第3話:待ち人
文字数 3,811文字
黒板の表面で削り取られていくチョークの乾いた音。
時に硬く、時には流れるように。
教室の後ろからでも見えるよう、白く大きな文字がいくつも書かれていく。
担任である、
黒板に書かれた文字を生徒たちがノートに書き写している。
かえで先生の字は、読みやすいのに書くのは早い。
縦書きなのに、斜めになることもなく、左手に教科書を持ってはいるが、それに目を落とすこともない。
内容が完全に頭に入っているのだろう。
字を書くたびに、茶色い髪が揺れる。
背筋はぴんと伸びている。
薄い青のブラウスに、少しスリットの入った濃紺のタイトスカート。
ウエストは細い。
教卓に隠れて見えないが、スカートと同じ濃紺のパンプスを履いている。
声が艶っぽい。
怒ったところはほとんど見たことがない。
男子からも女子からも好かれている。
今は6限目だから、この授業が終わればこのままホームルームだ。
それが終わると、今週は当番なので掃除をしていかなきゃならない。
鬱陶しいが仕方ない。
俺の席は左後ろの窓際だ。
顔の向きを変えるまでもなく、目を少し動かすだけでグラウンドが見える。
白い体操服の男子生徒たちがソフトボールの授業でキャッチボールをしている。
2年前まで女子高だった神姫高校。
今2年生の俺たちは、男子生徒の1期生だ。
なので3年生にはまだ男子はいない。
一つの学校の中に、共学校と女子校が同居しているような、不思議な状況だ。
共学になった理由は、少子化で将来的には女子だけでは経営が苦しくなりそうだからということらしいが、期待とは裏腹に、あまり男子は集まらなかった。
高校の上には大学があって、そこには男女ともほぼエスカレーターで入れるにもかかわらず、大学の名前はいまだに「美咲女子大」と「女子」の名前が抜けていないため、男子は大学に入れないと誤解されてるって話だ。
だからソフトボールとはいっても、1クラスで試合ができるほどの男子生徒はおらず、合同授業でないときはこうしてキャッチボールやノックぐらいしかやることがない。
現に、このクラスも男子は8人で、残り32人は女子だ。
別の高校に進んだ中学のときの同級生にこの話をしたらひどく羨ましがられたが、自分ではピンとこない。
慣れってのは、そんなもんなんだろう。
ボールを受け損ねた生徒が慌てて走っていく。
この蒸し暑い中、人ごとながらご苦労なことだ。
同じ時間、あのクラスの女子は水泳の授業だ。
視線を先の方に伸ばすとプールが見える。
水しぶきが上がっている。
風に乗ってキャーキャーと騒ぐ声が聞こえてくる。
遊んでいるようにしか見えない。
本当に授業なのだろうかと思えてしまう。
プールか…
昨日の帰り、気がつくと俺は涼子とプールにいた。
駅前のスポーツセンターだ。
水着を買ったばかりの涼子が、さっそく着て泳ぎたいというので行ったのだ。
泳ぐとはいっても、25メートルぐらいかしか泳げない俺が教えてるぐらいだから、本当の意味で泳ぐというより、「泳ぐ」ということにかこつけて、一緒にいたかっただけなんだろう。
別に断ってもよかったのだが、試着した涼子の水着姿に不覚にもどきりとした俺は、もう一度あの姿が見られると思うと、何も考えず、プール行きを1秒で了承していた。
そして再び、今度は水を吸い込んで、よりいっそう彼女の体に張り付くようにフィットした水着姿に、胸が高鳴ってしまったのだった。
「はい! プールに誰か気になるコでもいるのかしら?」
突然かえで先生の声がした。
慌てて前を見るが、いない。
「え?」
声のした方向を探し、隣の席の来栖の方を向こうとしたら、それを遮蔽するスレンダーな体があった。
いつの間にか、かえで先生は俺の真横に移動してきていたのだ。
気まずそうに顔を上げ、先生の表情を窺ったが、目は笑っている。
「さっきのところ、テストに出るわよ」
慌てて黒板の字を書き写そうとしたが、もう消されてなくなっていた。
クスクスと笑い声が聞こえてくる。
仕方ない、あとで春菜か東城にでも写させてもらおう。
◇ ◇ ◇
ホームルームでは特に連絡事項もなく、1分もかからず終わってしまった。
これで掃除当番でさえなければ、もう自由なのだが…
部活に行く連中や帰る生徒はあっという間に教室を出て行った。
「さっさとやって消えようぜ」
別に仕切るつもりはないのだが、そう掛け声を出し、掃除に取り掛かる。
今週の当番は俺以外は、来栖マリ子、
机を教室の後ろに寄せ集める力仕事は暗黙の了解で、メンバー唯一の男である俺の仕事らしい。
穐山は、はなから机を持ち上げる気はないらしく、ホウキを手に掃く空間ができるのを待っている。
韮崎は黒板を拭いており、来栖はバケツに水を汲みに行った。
手伝ってくれたのは春菜と御山だが、しゃべりながら2人で一つの机を持ち上げて移動させているので、まったくはかどらない。
業を煮やした俺は、力任せに複数の机を椅子ごと一列に教室最後部へ押し寄せた。
「さすが山葉ぁ、力余ってるじゃない」
春菜のツッコミが入ったが、御山はこちらを見もせずに掃き掃除を始めていた。
バケツを手に戻ってきた来栖は雑巾を絞り、窓を拭いている。
韮崎は几帳面にチョークを色別に並べている。
穐山は教室のドアのレールにたまったホコリを掃きながら、「まったく。こんなことは業者に任せればよいではないか」と不平を言っている。
毎度のことなので、誰も応じない。
彼女の不平にいちいち応じるのは親友の紀伊國
「春菜、後ろのドアは任せたぞ」
「ん? いいよ」
穐山は相手が男でも女でも呼び捨てだ。
それは親しいからというのではなく、自宅が金持ちで名家だからという育ちに起因しているのだろう。
元々は軍人上がりの華族だったらしく、貿易の仕事で財を成し、それが現在の穐山財閥だ。電車通学ではあるが、雨の日なんかは使用人運転の高級外車の送り迎えがつくこともある。
クラスメートや部活の仲間とカラオケやゲーセンに行くことはあるのだろうか。
ないとしたら、それはそれでつまらん青春を送っているような気もするが、まあ、生きている世界が違うということで、別に俺がここであれこれ考える必要もないことだ。
「ああーーーっ!」
来栖がバケツをひっくり返した。
落とす、倒す、こぼすなど、ネガティブな内容はたいてい来栖のシワザだ。
きょうもご多聞に漏れず、やってくれた。
御山と春菜の手を借り、「ごめんなさい、ごめんなさい」と連呼しながら雑巾で拭き取っている。
来栖の家も金持ちらしいが、こんな姿を見るとそんなふうには思えないな。
でも、俺の自宅最寄である彩ケ崎駅近くにある40階建てタワマンの最上階に住んでるって話だ。
同じ金持ちでも、穐山との最大の違いは、こういうドジで憎めないところだろうか。
昼飯の弁当も普通だし、たまに売店で焼きそばパンを買って嬉々としているところなんか、俺らと何ら変わらない。
どことなく天然で、話もテレビやら芸能人の話題だったり、とっつきやすい。
穐山や紀伊國と同じで下の中学から持ち上がった内部生だが、俺たちが入学した初日、右も左も分からずにいた時、わざわざ校内を案内してくれたほどだから。
下の名前がマリ子なので、まりちゃんとかマリと呼ばれる。
普通に電車で通学している。
韮崎が黒板の右隅に明日の日直の名前を書いている。
こいつは謎だ。
クラスでの存在感は皆無で、普段でも話題に上ることはない。
今日のように掃除当番でもない限り授業が終わるといつの間にかいなくなっている、空気のような存在だ。
家もどこなのか知らないが、内部生でないことだけは確かだ。
春菜は中学のときから同級生だ。
苗字は
東城と付き合っている。
何でも話せる相手で、3人で一緒に遊びに行くことも多い。
女ということで身構えることもなく話せる、俺にとっては貴重な存在だ。
御山は俺が間違えて着替えを覗いてからは目の敵にされている。
1年の途中までは普通に話せた相手で、確か東城や春菜と4人で学食で飯を食ったこともあったはずだ。
同じ彩ケ崎住まいだが、中学は南中だ。
ごく小さなポニーがよく似合うかわいい娘で、おまけにバレー部というのだから、男どもが放っておくわけはない。
ヨソのクラスにもファンがいるらしいが、告ってもことごとく玉砕しているという。
誰か好きな奴でもいるんだろうか。
机も元の位置に戻し終わり、やっと帰れるかというとき、なんと御山が寄ってきた。
「…待ってるよ。廊下で」
抑揚のない、事務的な声で告げられた。
「ええっ?」
何か起きたのか?
オ、俺を? 御山が? …なワケないよな。
まさか、バレー部の連中に集団リンチでもされるのだろうか。
彼女は許してなくても、一応俺は謝ったんだし、だいたい、例の更衣室での一件はハメられただけで、覗こうとして覗いたんじゃない。しかも1年近く前の話だ。それを今更蒸し返そうってのか?
頭が混乱してきた。
「な、なんで?」
恐る恐る切り出した。
「………」
しばしの沈黙。
「俺、また何かした?」
「…はぁっ。・・・・・・・・・・・呼・ん・で・く・れ・っ・て・言・わ・れ・た・の・っ!」
忌々しそうに大きなため息をつくと、御山はいかにも関わり合いになりたくないというきつい口調で言い放ち、ドアの方を面倒くさそうに指さした。
ドアの影から顔を出し、手先だけを揺らし挨拶を送る人物がいた。
涼子だった。