第55話:暗闇の脱出
文字数 3,189文字
職員室や、役員が残ってるであろう一部の教室の窓には明かりは灯っているが、それ以外は真っ暗だ。
向こうに見える体育館なんかは、夜の闇に同化して実に不気味な雰囲気を醸し出している。
グラウンドも、さっきまでキャンプファイヤーが炊かれていたなんて想像もできないほどの静けさだが、火の元のチェックなのか、数人の教職員と生徒が灯す懐中電灯の小さな明かりが、黒一色のグラウンドの上を彷徨う蛍のようだ。
しかし、参ったな。
キャンプファイヤーを見ていたのは体育館近くにある桜並木の下だったのは分かるが、通路に沿ってずらっと並んでいるから、どの一本だったのかさっぱり分からない。
先生とかに事情を話して懐中電灯を貸してもらえないだろうか。
でもな、遅いからって追い返されるかもしれないしな。
東城あたりにはやっぱり一緒についてきてもらって、そこらへんで電話かけてもらえばすぐ解決だったのに。
まあ、いい。
何もせずに帰るのも、わざわざ学校に戻ってきた手前
意を決し、グラウンドへ向かう。
校門をくぐって迷わず部室棟の方へ。
通路を挟んではす向かいにある体育館も扉は硬く閉ざされている。
手前にある水飲み場の銀の蛇口が鈍く光っている。
昼間はあんなに活気のある場所なのに、学校というのはほんと昼夜のギャップが大きいよな。
体育館の裏なんてまさに漆黒の闇の入り口といった趣で、今あんなところに立ち入ったら二度と再び出て来れないんじゃないかという恐怖心すらわいてくる。
さっさと離れよう。
もし見つからなければ、明日の朝いつもより早く出て捜すというのも…
いま、何か聞こえた…か?
そのとき、どこか近い場所から話し声のような音が聞こえてきたような気がした。
立ち止まり、振り返る。
誰もいない。
右、左と見てみるが、やはり姿は見えない。
まあ、遠くから風に乗って声が届いたのかもしれないな。
昼間ならともかく、こんな時間にこんな場所で話してる奴なんて…
また、聞こえた。
周りには誰もいないだろうに、やはり夜ということだからか、どことなくヒソヒソという感じでしゃべっている二つの声。
どうやら女のようだ。
耳を澄ますと、やはり聞こえる。
それも、どうやら体育館の用具室あたりからだ。
用具室は体育館奥の端の角にあり、背を伸ばしても届かない高い位置に小さな窓がある。
声の出所は、そこだろう。
ま、どうでもいい。
俺はさっさと、その場を離れようとしたが、
「でも…ごめんなさい」
何か深刻な話でもしているのか、女の子の悲しげで消え入りそうな声がする。
盗み聞きは趣味ではないが何か気になり、ちょっとだけならと思い小窓の下に張り付いた。
しかしいざ聞こうとすると、とたんに声は聞こえなくなる。
これも、なんたらの法則みたいなもんなんだろうか。
なんかしゃべれよ。時間もないし、いい加減にしてくれ。
勝手に聞き耳を立てておきながら、その見えない相手に怒りがわく。
「…蓮花は悪くない」
れ、蓮花?
いま、蓮花という名前が聞こえたような気がするが、蓮花って、紀伊國蓮花のことなのか?
こんな名前、そうそうないだろう。
少なくとも俺の人生では蓮花なんて名前、彼女が初めてだ。
で、この蓮花が紀伊國ならば、相手は、あ、穐山?
俺はそこで思い出した。
以前、校庭端にある焼却炉でスク水を拾ったとき、鶯谷からもらったあの写真のことを。
体育用具室みたいな部屋の中でハダカで抱き合う2人が写っていた、あの写真だ。
ほ、本当にあの2人は、こんなところで逢瀬を重ねているというのか、今この瞬間も、すぐ目と鼻の先で。
成り行きなんてもちろん知らない。
あの2人がいつからそうなったのかも。
ただ確かなのは、紀伊國と穐山の2人は、下の中学からの持ち上がりだということ。
俺たちが入学した年から高校も中学も共学になったわけだが、その年に付属の中学から上がってきた連中、すなわち、紀伊國や穐山はずっと女だらけの中学で過ごしてきたわけだ。
普通に考えれば中学のときから、いわゆる「出来てた」ってことになるんだろう。
ふう。
ま、仮にだ、今そこにいる紀伊國の相手が穐山だとして、2人とも家は金持ちのはず。
穐山なんか電車で通ってはいるが、雨降りやメチャ暑い日なんか家政婦が運転する車が送り迎えすることもあるっていうのに、なんでこんな貧乏臭いところで会っているんだろうか。
紀伊國だってあんな清楚な感じで、どうしたって体育倉庫なんて似合わない。
お互いの家で会うのは拙いのかどうか知らんが、もう少しマシな場所があるだろうに。
ほ、ホテルとか。
いや、この辺にあるpassion heartとか
つか、何で俺がそんなことに腐心してんだ、バカらしい。
「でも、冴子さん…」
2人の話はなおも続く。
蓮花という名前を聞き、そして今、確かに「冴子」という名前もでてきた。
こりゃ確定だ。
この中には今、紀伊國と穐山がいる。
俺はよせばいいのに、もっとよく聞こうと、つま先立ちで背伸びまでして小窓に耳を近づけた。
「蓮花、もう泣くな」
「…冴子さん」
理由は分からんが、とにかく深刻なことが起きているようだ。
紀伊國を慰める穐山の声も、いつも教室で聞く調子とは全く違っている。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
なんだか息遣いまで聞こえてくる。
ごくりとつばを飲み込み、まるでヤモリのように壁にへばりつく俺。
そして、
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・ぅ」
「・・・蓮花」
「・・・・・・冴子・・・・さん」
え? え? え? え~? ま、まさか、は、始まったのか?
お、女だけの世界が、今そこで!?
と、その瞬間、オレはバランスを崩して転んでしまった。
しかも、すぐ横に立てかけてあったグラウンド整備用のレーキが倒れ、コンクリートの犬走りで派手な音を響かせる。
どこのどいつだ、出しっぱなしにしやがったのは!
だが、そんなことはどうでもいい。
「!」
さすがに「誰だ!」なんて声は発しなかったが、小窓の内側から一種の殺気に似た空気が漏れ伝わってくるのが分かった。
気付かれた。
穐山のことだ、こんなときでもフェンシングのサーベルを持っているに違いない。
俺が盗み聞きしてたなんてことがバレたら、体の前後を8の字に切り裂かれ、あすの朝には東京湾に浮くだろう。
やばい。
とにかく、脱出だ。
体育用具室には外に出る扉もついている。
上着でも羽織れば直ちに飛び出してきてもおかしくない。
俺は一目散で駆け出した。
すると間髪いれず扉が開き、今度はちゃんと「待て!」という穐山の声が響いた。
俺は小一時間問い詰めたい。
世の中に「待て」と言われて待つ奴が本当にいるのかどうかと。
少なくとも俺は待たないぜ!
これ以上のゴタゴタはもう本当にゴメンだ。
ダッシュで逃げる。
後ろから走ってくる足音が聞こえる。
だが幸いにも真っ暗闇。
穐山も俺が誰なのか、後姿からは分かるまい。
間もなく体育館を越える。
あとは一気に部室棟を抜けて、正面玄関から表に逃げ散れば奴だって追ってはこないだろう。
!
が、そのとき、突然目の前に小柄な人影が現れた。
文化祭が終わり、片づけか何かで残っていた部員なのか。
しかしそれが誰かなんて確認する間もなく、そしてよけることもできず、後ろから激突し地面に叩きつけてしまった。
声をを上げる
ぶつかった瞬間、それは女の子だと分かった。
「大丈夫か!」と後ろで穐山の声がする。
本当は放置なんかしちゃいけないのは分かってる。
後ろを振り向いて相手がどうなったか本当は確認したい。
でも、振り向いたが最後、穐山に顔を見られてしまう。
穐山の足止めができたことを幸いに、心の中で「ごめん」と呟き、俺は無事校門を突破した。