第26話:医務室の騒動
文字数 3,842文字
目はつむったままだが、額にはうっすらと汗をにじませている。
熱でもあるのだろうか。
ブラウスの胸は少しはだけ、ブラウンのブラが少し見えている。
レナーテはブラウスの乱れをさりげなく直すと、額に手を当てた。
「熱はないみたいだけど…どうして」
かえで先生は本当に具合が悪いのかもしれない。
しかし、欠勤の連絡は聞いていない。
それとも、学校に来てすぐに具合が悪くなって、連絡もできなかったのだろうか。
けれども、医務室には妙見先生がいるんだから、連絡できないほど具合が急激に悪くなったんなら、妙見先生が教頭とかに言うだろう…
なんでだ。
なんで、ここにかえで先生が。
俺は、以前かすみから聞いた、医務室から女子生徒がふらふらになって出てくるという話を不意に思い出していた。
まさか、それとこれは関係があるんだろうか。
「レナーテ」
「え?」
「これおかしいよ。ほかの先生、呼んできた方がいいかもしれない」
無断欠勤したはずのかえで先生が医務室にいる。
レナーテも、この異常事態は理解している。
俺たちは黙って頷き合うと、医務室を出ようとした。
相変わらず部屋にはほかに人の気配はない。
俺はドアを押し開けると先に廊下へ出た。
「とりあえず職員室へ行こう」「でも、かえで先生が、あんなところでどうして」「先生たちより、理事長に言った方がいいのかな」「レナーテさ、どう思う?」「レナーテ?」「レナ…」
俺は、いや、俺たちは急ぎ足で職員室に向かっているはずだった。
少なくとも俺は向かっていた。
その間、一人で焦ってしゃべりまくっていた。
レナーテから返事がないのは、彼女も混乱しているからだろうと思っていたからだ。
でも、あまりにも返事がなく、変だと思い振り向くと、そこにレナーテの姿は、なかった。
「レナーテ!」
校舎の一番奥にある医務室。
振り向くと、そのドアは見える。
しかし、途中に交差する廊下もなければ、他の部屋へのドアや窓もない。
彼女は、どこへ消えたんだ!
俺の背中に、物凄く冷たいものが走った。
恐る恐る、俺はUターンした。
医務室のドアに手をかける。
ノブを回すが、開かない。
さっき医務室からは俺が先頭に立って出た。
レナーテは後ろに続いているはずだった。
でも、彼女はいない。
そして、ドアは開かない。
これは絶対何かとんでもないことが、あの医務室にはある。
脂汗が出てくる。
膝が震える。
歯がガチガチ鳴る。
俺は職員室へダッシュした。
「先生! 大変だ、先生! 誰でもいいから先生!」
駆け込んだ職員室で大声で叫んだ。
しかし、広い職員室の中にはだれ一人いなかった。
「んな、バカな」
全校合わせて13クラス。教職員だって50人以上いる。
全員出払うほど忙しいワケないだろ!
だいたい、いつも一番奥の机で目を光らせている伏木教頭の姿も見えないじゃないか。
教頭は授業なんか持ってないんだから、いろよな!
俺は廊下に飛び出すと、隣の理事長室のドアをノックした。
返事はない。
さらに強くノックを繰り返す。
返事はなかった。
「寝てんのか、あのおばはん!」
ドアノブに手を伸ばし、少し躊躇しながらも回してみると、ドアは簡単に開いた。
顔だけを突っ込める程度に開け、中を覗きこむと、やはり理事長の姿はなかった。
何なんだ、この嫌な感覚は。
この学校に俺一人しかいないような、絶望感と孤独感。
外は快晴だ。
グラウンドでは体育の授業があるはずなのに、そういえば声一つ聞こえてこない。
「これは拙い。これは拙い。拙いんだよ、これは!」
叫びながら一気に階段を駆け上り、自分の教室に向かった。
「いてくれよ。いてくれよ、みんな! もぬけのカラなんてゴメンだからな!」
ドアの前に立つ。
開ける手が震える。
深呼吸して息を整える。
耳をそばだててみる。
何一つ、音は聞こえない。
「んな、そんな…」
ばしゃーんという、大きな音とともに勢いよくドアを開け放ち、もんどり打って教室内にとび込んだ。
◇ ◇ ◇
そこに、クラスメートの姿は、あった。
レナーテを除いて。
全員、ぽかんと口を開け、俺の方を見ている。
ちょうど宗教の授業の真っ最中で、イタリア人のピアッツァ牧師はチョークを握りしめたまま立ち尽くしている。
体温の復活した俺は、一気にまくし立てた。
「かえで先生が医務室に囚われてるぞ! レナーテも拉致られたぁ!」
多少脚色があってもいい、てか、その通りだろう。
こういうことには特にノリのいい東城が一気に火に油を注いだ。
「突撃だぁ! かえで先生とレナーテを救い出せぇ!」
生徒たちは怒涛の勢いで教室を飛び出した。
その様子に驚いた両隣のクラスの連中も合流。
一気に勢いを得た俺を先頭に、全員が医務室に殺到した。
「うおりゃあ! 出て来い、妖怪!」
「かえで先生を返せぇ!」
「ドアを蹴破れ! 突入だぁ!」
「誰だか知らんが、血祭りだ!」
「やっちまえ~」
大歓声の中、俺は医務室のドアに体当たりした。
さっきと同じように、びくともしない。
もう一度体当たりする。
やはり、開く気配はミジンもない。
そのとき、春菜が冷徹に言い放った。
「何やってんのよ山葉。引くんだよ、このドア」
「え?」
恐る恐る、ノブに手をかけ引いてみる。
ドアはあっさり開いた。
まあいい。
中にかえで先生が囚われていることに変わりはない。
俺たちは医務室になだれ込むと、ベッドに駆け寄った。
「どこにもいないじゃんかー」
俺を蹴倒しベッドに突進した慈乗院が叫んだ。
「だーから、山葉! かえで先生どこよ?」
「え~、何よこれぇ。何にもないじゃない」
「おい、山葉。おめー、授業サボったの誤魔化すために芝居してんじゃねーだろうな?」
他の生徒から一斉に非難の声があがる。
「いや、いたんだよ、かえで先生ここにさ。俺見たんだって! 胸はだけて寝てたんだって!」
「胸がはだけてたぁ?」
慈乗院が血相を変えて肉薄してきた。
「はあ? かえで先生の胸を見たのかお前?」
東城が半ばニヤニヤしながら、迫ってくる。
「山葉が、かえで先生の胸を見たってよ」
「何? かえで先生の胸を揉んだぁ?」
「おい、聞いたか。山葉がかえで先生の胸を撫で回したらしいぞ」
「山葉が、かえで先生を無理やり連れ込んだんですって」
「ベッドに押し倒してキスしたんだってよ」
「服をひんむいたんだって」
「止めようとしたレナーテさんまで巻き添えで、服剥ぎ取られたんですって」
「ベッドに縛り付けて、触りまくったってよ」
3クラス分の120人近い生徒が集まっている。
最後尾に話が届く頃には、とんでもない尾ひれがついて広まってしまった。
何でそうなるんだ! お前ら人の話をちゃんと聞け!
「で、小錦理事長のパンティーをひっぺがしたら逆にキス責めに遭ったってマジ?」
「はあああああああ?」
俺の真後ろの仁科のところに話が戻ってきた頃には、話は完全に別物と化していた。
かえで先生の「か」の字もない。
医務室内と、入りきれずに廊下に溢れた生徒たちがザワついている。
こりゃいかん、何とか収めないと大変なことになる。
「おい待て! 俺の話も聞いてくれ」
全員の視線が集まった、そのときだった。
「あらあら、どうしたのみんな」
聞き覚えのある声が、生徒たちの最後尾から聞こえた。
そこに立っていたのは、かえで先生とレナーテだった。
「あ、かえで先生!」
「わぁ、かえでせんせぇ~!」
女生徒の中には泣いてる連中までいる。
普段と変わらない、かえで先生の無事な姿を見つけ、感極まったのだろう。
あちこちから、かえで先生という声が上がり、収拾がつかない状態になっている。
やがて、他の教員も集まってきて、俺たちは解散させられ、それぞれの教室に戻った。
コトの顛末はこうだった。
かえで先生は昨晩、宿直だったのだ。
宿直室で仮眠をとっていたがエアコンを止め忘れ、朝起きたら体調がすぐれず頭痛がする。
理事長にワケを話し、医務室で薬を飲んでしばらく休ませてもらうことにした。
で、以前、国語の教員だった理事長が代わりに俺たちの授業を受け持ったと。
ホームルームはかえで先生が休んでいるため行われず、そのまま授業が始まった。
理事長は、妙見先生にかえで先生のことを生徒に伝えるよう頼んだが、登校直後にケガをした生徒が出たため、妙見先生は急いで自分の車で妙見外科へ連れて行ってしまい、俺たちに伝えることはできなかった。
話は伝わったものと思っている理事長は、その件に一切触れずじまい。
一方、医務室のエアコンは故障しており、室内が暑いため、かえで先生は苦しそうな表情で寝ていたらしい。
俺が医務室を出たちょうどそのとき、かえで先生が目を覚まし、レナーテはそれに気がついた。
レナーテは俺が職員室に着いたころ、かえで先生を伴い、医務室を出て職員室へ向かった。
その後、俺がクラスに駆け込んだときに、かえで先生とレナーテは職員室に入ったため、全く俺とは出会わなかったわけだ。
理事長室に小錦がいなかったのは、1年生のクラスで国語の授業をやっていたためで、別の教員がいなかったのは、なんと食堂で早メシを食っていたからだという。
その時間、偶然にも体育の授業はどのクラスも行われていなかった。
結局、かえで先生の不注意、理事長の思い込み、妙見先生の連絡忘れなど、いろんな些細な要素が絡み合い「かえで先生失踪事件」が勝手に発生したわけで、それぞれに微妙に責任があるため、この件で俺がお咎めを受けることもなかったが、なんともまあ。
とりあえず、俺がとんでもないお騒がせ野郎というラク印だけは押されちまったっぽい。