださ。でもな、そんな俺を慰めて理解してくれたのが、美砂なんだよ。俺のこと、なんでも分かってくれて、満たしてくれたんだ。美砂がいたから、俺は学校に行けたんだ。恩人なんだよ、美砂は。だから、一緒にいると決めた。この先も、ずっとな」
うっとりと見詰め合う。
「東城! 違う! 春菜は、春菜はな、お前のこと待ってんだぞ!」
この街を離れるとき、「薫のこと頼むね」と言って涙を流した春菜。
慣れない街で苦労している春菜。
そんなことも知らず、ぬけぬけと自分だけ幸せになろうとしている東城。
そして、美砂。
「ここにいない人のことなんて考えたってしょうがないじゃない。私、ずっと東城さんのこと好きだったんだから。でも春菜さんがいたから我慢してた。ちゃんと我慢してたんだから! その春菜さんがいなくなったんだから、私が東城さんの彼女になって何が悪いの? 間違ってないじゃない!」
「山葉、俺は春菜のことが好きだった。それは嘘じゃない。でも、もう忘れたんだ。美砂を愛してるんだ。美砂なしじゃ、生きていけないんだ」
「お前ら、何も分かってねー。春菜が、春菜が向こうで、どんな思いをしてるのか」
「俺にどうしろってんだ、山葉? すぐそこに美砂がいて、俺のこと好いてくれて、俺を助けてくれて、俺も美砂のことが好きで。ほかに何の理由がいるんだ? もういい加減にしてくれ! 確かにな、妹のことを思うお前の気持ちは分かるさ。でもな、美砂はお前の持ち物じゃないんだぞ。美砂には美砂の人生ってもんがあるだろ」
「お前なんかが偉そうに、人生だなんて言うな!」
「もういいでしょ、お兄ちゃん♪・・・東城さん、行きましょ」
哀れみの表情を浮かべ、「お兄ちゃん」などと言う美砂。
そんな懐柔に誰が乗るか。
「待て」
返事をする気もなくなったか、2人は黙ったままこちらを見据える。
「春菜な、いじめられてるんだよ、北麗で。救うのはお前だ、東城。そして美砂、お前はそれを邪魔するな」
顔を見合わせる2人。
さすがにこれは効果あっただろう。
黙ったままなのがその証拠だ……が
「嘘つき」
真顔のまま、低い声で吐き捨てる美砂。
「最低だよ、そんな嘘ついてまで邪魔するなんて」
「嘘じゃない! 本人から聞いたんだ! そんな嘘つくわけないだろ!」
「山葉、メッセにはそんなこと書いてないぞ。お前も言うに事欠いて、あることないこと」
「そうだよ。私だって春菜さんからのメッセージ見てるけど、元気そうじゃない。すぐばれる嘘なんかついて、サイっテー!」
「春菜のメッセ、お前も見てるのか……美砂」
「そうだよ。たまに私が返事書くこともあるよ。東城さんのふりして、えへ」
こいつ…
どこまで…腐っちまったんだ。
前は、あんなにかわいいやつだったのに。
憎まれ口を叩くことはあっても、それは、決して本気なんかじゃなく、きょうだいの間の一種の優しさだったはず。
一つしか離れていない歳。
幼稚園も、小学校も、中学も…ずっと一緒で、俺についてきて…
いじめっ子から守ってやったり、川に落ちた大事な帽子を拾ってやったり、一緒に公園で遊んだり、宿題も一緒にやったり…
「お兄ちゃん、ありがとう」って、言ってくれて、慕ってくれて…
かわいかった、俺の妹。
なのに…
こんな…
落ちていた鉄パイプに目がいく。
ゆっくりとそれを拾う。
「離れろ……てめーら!」
殺気を察した2人は抱き合うのをやめ、体を寄せ合ったまま数歩下がる。
それでも美砂は挑発するように、
「あはは、兄さん、ひょっとして妬いてる?」
と、いつかと同じせりふを吐いた。
理性がなくなっていく。
この女!
そして、この男……許すわけには、いかない。
「あんたなんかが何言っても無駄。じゃあ、はっきり言ってあげる! はっきり教えてあげるよ! 私たち、もう何度も愛し合ったんだから。そうよ、セックスしたのよ私たち、何度も、何度も、セックスしたの! 私の初めて、東城さんにあげたの! これでいいでしょ! 分かったでしょ! もう、後戻りなんかできないんだからっ! 邪魔しないでっ!」
変わってしまった、いや、変えられてしまった美砂。
目に浮かぶ、2人の姿。
東城の胸の下。俺が見たこともない顔で、俺が聞いたこともない声をあげ、喘いでいる‥
相手の名を叫び、求めるまま舌を絡ませ、のけぞる体‥‥美‥砂
膨れ上がる劣情。
頭の中で実弾が装填される。
◇ ◇ ◇
嘲る表情はいつしか哀れみのそれに変わり、なおもやめない。
「ふん、あんたが樺太から帰ってきたとき、私の部屋にいたのよ東城さん。で、何も知らないあんたが自分の部屋でくつろいでいたとき、私たち、セックスしてたんだから。薄い壁一枚隔てた私の部屋でね。声出ないようにするの、大変だったんだから。ふふ。ゴールデンウイークも、ずっと部屋にいて、何度も何度も愛し合ったわ」
こんな奴は血を分けた妹ではない。
そして、その原因を作ったのは…
安全装置はがちゃんと音を立てて外れ、
俺は覚醒した。
獣のように、一瞬にして2人の前に走り寄り、振り下ろす。
間一髪よけた2人だが、これが決着をつける場と悟ったか、逃げようとはしなかった。
それなら、いいだろう。
鉄パイプを投げ捨てる。
2人とも、素手で屠ってやる。
「何するのよ!」
もはや妹ではなくなった小娘。
ほんの一瞬、男の側に戻るのが遅かった。
飛び掛かり、左腕を掴むと強引にねじ上げ、こちらに手繰り寄せる。
男が駆け寄るより早く、右手の甲を叩きつける。
「っ!」
悲鳴にならない叫びを上げ、よろける女。
それを抱きとめる男。
「美砂! 山葉、てめえ!」
男が誰かの名を叫び、俺に掴みかかる。
そいつの後ろでは頬を押さえながら、憎しみに満ちた視線を突き刺している女。
男とは互角。
交錯する鈍い音。
赤いものが飛び散り、滴る。
目の前が白くなったり、突然回転し、青い空。
立ち上がり、再び拳を、足を打ち込み、打ち返される。
倒れた男の首を鷲掴みにして無理やり立たせ、顔面を殴りつける。
「これは春菜の分だ」
「これは御山の分だ」
「これは…俺の分だ」
背中から太い木に叩きつけられ、口から血を流している。
気持ちいいぞ! もっと吐け! 一滴残らずな!
握り拳をつくる。
顔面めがけて打ち込んでやるから待ってろ。
!
後頭部に激しい痛みを感じ、振り向く。
女が振り回した革のカバンが直撃したようだ。
ふざけんな、この女。
男を抱き起こし、何かを叫んでいる。
うるせー女だ。黙れ。
鳩尾を蹴り上げる。
苦痛に満ちた表情で膝をつき、しゃがみ込んだまま血の混じった胃液を吐いてやがる。
ざまーないぜ、このメスガキ。
待ってろ。
今、とどめを刺してやる。
生まれてきたことを後悔させてやるからな。
だが、女に覆いかぶさる男。
邪魔な奴だな。
ふと見る。
すぐそこに柄のついた何か赤茶けたものがある。
錆びたスコップだ。
いいものがあるじゃないか。
これで終わりだな。
どこの誰だか知らないが、
脳髄を撒き散らし、
2人とも、
死ね
「兄貴やめて! 殺さないで!」
振り下ろす瞬間、我に返った。
見ると、手はずたずたで、体中に激痛が走っている。
草の上には美砂と東城が倒れ、うめき声が漏れる。
どこで拾ったのか、俺の手には朽ちたスコップ。
ささくれ立った柄の棘が手のひらに刺さり、思わず足元に落とす。
這いつくばったままの2人。
東城は頬を腫らし、咳き込んでいる。
確認するように額に触れた手には、赤い血のり。
制服もボロボロで、飛び散った血や土がまだらを描いている。
美砂も右の膝から赤いものを滴らせ、東城が差し出したハンカチもすぐ同じ色に染まっていく。
立ち上がろうとするが、痛みが走るのか顔をゆがめ、積み重なり堆肥のようになった落ち葉の上に崩れ落ちる。
立ち尽くし、俺はただそれを眺めているだけだった。