第64話:妹の瞳
文字数 3,560文字
その日、東城はやっと年賀状の返事を書き終え、団地内のポストに投函。そそくさと部屋に戻る途中だった。
正月5日。
夜の8時もすぎ、この後は特段予定もないので撮り貯めたビデオでも見ようと思っていたのだ。
ふと振り向く。
空っぽのバスが通り過ぎてゆく。
道路を挟んだはす向かいには春菜の部屋。
カーテンが引かれ、室内に明かりはない。
「出かけてるか」
東城はそのまま自分の棟のエレベーター乗り場に向かった。
2台しかないエレベーターはどちらも昇っていったばかり。
寒いこともあり、東城は6階まで一気に階段で向かう。
「はあはあ」
駆け上り、目的の階に着く。
ほこりを被った三輪車や、シートを被せたままずっと放置してある原付バイクが置いてあるエレベーターホール。
バイクのカバーには「自転車・バイクは駐輪場へ」という手書きの警告書が貼ってあるが、赤いマジックの文字も色あせている。
切れかかった蛍光灯の中の1本が、断末魔の点滅を繰り返している。
壁には色焼けした防火ポスターや自治会からのお知らせ。
窓の向こうには、同じ形をしたアパートが二つ、こちらを向いて並んでいる。
違うのは建物の外壁に付いている銀色の大きな数字だけ。
追い抜いてしまったようで、さっきのエレベーターはまだ5階にいる。
膝に手をつき息を整える。
「ふうっ」と大きく呼吸し、通路に出た。
同じ形のドアが続く通路。
部屋はその一番端っこだ。
まだ正月休みから帰ってこないのか、新聞がささったままの部屋も数軒。
視線を正面に向けると、誰かが自分の部屋の前にいる。
ドアに背を向け、下の地面を眺めている少女。
「春菜?」
彼女はソックスにサンダル履きで、くたびれたダウンを羽織っているだけだ。
いくら近所とはいえ冬の1月。
ふだんの春菜は、ちょっとコンビニへ行くだけでも着る服を選ぶほどなので、見ただけで様子が違うのが分かる。
「春菜」
小走りに近づきながら、もう一度声をかける。
振り向いた彼女の目は涙をためているのが見える。
「春菜、どうした」
「…わたし」
「春菜」
「わたし、離れたくない」
「離れたくないって、何言ってんだよ。ずっと一緒に決まってんだろ」
「だって…」
「何があったんだよ」
「私、嫌だって言ったけど、うっ、うっ」
「え?」
「わああああああああ」
◇
◇
◇
それは突然のことだった。
年明け最初の登校。
3学期が始まった日。
春菜の転校が告げられた。
春菜の父親は大手商社員だ。
大組織だから国内外のどこへ転勤してもおかしくないのだが、何も年明け早々にこんな話がもたらされるとは。
父親への内示は12月アタマだったというが、親なりに考えて春菜に告げたのは年明けだったという。
異動は2月1日付で、行き先は俺の親父と同じ樺太。
親父に聞いた話では、樺太は国のエネルギー特区になっており、開発や対ソ貿易、それに関連する日本中の大小さまざまな企業が進出して発展も目覚ましく、日本でも一、二を争う「熱い」エリアなのだという。
対岸の北海道・稚内との間では鉄道用の海底トンネルも工事中で、来年には開通する。
転勤族も多く、至るところにマンションが新築されているそうだ。
引っ越しにはまだ1カ月近くはある。
しかし手続きや準備などを考えると、残り日数はあまりにも少ない。
エスカレーターとはいえ、大学受験を控えた子供がいれば、普通は父親が単身赴任というのが相場だろう。
しかし、姫高は複数の系列校からなる美咲学園グループの中の一つだ。
よりによって樺太にも同じ系列の高校があるというのが、彼女にとっては不運だった。
ほぼ同じカリキュラムなので、転校にも全く支障はないという。
系列校はそこだけでなく、和歌山や広島、富山、秋田にもある。
「交流」と称して毎年数回、選ばれた生徒が相互訪問しているが、俺はさして興味をいだいてはいなかった。
まさか、こんな形であちらの学校を意識することになるなんて…
さらに彼女の家は社宅。
転勤が決まれば出て行かなければならない規則だ。
母親や子供だけでは暮らせない。
春菜の落ち込みは激しく、生気が失せている。
それなりの抵抗はしたようだが、無駄だったらしい。
「でも、こっちの大学を希望すれば、1年したらまた会えるじゃない」
「そうですよ。外国行くわけじゃないんだし。それに夏は過ごしやすくて羨ましいなぁ」
「私たちも遊びに行くから…」
かすみや来栖たち数人が元気付けようと慰めの言葉をかけるが「うん」というのが精一杯だ。
完全に落ち込んでいる。
俺たちよりも数日早く知っていた東城も、早く知ったから気持ちの整理がついているかといえばそんなことはなく、肘をついた左手を額に当てたまま動かない。
春菜や東城と特に親しくないクラスメートが能天気に冬休みの話題で盛り上がる声が残酷な、休み時間。
いたたまれなくなった東城が春菜の肩を叩き、外へ誘った。
「春菜さん、かわいそう」
後姿を見送り、来栖がぽつり。
「何も死地に赴くわけではないのだ。別れもあれば、出会いもある」
穐山は例の調子で強気だが、それは自分がこんな目に遭ったことがないからだろう。
もし、紀伊國が急にいなくなるようなことになったら、同じ態度を取れるかどうか。
こいつ、意外にも人の痛みというのが分からないやつだったんだなと思い、幻滅した。
だが、俺も偉そうなことは言えないだろう。
初詣帰りにあんなことがあって、東城には声がかけ辛い。
それどころかむしろ、春菜、御山、そして美砂にまで好かれている東城に起こった「不幸」に多少の溜飲が下がった、いや、はっきり言おう、いい気味だと思っているのが偽らざるところだ。
もちろん、かわいそうだし寂しいとは思う。
だがそれは、東城にではなく、春菜に対してだけだ。
俺も、つくづく嫌な奴に成り下がったものだ。
◇ ◇ ◇
正月休みで帰ってきていた両親も、再び親父の勤務地へ戻っていった。
去年、母は現地の冬が厳しいことと美砂が受験ということで入学までは彩ケ崎にいたが、今年は親父が大きな仕事を抱えているらしく、大変そうだから一緒にいてやりたいんだそうだ。
作り置いていってくれた料理を解凍し、温める。
残った雑煮の汁にウドンを加えて、主食兼汁もの代わり。
きょうは俺が食事当番。
時間を見計らう。
夜の7時ちょっと前。
玄関の開く音がして美砂が戻ってきた。
廊下から顔だけ出して食堂の方を見、俺の姿を確認すると抑揚のない声で「ただいま」と告げ2階の自室に戻る。
ほどなくして、Tシャツにパーカー、下はジャージというラフな格好に着替えた美砂が現れ、食事となった。
ケンカしていても、していなくても、だいたいこんなふうだ。
「いつも朝の電車の中で、じーっとこっち見てる人がいてさ」
俺が今朝、電車の中で足を踏まれたのに、踏んだオッサンが謝らなかったという話になったところ、美砂が通学絡みでそんな話題を返してきた。
ただし、視線はこちらに向けない。
「どんな男だ?」
「…女の子。中学生かもしれない」
「女? 気のせいじゃねーのか」
「乗り合わせると必ずだから。きょうだって、見ててさ。こっちも気になるから、つい見るとたいてい目が合うって感じ」
「ガンつけられてんじゃねーのか? 気ぃつけろよ」
「違う。ガンなんかじゃなくって、なんか照れたような目をしてる」
「なんじゃそりゃ。今度一緒に乗ったときにいたら教えろよ」
「…佐伯女学院かな、あの制服」
「太刀川の佐伯か…」
ああ、佐伯といえば美砂は春菜の転校の話は知っているんだろうか。
学校の話題も出たが、部活の話ばかりだったし。
でも、知ってれば自分から振ってくるよな、ふつう。
学年が違うからサスガに知らんのか。
しかし、もし知らないのだったら美砂は春菜がいなくなるということを、どう捉えるだろうか。
美砂は今も東城には気があるはず。
あのプリクラシールがいい証拠だ。
春菜というタガが外れたら…
教えるのはやめるか。
でも、このまま黙っていても、いずれは分かることだ。
どんな反応を示すんだろうか、こいつは。
テレビではルポルタージュの番組をやっている。
盲導犬の訓練が終わり、必要としている人の元へ旅立つ日。
訓練師と犬のお別れの日が、ちょっと切ない。
見つめる美砂の目も真剣だ。
「なあ、美砂」
「…」
鼻をすする音がする。
そういえば、美砂はテレビを見て泣くことが多かったな。
特に「別れ」には弱い。
ティッシュを取り出し顔に当てている。
きょうは言うのよそうか。
もう一度だけ、言ってみる。
「なあ美砂」
「なに?」
「春菜…」
「…え?」
ふいに、兄の口から出た「ライバル」の名前に、怪訝そうな声。
こちらを振り向く。
まだ涙は乾いていない。
「春菜、転校…するって、さ」
探るように、言葉を区切って事実を告げた。
泣いていた美砂。
その目に一瞬、ある種の光が灯ったのを俺は見逃してしまった。