第94話:届いた連絡
文字数 3,366文字
教室内の微妙な空気は相変わらずだ。
これが俺1人だけならともなく、狭い空間にはもう1人の当事者・東城がいるわけだから、ただそれだけで全員がピリピリしているのが伝わってくる。
隣の席の穐山も必要なこと以外では話しかけなくなった。
「大変…だったわね」
掃除が終わり、級友のいなくなった教室で話しかけてきたかすみ。
どこか硬い表情で、笑顔もぎこちない。
理由はどうあれ、俺は自分の妹まで殴った男だ。
仕方ないだろう。
誘われても困るだろうと思い、彼女と一緒に帰ることもなくなった。
一方の東城も見える範囲内ではおとなしい。
校門を1人で出て駅に向かう。
あるときは元町で、あるときは彩ケ崎でゲーセンに入ったり、本屋に立ち寄ったりと、ふらふらしながら帰宅しているようだ。
さすがに懲りたのか、そこに美砂の姿はない。
美砂も部活に出づらくなったのか、授業が終わると直帰する日々を送っている。
何しろ母が彩ケ崎の改札前で待ち構えているからだ。
これでよかったんだろう。
ある意味、俺の望んだ結末が手に入ったのかもしれない。
実際のところ、東城も美砂もスキあらば会いたいと思っているに違いないだろうが。
失ったものも非常に多かったが、このまま時が進んで俺も東城も卒業し、美砂も3年に進級するんだろう、などと考える。
月も変わって7月。
そんなある晩、それは慈乗院からのメッセだった。
「春菜が自殺未遂を起こしたらしい」
交流訪問で北麗へ行った慈乗院たちは、一部の生徒と連絡先の交換をした。
その相手から届いた情報だという。
その連絡によると、春菜は慈乗院たち姫高の生徒が帰ったあとも、理由は分からないが、しばらく休んでいたらしい。
御山に美砂のことを告げられ、ショックだったのだろう。当然だ。
1週間ほどして再び登校したものの、再びいじめが始まった。
◇
◇
◇
いつものように、教室の掃除は1人だ。
佐々木玲子を初めとする、5人組監視の下で。
「のろいわねぇ」
「休んでるうちに体がなまったんじゃないの」
「早く片付けなさいよ。私たちの帰りが遅くなるじゃない」
休む前と変わらぬいじめ。
いっときは達観したものの、今の春菜には完全に覇気はなく、言われたことに「はい」とか「すみません」と素直に答えている。
ただ、動きは遅く、ミスも多い。
御山から伝えられた、東城と美砂のこと。
こうやって再び登校を始めたものの、休んでいた数日で傷が癒えるわけもない。
「ほんとにグズねえ」
玲子は腕組みをしながら、見下ろしている。
床の上には絞った雑巾。
はいつくばって拭き掃除をしている春菜が、交換用にあらかじめ絞って床に並べておいたものだ。
「運動が足らないから動きが鈍いのよ」
玲子は並べられた雑巾を足で転がし、春菜はそれをまたすべて拾い集めなければならない。
でも、もうどうでもいい気分だ。
私は薫に捨てられちゃったんだ。
使い古したこの雑巾がいずれは捨てられるのと同じ。
いらなくなったから。
「にしてもアレよねえ。やっぱりショックだったんでしょ」
何かを知っていると言わんばかりの玲子が、嬉しそうに口の端を吊り上げて蔑みの表情を浮かべる。
「え? 何々? 玲子、何か知ってるの?」
「教えてよ」
取り巻きの4人が目を輝かせ、玲子にすがる。
「…ふふん。私、御山さん、でしたかしら。その子から連絡が来たのよ」
「御山って、この前来た神姫の生徒ですよね?」
春菜の動きが止まる。
それを確認すると、玲子は満足そうに続けた。
「この子、東城っていう男と付き合ってたじゃない」
「それで、それで」
「その東城って男がさ」
「やめてよ!」
「親友の妹に」
「やめてったら!」
「寝取られちゃったんですって」
それまでは大抵のことは耐えてきた。
東城が美砂と付き合っていることを知ってからも、それは、この土地では、自分以外には関係のないこと。
この学校がいくら嫌なところであっても、彼氏を寝取られてしまったという事実を知っている者はほかにはいないはずだった。
だから、平気な顔で過ごしてきた。
しかし、その誰も知らないはずのことを知られてしまった。
もう…耐えられない、そんな悲しく恥ずかしいこと。
もう、どうでもいい。
春菜の中でスイッチが入った。
玲子につかみかかると、壁際の窓まで一気。
大きく開いている3階の窓。
「ちょっと、何よ!」
春菜ともみ合いながら玲子が叫ぶ。
だが、春菜の勢いもここまで。
あっという間に取り巻きの4人に組み伏せられてしまった。
「離せ!」
なおも抵抗を続ける春菜だが、多勢に無勢だ。
羽交い絞めにされている春菜の前に、裾を払いながら玲子が近付く。
「本当のこと教えてやっただけじゃないの。感謝なさいよ。それを私に八つ当たりするなんて、サイテーな女。男に逃げられて当然ね」
「違う! 薫はそんなんじゃない!」
押さえつけている4人も必死だ。
振りほどこうとする春菜の力は、それほどまでに強い。
勝ち誇る玲子は、取り押さえられている春菜の前を、わざとゆっくり歩きながら「証拠もあるのよ」とほくそ笑む。
「送ってくれたのよ」
窓を背に、午後の日差しにシルエットのように浮かび上がる玲子の姿。
「御山さんが」
言葉を区切りながら、その影絵のような女はポケットからスマホを取り出し、
最後に、告げた。
「写真をね」
春菜は、もう耐えられなかったのだろう。
東城が去っただけでなく、神姫の同じクラスで過ごした、少なくとも敵ではないと思っていた御山までがこの5人に加担し、最も知られたくないことを知られてしまった。
4人を振り払った春菜は、窓枠に足をかけ、飛び降りようとした。
草の茂っている中庭が見える。
短い夏の陽の光を浴びて、きらきら輝く緑色の草花。
あそこに行けば、私は楽になれる。
さようなら、みんな。
さようなら、薫。
さようなら、お父さん、お母さん。
みんなのこと、本当に好きだった…
体が浮く。
飛ぶって、こういう感じなんだ……
しかし、驚いた玲子たちに体をつかまれ、寸でのところで転落は免れ、春菜は死ぬことができなかった。
しかも、この5人の女生徒は、自分たちがしてきたいじめのことにはもちろん一切触れず、「春菜が誤って落ちそうになったので助けた」とだけ、学校に報告したという。
◇
◇
◇
春菜は転校以来ずっといじめのターゲットにされていた。
彼女のことを気の毒だとは思うが、自分がいじめの標的になることを恐れ、誰も助けられない。
私も廊下から見ていたのに何もできなかった。
恥ずかしい。
その北麗の生徒から送られてきたメッセージは、こう結ばれていた。
「おれ、どうしていいか分からなくってさ」
落ち合った慈乗院は、狼狽して答えた。
「こんなこと、東城に伝えられねーよ。お前と東城との今の関係は分かってるけど、まず山葉、お前しか伝える相手、思いつかなくってさ」
俺もなんて答えていいか分からない。
春菜の顔が目に浮かぶ。
ゴールデンウィーク。訪ねて行った俺と会った春菜は、学校でうまくいってないと言っていた。
しかし、ここまでだったとは…
「うまくいってない」のではなく、これはレッキとしたいじめじゃないか。
しかも、いじめの中心にいるのが、相互訪問でやってきた、あの佐々木玲子って奴だったとは。
「ええ、とても明るくって、元気ですよ」
学食で話したとき、あの佐々木って女はこう言ってのけた。
何が明るく元気にだ。
くそっ! いけしゃあしゃあと。
それに、御山の奴…佐々木にくだらないこと吹き込みやがって。
春菜、東城、美砂、御山、そして佐々木玲子。
次々浮かぶ5人の顔。
今の俺にとって東城は敵だ。
だが、春菜は違う。
彼女には、こんな理不尽な目に遭わされる理由なんてない。
断じてない。
美砂だって違う。
あいつが俺のことをどう思おうと、血を分けたきょうだいだ。
あらゆることが混ざり合い、こみ上げてくる悔しさと怒り。
この湧き上がる感情をどこにぶつけたらいい。
それは、北麗のいじめてる奴らか。
そうだろう。
余計なことをして春菜を貶めた御山か。
そうだろう。
春菜をないがしろにして、美砂を奪っていった東城か。
そうだろう。
だが、春菜を救えるのは東城、あいつしかいないんだ。
東城、お前がしっかりしろ!
お前が、今すぐ彼女を助けに行くんだ。
そうしないと、春菜は、春菜は…
「分かった」
慈乗院にそれだけ告げると、俺は自宅に向かった。