第75話:3人の心
文字数 3,996文字
ぶーん、ぶーん
スマホが振動している。
唇を重ね、夢中になっている2人の間に割り込んでくる日常。
電話の向こうにいる相手は、今、2人が息も荒く愛し合っていることも知らず、どこかの部屋の中で、街角で、あるいは人ごみの中で、相手に思いを馳せているのだろう。
秘め事の最中、2人のそんな関係も知らずに送られてくるメッセージが逆に欲情を触発するのか、ますます激しく絡みあい、求めあう、舌と舌。
人目を忍ぶように重ねられていく美砂と東城との逢瀬。
「美砂さ、連休どっか遊びに行かないか」
「え、いくいく! 服とか買いたいんだけど、渋谷とか行こうよ」
うつ伏せになり、ふとんから出た両足を交互にぱたぱたさせながら嬉しそうだ。
「買い物かぁ」
「ねえダメかなぁ? でも、連休長いし。ほかの日には遊園地とか」
「そだな」
「どっか誰にも会わないとこがいいな。そしたら腕組んだりして歩けるし」
美砂の頭を撫でてやる。
「あ~ん、ぐしゃぐしゃになっちゃう」
本当は春菜のような公然の彼女になりたい、という気持ちはある。
だが兄のてまえ、学校や家の近所ではそれは不可能。
彩ケ崎の駅から一緒に帰ることがあっても、手もつなげない。
美砂にはそれが何とも、もどかしいのだ。
「そういえばさっき電話鳴ってなかった?」
「ああ、御山。学祭のことで連絡」
東城はスマホの画面を美砂に向けながら手渡す。
そこには沙貴子らしい丁寧な書き方で、連休中は時間があるので記念祭のことなどを打ち合わせないかという誘いが綴られていた。
美砂は東城が御山と「付き合っている」ことは知っている。
兄がそのことを知っているし、3年生から漏れ伝わってくることを部活仲間を経由して知ることもできるからだ。
だがそれ以前に、聞き出そうとしたわけでもないのに東城自身の口からもそれは伝えられていた。
「運動会で怪我して、運んでやったらそれ以来一方的に惚れられちゃって」
「なんか可哀想だったから手伝ってやったんだよ」
「この前も勝手に手とか握られたし」
「帰りとかもすぐついてくるんだ」
「何か勘違いしてるんだよね、あいつ」
「オレの彼女はお前しかいないから。心配すんな」
少しでも不安そうな顔をすると必ず使われる、締めくくりの言葉。
幼いときから知っている東城は嘘をつくはずはない。
春菜とも別れ、現に自分をとても愛してくれている彼。
東城さんを疑ったりするなんて、なんてダメなんだろ、わたし。
毎日のように会って、他の女が入り込む隙間もないのに。
美砂に落ちた東城だったが、美砂自身も東城という深みに落ちていたのである。完全に。
東城は、あの日沙貴子を愛した。
だが、その1回だけ。
その24時間後には美砂の虜になった。
今や沙貴子は、その美砂との関係をカモフラージュするためだけに存在する都合のいい女ということだ。
それは美砂にとっても同じだ。
「行かなくていいんですか」
一応は聞いてみる。
答えは分かっている。
「なんで? 必要ねーじゃん」
メッセを見終えホーム画面に切り替わる。
背景画像は東城と美砂とのツーショット。
「じゃあ、買い物29日でどうですか」
「ん、分かった。遊園地はどうする?」
「1日と2日は学校あるから…3日にしましょうよ、ねっ!」
「いいよ、分かった」
「で、4日は、」
「え? まだあるの?」
「当たり前ですよぉ。4日はお弁当作ってお台場。5日はそうですね、横濱行きたいな。そして6日は…」
楽しそうに語る美砂。
断る理由はどこにもなかった。
「うん、分かったよ。そうしよう」
にっこり頷き、再び頭を撫でた。
「ああっ、だから、ぐしゃぐしゃに…」
◇ ◇ ◇
<3年生 4月27日:山葉>
さてと、あさってからはゴールデンウィーク。
途中の2日間は平日なので学校はあるが、その後は4連休。
春休み以来のまとまった休みだ。
「山葉くんは何か予定あるの?」
昼休みの屋上。
かすみと東城、それに御山の4人で昼飯中。
話題はやっぱり、連休のことになる。
「俺は、たぶん親んとこ。昨日の夜電話あってさ、航空券とれたって言ってた、2人分」
「樺太かぁ、いいわねぇ。内地から出たことないのよね私のところ」
俺の家は父親が転勤で3年ほど前から樺太に行っている。
母親もダンナ一人じゃ不便だろうということで1カ月おきぐらいのペースで彩ケ崎と樺太を行ったり来たりしているため、年間の半分は兄妹2人で暮らしているということは周知のとおりだ。
「かすみは?」
「うちは連休中もお店やってるから。パートの人が休みで、代わりが、わ・た・し」
「なんか大変だね」
「奮発してもらうけどね」
食堂ダッシュに出遅れ、パンとパックの牛乳だけってのは育ち盛りには厳しい。
幸い2人分の弁当を作ってきた御山が、かすみにも声をかけてくれたので、こうして俺もご
その弁当はもちろん、東城と一緒に食べようと持ってきたものだ。
「やまふぁ、くぁらふほ~いつ行くんら」
おかずを口の中に入れたまま、フィルターのかかったような声で聞いてくる。
「2日の夜。授業終わってから羽根田。帰りは6日の晩だな」
「そうか…」
「あの、東城さん」
「ん? おいひいよ」
御山が困ったような、けど少し嬉しいような複雑な顔をしている。
味のことを聞きたかったわけではないようだ。
「樺太っていえば、春…ぁ」
珍しく、かすみが拙った。
もちろんこのキーワードが何を指すかは、みんなも分かっている。
春菜だ。
ちらっと東城の方を見るかすみ。
「山葉、春菜に会ってきたら」
「え?」
「アカウント教えるぜ。なんなら連絡しとくし」
玉子焼きを食べながら平然と言う。
「メッセとか、来てるの?」
かすみが驚いた表情だ。
そういえば連絡が来るようになったのを知ってるのは、本人以外は俺だけだったか。
「うん。毎日来る。元気にしてるってさ」
「そうなんだ」
御山は聞こえないふりでもしてるのか、2個目のおにぎりに取り掛かっている。
東城の態度はともかく、今は自分が彼女だという余裕でもあるのだろうか。
「まあ、会えればな。ところで、東城は連休何してんの?」
この話題を長引かせてもアレだと思い切り替えた。
「どこ行っても込みまくりだろ。休みで親父もうちにいてウゼーし。そのへんブラブラしてんじゃねーかな」
「そうか。ま、土産買ってくっから楽しみにしててくれ」
「山葉くん、私はロイドのチョコで許してあげるから」
「かすみは木彫りのクマだよ」
「え~、むかしよくあった、あれでしょ。うちのお店にもあるのよ、あれぇ」
「そうそう、あのシャケくわえてるやつ。山葉、ぜひ買ってやれ」
「わはははは」
結局、ほとんど話題に加わらなかった御山だが、何だか納得したようなホッとした表情を浮かべ3人のやりとりを見つめていた。
「て、あと5分か」
時計を見ると午後の授業まであとわずか。
俺たちは弁当を片付け、教室に戻る準備をする。
そこらへんで同じように昼休みを過ごしていた生徒も引き揚げ始める。
立ち上がり、ぱんぱんとズボンについた塵を払うと心地よい風。
ふと、思い出す。
1年前、2年前、そしてもっと前、春菜と東城の3人でふざけあっていた日々のこと。
春菜か。
◇
◇
◇
東城は謹慎で、さよならも言えなかった彼女の旅立ち。
両親と別れを告げに来た教室で、彼女はうつむいたままだった。
か細い声で「今までありがとう」というのが精一杯で、床には涙がしみをつくっていた。
翌日、彩ケ崎の駅まで見送りに行った数人のクラスメート。
俺たちが着いたときには、もう改札を通った後だった。
「あ、あそこ! 春菜さーーーーーん!」
エスカレーターに乗ろうとしている後姿を見つけ、来栖が手を振る。
「春菜っ!」「佐伯さん!」「佐伯ーーーーっ!」「春菜さんっ」
柏木が叫ぶ。
かすみも、慈乗院も、吉村も。
「春菜」
そして、俺も。
走り寄ってきた春菜は、「うん、うん」と何度も頷くだけで、言葉が出てこない。
「忘れないから」
「連絡ちょうだいね」
「また絶対会おうね」
改札機の横。
冷たいステンレスの柵のところで、手を握り合い、それぞれに声をかける。
俺と目が合ったときは、もうこらえきれなくなったのか、ぐしゃぐしゃになった顔で腕をつかみ、
「薫のこと・・・・うう、頼むね」
それだけ、しぼり出した。
「ああ、任せろ。ほかの女、ぜってー寄せ付けねーから安心しろ。だから、必ず戻って来いよ」
「うう、山葉ぁ」
つられて来栖や吉村も鼻をすする。
改札を通るほかの客は何事かという顔で俺たちの方を見ているが、お構いなしだ。
だが、タイムリミットは近く、残酷なほど残り少ない時間。
「春菜、もう電車来るわよ。みなさん、今まで娘によくして下さって、本当にありがとう」
「間もなく、1番線に特急羽根田エクスプレス17号、羽根田空港行きが参ります。黄色い線の内側まで…」
母親の声にかぶさるように、列車接近のアナウンスが流れる。
黙ってお辞儀する慈乗院や吉村たち。
諦めきれぬ表情で、何度も何度も振り向きながら去っていく春菜。
彼女の視線は俺たちだけでなく、その向こう、ここにはいない東城の姿に向けられていたのだろう。
来るはずのない、来たくても来れない東城に。
「春菜さん」「春菜ぁー!」
もう一度、精一杯彼女の名を呼ぶ来栖や柏木。
銀色の天井の上からは列車の到着した鈍い振動が伝わってくる。
振り返りながらホームに消えていった春菜。
もう姿は見えないのに、立ち尽くしている、かすみや吉村たち。
聞きなれた出発合図のメロディーも、きょうはどこか物悲しい。
鳴り終わり、やがて、線路の継ぎ目を渡る車輪の音。
ごっ・・とん・・・・・ごとん・・・ごとん・・ごとん、ごとん。
その音もだんだんと間隔が短くなっていき、
ごと・・・・・・・
聞こえなくなった。
◇
◇
◇
あの日以来か。
でも、俺は春菜にどんな顔をすればいいんだろうか。
なんて説明したらいいんだろうか。