第49話:彷徨
文字数 4,193文字
駅前の喧騒の中を、人の流れに身を任せて歩いていた。
呼び込みの声や、店先から流れてくる音楽は耳に入らない。
周りにいる人の顔も全く目に入らない。
誰か知り合いがいたとしても、気付くことはないだろう。
すべての物事が、頭の中を素通りしていく。
ここが美咲元町駅の近くだという認識はあるが、ただそれだけだ。
肩がぶつかって睨みつけられても何も感じない。
「何よあの人」
なじる声が聞こえたような気もするが、それがどういう意味なのか考える気力はなくなっていた。
駅の中を通り過ぎ、反対側に出てもそれは変らなかった。
10月も下旬で、夕方ともなればすでに辺りも薄暗くなり始める。
ネオンサインや車のヘッドライトもただの光という認識しかない。
御山の
目標を
奪ってしまった
体育祭から2日たった今日、腕をつった痛々しい姿で、御山は登校してきた。
彼女は左腕を、骨折していた。
膝を強打したように思っていたが、それよりも腕の方が重大事になっていたのだ。
スカートから伸びた彼女の肢体には、包帯が巻かれているが歩行に支障はなく、普通に歩いている。
しかし、腕の骨にひびが入って腫れてしまい、動かすことができない。
あの日、東城や春菜、バレー部の連中は御山を病院に運んだ。
腕が大変なことになっていたのは、すぐに分かったという。
だが、誰一人、俺にそのことを連絡してくれる者はいなかった。
昨日は体育祭の翌日の日曜日。
何も知らずに一日を過ごし、今日、来てみたらこれだった。
◇
◇
◇
御山の尋常でない姿を見た俺は、すぐに駆け寄った。
その様を見て、教室内が静まり返る。
「ご、ごめん。俺、本当にゴメン。その、……腕、大丈夫?」
「………」
予想したとおりだったが、御山は無言だ。
「……う、腕」
「………」
御山は右腕だけでカバンを開けると、不自由そうに教科書を出し始めた。
利き腕とはいえ、やはり片方だけでは不自由だろう。
教科書を出すといっても、もう片方の手でカバンを押さえたりする。
そんな普段無意識にやっていることができなくなっただけで、何倍もの時間や手間がかかる。
俺はそれに気付くと、そっとカバンに手を添えて助けてやろうとした。
「触らないでくれる」
とても小さな声だった。
俺の方を見るでもなく、視線はただカバンに注がれている。
なおもノートや筆箱を出しながら、ただ小さく声を発した。
「う……」
俺は手を引っ込めるしかなかった。
「ちーっす!」「おはよ~」
東城と春菜が教室に入ってきた。
「東城くん」
声を聞いた瞬間御山は立ち上がり、東城の方に近寄ろうとした。
「あ、いいっていいって。どう、痛む? って、2日だもんな、痛いに決まってる か」
「ううん、昨日は痛みが残ってたけど、今朝はだいぶ楽になったの」
「そっか、よかったじゃん。でも無理しちゃだめだぜ」
「うん。東城くん、その、本当にありがとう」
御山は深々と頭を下げ、東城に礼を言った。
「そんな、礼なんか言うなよ」
東城は真顔だ。
「でも、残念だったね御山さん。気休め言いたくないんだけど、その…気を…落とさないでね」
春菜はカバンを胸の前で抱きながら、慰めている。
その言葉に、御山も東城もうなだれてしまった。
「気を落とさないでね」って何だ?
ま、まさか!
「みや……御山さん、まさか?」
俺は血色を失い、恐る恐る尋ねた。
しかし3人とも気まずそうに無言のままだ。
東城は天井を向いたまま、視線をさまよわせている。
「なあ、どういうことなんだよ。おい、春菜さあ」
「………」
春菜も下を向いてしまい、白い上履きのつま先をこねている。
「ちょっと来てくれる、かな」
3人とは違う声が、入り口の方から響いた。
K組の久下だった。
「そんなに時間は取らせないから」
バレー部副将である久下が、俺に教室から出るよう首で促す。
従わざるを得なかった。
俺は別にリンチを受けたわけではない。
ただ淡々と説明を受けただけだ。
御山が秋の大会は絶望だということ。
動けないのに主将をやるわけにいかないと、今朝登校するなり退部届を出してしまったということを。
まだ、ボコボコに殴られた方が気持ちが良かったかもしれない。
しかし部員たちにいつもの覇気はなく、1年生の中には泣いてる娘までいて、それが逆にひどく堪えてしまった。
リンチ以上にダメージを受けたと言っていい。
何も言えず、ただ黙って聞いているしかなかった。
◇
◇
◇
クラスだけでなく、学校のほとんど全員が知ってるのが辛いよな。
はあ、もう嫌だ。
学校、辞めちまおうかな…できっこないよな。
学校が終わり、俺は何時間もずっと元町駅の周りを行くアテもなくふらふらしていた。
ゲーセンで格ゲーをしまくり、コーラを飲み、ガード下の自販機に蹴りを入れたり。
人相も悪くなったのかな。
ヨソの女学生が俺の顔を見て、道を開けた。
そして、こんな時にどうして。
いつの間にか彩ケ崎の駅まで戻っていた俺は、気がつくと香澄庵の中に入っていた。
「いらっしゃいま…」
手伝っているかすみは一瞬、困惑の表情を浮かべたが、すぐに空いている席に案内してくれた。
「お腹空いたでしょ。マツタケの炊き込みごはんがついた、おそばの定食なんかどうかしら? ううん。マツタケっていっても、ほんのちょっとだから、他の定食と同じ値段よ」
「うん。じゃあ」
かすみは努めて笑顔を作ると、厨房に下がっていった。
「気を遣わせてるな」
何だかものすごい罪悪感にさいなまれる。
それと同時に、かすみの優しさを感じ、何だか視界が滲んできた。
だがこんな時でも空腹は襲ってくる。
昼は何も食べていないことを思い出した。
鳴る腹に、情けなさと腹立たしさを感じながら、食事を待った。
結局俺はゲーセンでカネを使いすぎてしまい、またしても、かすみにご馳走してもらうハメになってしまった。
今日だけは、こんな日だからなおのこと、ちゃんと払いたかったのに。
恥ずかしい。
悔しい。
情けない。
そして悲しい。
「気にしないでね、山葉くん。今度、そうだ、何かご馳走してよ」
ニコニコと送り出すかすみに、うなずくことしかできず、店を出た。
店を出ても、足は家の方を向かなかった。
美砂だって、御山の事件のことは知っているだろう。
そして、こんな日でも晩ご飯は作っているはずだ。
しかし、だからなおのこと避けたい。
そんな雰囲気だ。
◇ ◇ ◇
家とは反対の方に歩き続け、いつの間にか川を越え、目の前には団地が見えてきた。
ゴーっ
終点で客を降ろした市電が、空っぽになって駅の方に戻っていく。
もう何時だ?
時間を確かめるためにスマホを見る。
9時か。
メッセも着信もない。
団地の中にある小さな公園で、ブランコに座ったまま、見るともなしに部屋の明かりを見ていた。
テレビの音がかすかに聞こえてくる。
もう寝なさい、とどこかの母親が子供に言っている声が聞こえる。
雲もなく、夜空には星がまたたいている。
もう、さすがに帰るか…
立ち上がり、帰ろうとした時、向こうから小柄な人影が近づいてきた。
通路なのだから当然だ。
俺もそちらの方に向かう。
その人影は、暗いなりに躊躇しているのが分かる。
そりゃそうだろう。
不気味だよな、こんなところで誰だか分からない相手に出合うなんて。
2人が同時に街路灯の明かりの中に入ったとき、さっきまでの人影が驚いたように、だが小さな声を上げた。
「山葉さん」
それは、吉村だった。
そうだ。
以前、住所録を見てたとき、吉村はこの成川団地に住んでると知ったんだ。
別に年賀状や暑中見舞いを出す相手でもないが、何の気なしに見ていて気がついたのだ。
「ああ、吉村…さん」
「どうしたんですか?」
もう一度は家に帰っていたのだろう。
私服姿の吉村は、左手に小さなスーパーの袋を提げて佇んでいる。
「いや、何か気がついたらここに着いちゃってさ」
「……」
「ごめん。びっくりさせちゃって」
「……」
「じゃ、おやすみ」
「……あ、あの」
「え?」
「あの。大変でした…ね」
「……」
「でも、山葉さんだけの責任じゃないです。なのにみんな、山葉さんだけのことを責めて」
「いいんだよ」
「よくないです。みんなだって知ってるはずです」
「何を?」
「御山さん、一緒に走る気まるでなかったじゃないですか。しっかり息を合わせなかったから、だから、転んだんですよ。それなのに」
「いいって。俺が悪いんだから」
「……あの」
「え?」
「寒いですから、お茶…でもいかがですか?」
「え、いいよいいよ。もう帰るし」
「大丈夫ですよ。父は仕事でいません。夜勤なので戻ってこないんです。さっき、忘れていったお弁当を届けてきたところです」
不意に思い出した。
吉村の家が父子家庭だということを。
なぜ父子家庭なのか、理由は知らない。
ただ、父親は彩ケ崎駅の近くにあるタクシー会社でドライバーをしており、苦労して娘を育てたということを、誰かがしゃべってたような気がする。
彼女も家庭の事情を充分承知し、必死に勉強して特待生で姫高に入ったという。
特待生は入学金も授業料も免除だ。
このまま上手くいけば、上の大学にも無料で進学できる。
「さあどうぞ」
部屋に通された俺に、吉村は温かい紅茶を出してくれた。
何だか生き返る。
昼間は温かいとはいえ、やっぱり10月。
この時間になると肌寒い。
今の俺にとっては、とても幸せな温かさだった。
その後も吉村は俺の話を聞き続けた。
今回のこともそうだが、それ以外の他愛のない話も。
クラスで見る姿とは違い、彼女もニコニコしている。
この娘もこんな表情豊かだったんだな。
「でさ、妹にも困ってるんだよね」
いつしか話題は家族の話になっていた。
美砂や両親、祖母の話など、いろいろ思いつくまま一方的にしゃべっていた。
そして、吉村の悲しげな表情に突然気がついた。
しまった。
彼女はお父さんと二人暮らし。
お母さんは…ここには…いないんだ。
「母は、私が小学生の時に、交通事故で亡くなりました」
「……」
「朝、学校へ行くときに喧嘩したんです」
「……」
「帰ったら謝ろうと思っていたんです」
「吉村」
「なのにすぐに帰りたくなくて。学校を出た後に、電話があって。でも、そんなこと知らなくて…」
「吉村、いいよ。やめろ」
「遅くなって帰ってきたら、お母さん、うう……病院で冷たくなってて……ううっ」
「吉村」
泣きじゃくる吉村を抱きしめた。
そんな辛い話、させてしまった。
そのまま抱きしめ、いつまでも、いつまでも、頭を優しく撫で続けた。