第46話:沙貴子、馴れ初め~その3
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椎名との話も終わり、あとはゴミを捨てて帰るだけだ。
ゴミ捨て場はグラウンドの奥、敷地の最も外れにある。
焼却炉が置いてあるコンクリートで囲われた一角に複数の金属製コンテナがあり、それぞれ「燃えるゴミ」「プラスチック」「その他」などと分別名が書かれている。その中に各教室から出たゴミを分けて捨てるようになっているのだが、きょうは紙ばかりなので「燃えるゴミ」に放り込むだけでOKだ。
さっさと投げ込みその場を後にする。
腕時計を見ると4時15分。
駅には普通に行けば30分すぎには着くだろう。
それほど急ぐでもなく東城は校門に向かう。
グラウンドの端では白い道着の空手部が掛け声を上げながらランニング中だ。
トラックのあちこちで陸上部の生徒が後輩に背中を押され体を伸ばしている。
美術部員だろうか。フェンス際で数人、陸上部の練習風景をスケッチしている姿が見える。
施設棟の方からは吹奏楽部の奏でるメロディーが耳に届く。
同好会でいいから部活入ればよかったのかなと、この前の朝と同じことを考えてしまう。
プールを通り過ぎ、体育館の横。
気候もいいので建物側面の大きな鉄の扉は全開で、中の様子がよく見える。
御山のバレー部が練習中だ。
ミニゲームなのか、ネットを挟んで部員たちが実戦形式の練習をしている。
コートの横には数人の生徒が立ち「辻井さん、もっと腰を落として」とか「永田さん遅い!」と、なかなかの迫力だ。
スポ少時代を思い出し、つい足を止めて見入ってしまう。
きゅっ、きゅっとシューズの音がする。
壁際では新1年生とおぼしき連中が腕立てや腹筋の真っ最中。
最初はボール触らせてもらえないんだよな。懐かしい。
「気になる?」
それは、沙貴子だった。
「御山さん」
「靴脱いで、どうぞ」
時間はあまりないが、即答で断るのも憚られるような気もする。
東城は少しならいいかと、沙貴子とともにコート端で見学を始めた。
ゲームは白熱して、手前のチームも奥のチームも一歩も引かない。
「あの子たち、中学の後輩だったの」
「え? じゃあ、1年生?」
「うん。全員じゃないけど。南中はバレーに力入れてるから橘花とか行く子もいるんだけど、今年はどういうわけかバレー部だけでも神姫に10人」
掃除のときの椎名の話が蘇る。
きっとここにいる南中出身の子たちにとって、沙貴子は憧れの存在だったんだろう。
強豪でもないのに、先輩と同じ高校に入りたいと思う、その気持ち。
沙貴子は南中で、どのようなバレー選手だったんだろうか。
強さだけじゃない、人を引きつける魅力とかも併せ持った存在だったんだろうな。
腕組みしてゲームを眺めている沙貴子の横顔は、電車の中で助けたときの照れた表情からは想像できない、思わず見入ってしまう凛々しさにあふれていた。
ピーっと笛が鳴る。
沙貴子に見惚れている間に僅差のゲームが終わった。
「見せてくれてありがとう。じゃ、オレはこのへんで」
「スパイクサーブ見せてもらえないかな」
ちょうど良いタイミングと感じ、引き上げようとした東城を沙貴子は呼び止めた。
「え?」
「大丈夫、勧誘じゃないから」
「もう何年もやってないし、真面目にやってる子たちに悪いよ」
「1球だけ。わたしがレシーブするから」
沙貴子はコーチやチームメートのところに向かうと、一言二言説明する。
全員が一斉に東城の方を向く。
沙貴子は右手で転がすようにボールを東城に送ると、ネットの向こう側で腰を落とした。
ブレザーの上着を壁際に投げ、靴下を脱ぐと東城は久しぶりでコートに立った。
子供のころの試合で会場に響いていた歓声が不意に頭の中に再現される。
目をつぶる。
ボールを高く上げ、ジャンプ。
バシッという音。
沙貴子の返したボールをワンバウンドで受け取ると、拍手が起きた。
「あ、ありがとう。やっぱり男子は、強いね。手がしびれちゃった」
駆け寄ってきた沙貴子。
「今度、部活のない日にでも付き合ってもらえないかな」
「オレでいいならね」
こうして、東城と沙貴子の距離はまた一歩近づいていった。
「部活のない日」というのが今のバレー部に本当にあるのかどうかは分からない。沙貴子なりの一種の社交辞令的な挨拶だろう。
昔やっていたとはいえ、小学生と高校生では全然違う。素人と変わらぬ男に、沙貴子の練習相手など務まるわけないと、東城は当然考える。
しかし、沙貴子の東城への思いは、バレーという共通項ではなく、一種の恋に近いものに変化しつつあったのだ。
頭の片隅には今まで余計なものは詰まっていなかった。
だが最近は、小さいけれど何かがある。
それはしこりのように、気になりだすとそこにだけ気が向いてしまう。
そのしこりは快く、ボールを持っているときも、授業中開いた教科書やノートに目を落としているときも、夜、布団の中に入ったときもついて回る。
その小さいものは少しずつだが育っている。
朝練で誰より早く元町の駅に着くと、いるはずないのについ周りを探してしまう。
教室では気がつくと目で姿を追っている。
5月も終わろうとしている。
その日の部活もみっちりで、片付けなどを終えると6時半になっていた。
去った夕立、オレンジとグレーの空。
「あすは英語の小テストかぁ」
体育館を出て校門に向かいながら、憂鬱な声を漏らす。
「うちの組もあした。抜き打ちじゃないだけマシなんだけどね」
並んで歩く久下も諦め気味に相槌を打つ。
「朝練あるから、今夜寝る前に教科書見て予習するしかないよね」
「そだね。でも、紫村先生『ここ重要よ』って言ってくれるから、そこに線引いてあると、だいたいそこから出るよね」
「そう。優しいよね、かなで先生…あ!」
「沙貴ちゃん、どうしたの?」
「教科書、机の中」
「やばいじゃん、それ」
「わたし取ってくるから先帰ってて」
少しうんざり気味に、沙貴子は教室に向かった。
この時期、全員下校は夜7時なので時間的には若干余裕はあるが、生徒の姿はすでにほとんどなく、気が急く。
薄暗い教室に着き、教科書をサブバッグにしまう。
「さっさと帰ろっか」と自分に声をかけ、出口に向かう。
そこで、ふと、東城の机の前で足が止まった。
一瞬躊躇して机の表面を撫でる。
そこに東城がいるわけではないのに、少しほほえむ。
「また、あした」
無人の机に声をかけ、教室を出ようとしたその瞬間、駆け込んできた男子生徒とぶつかりそうになった。
「うわあ、み、御山さん」
「と、東城くん! はあ、びっくりした」
どきんと胸が鳴る。
もちろん驚いただけではない。
何か、思いが通じたような嬉しさ。
話を聞くと、東城も教科書を忘れたことに気づき、家から戻ってきたところだという。
「わたしも、教科書忘れそうになって、教室に戻ったところなの」
「やばいよね。7時に施錠だから間に合ってよかったよ。だけど御山がいること分かってたら、もう少しかっこよく現れたのにな。ははは」
「何それ、ふふふ」
2人しかいない教室で笑い合う。
今まではバレーばかりを見ていたけど、こういうのも楽しい青春なんだな。
しみじみと思う沙貴子。
「どうせ駅同じなんだし、一緒に帰ろうぜ。暗くなるしさ」
「あ、ありがとう」
沙貴子は東城と並んで下校。
暗くなった坂道。
道路側には東城が立ち、後ろから自転車が走ってくれば「危ないよ」と体を寄せて守ってくれる。途中にあった少し大きな水たまりを越すときは「大丈夫?」と手を差し伸べてくれる。
彩ケ崎の駅。南口まで送ってくれた東城に、沙貴子は一か八かで問いかけた。
「あした、体育館の応急修理で放課後の部活が休みになったの。だから、昼休みに10分でいいから個人練習付き合ってくれないかな」
「いいよ。終わってからでも昼飯食うかい、一緒に」
心のなかでガッツポーズし、沙貴子は家路に就いた。