第86話:春菜
文字数 5,172文字
今年で創立108年を迎える樺太のお嬢様学校。
非常に厳しい教育方針で知られ、地元では、娘が北麗というだけでステータスになるほどの高い評価を受けている。
中高一貫で、下には付属小学校と幼稚園、上には総合女子大も抱える一大教育拠点として、北の大地に長きにわたって君臨している。
系列校は神姫本校を手始めに共学化を進めようという方針だが、他とは一線を画し、北麗のみが共学化を頑なに拒み続け、今日に至っている。
モットーは「良妻賢母」。
著名人も数多く輩出している、まさに日本最北端にある女子教育の牙城だ。
<6月11日 月曜 放課後>
「佐伯さん。ここちゃんと拭いたのかしら。ガラスにムラが残ってますね」
授業を終えた3年C組の教室。
掃除当番の春菜はたった一人で室内の窓を拭き終え、次の床掃除に取り掛かるはずだった。
手伝う者はいない。
「ちゃんと拭いた‥拭きました」
「あら。拭けてないからムラが残ってるんじゃないかしら」
5人の女子生徒の中心で、佐々木玲子は腕組みしたまま嘲るように春菜の顔を眺める。
だが、窓には拭きムラなどなく、あるとすれば玲子が触ったところにできた指紋のみ。
「口答えしないで、さっさとお拭きなさいよ」
表情も変えず、春菜は指紋を拭き取る。
「何かご不満でも?」
「ありません」
毎度のことだ。
あと5、6分もすれば解放され、家に帰れる。
もう慣れてしまった。
「やればできるじゃないですか。じゃ、きょうはここまでに‥」
「玲子ちゃん」
玲子が終了の合図を言いかけたとき、背の低い取り巻きの一人が遮った。
耳元に口を近づけ、ヒソヒソと悪知恵を吹き込んでいる。
「佐伯さん、次はお手洗いお願いできるかしら」
ムッとした表情で顔を見る春菜。
「でも、手洗い掃除の担当、今週はうちのクラスじゃないはずじゃ‥」
言い終わらないうちに、周りの取り巻き連中が一斉に声をあげる。
「何言ってるのよ。後から入学してきたんだから、ほかのところも掃除しないと、わたしたちに追いつかないでしょ」
「あなたのせいでクラスの平均点下がってるんだから、それぐらい奉仕しなさいよ」
「3年分の学校のしきたりをまとめて教えてあげようとしてるのに、口答えするなんて信じられないわ」
「あなたが終わらないと、あたしらも帰れないのよ。さっさとしなさいよ」
5人の誰かの気まぐれで、その日が決まってしまう毎日。
春菜が転校してくる前から、他の生徒をターゲットにずっと行われていたらしい。
狙われなくなったクラスメートたちは安堵し、春菜を助けることはしない。
5人組に再び目を付けられるのを、恐れているからだ。
すでに他のクラスによって磨き上げられた女子トイレ。
春菜は再び、一から同じことを繰り返さねばならなかった。
姫高にいたころの春菜は活発だった。
性格は今も変わらないが、学校の中ではそれを見せないよう控えている。
5人組を初め、クラスメートの誰とも打ち解けることはないが、それでいいと思っているからだ。
転校後数日して、5人組に呼ばれ姫高でのことを話して聞かせた。
街のこと、学校のこと、共学のこと、友達のこと、そして東城のこと。
理由はなく、翌日からそれは突然始まった。
だが、どうせこの学校には思い入れもないし、ここでの生活は残り1年を切っている。
卒業しても北麗女子大へ進む気はさらさらなく、美咲女子大に入れば、あのころの仲間と再び楽しく暮らせるから。
そして、そこではきっと、東城とまた一緒の毎日が始まるから。
それを心の支えに、さまざまな嫌がらせを春菜流のしたたかさで流している、そんな感じだ。
東城。
大好きな彼とは、今も毎日スマホでやり取りしている。
たった1行の愛想もない内容だったとしても、それはとても重要なこと。
会えなくても、遠く離れてお互いのことを思っている、そう信じているから。
こらえ切れなくなったときは「わたしには薫がいるし」。
そう思えば、辛くない。
嫌がらせばかりする5人組。
思えば、気の毒なひとたち。
それで気が晴れるなら、どうぞお好きに。
こんな北の果ての小さな教室で、天下獲っていい気になってればいい。
あの連中が東京に行ったって通用するわけはない。
ここだけが世界の中心だと思い込んで、一生過ごせばいいさ。
面従腹背。
わたしはそれでいく。
わたしには薫がいるんだから。
楽しい仲間が待ってるんだから。
◇ ◇ ◇
<6月12日 火曜 放課後>
5人組が監視する中、きょうも掃除するのは春菜1人だ。
指図される前に先に手をつける。
相手の思考回路はだんだん分かってきていて、次に何を言いそうかは把握しているつもりだ。
さすがに昨日のトイレ掃除は想定外だったが。
昨日、すでに隣のクラスが終えた後で始めたトイレ掃除だが、意外な援軍が現れた。
「おい、ここはもう掃除終わってるぞ。転校生に辛く当たるのはいい加減にやめなさい」
通りがかった隣のクラスの担任が、春菜に掃除をさせている5人組を見咎め注意してくれたのだ。
この男性教諭は生徒指導を担当しているが、誰に肩入れすることもなく、この学校では珍しく平等に生徒を扱う。
姫高で問題を起こした春菜であっても、妙な偏見の目で見ることはなかった。
言い訳をする5人組。
だが、彼女らの悪行はとうに知れているらしく、信じてはもらえなかった。
そんなことで虫の居所が悪いのか、きょうの5人組は少しイラついている。
春菜が指図される前にテキパキこなすことも、癇に障るようだ。
どうでもいいことに突っかかってくる。
「でも、神姫も惜しい人材をなくしたわよね。こんなに働き者なんですもの」
「もっと早く来てもらえばよかったわよねえ」
「そうそう。ねえ、そういえば、来週だっけ、神姫から交流が来るの」
そう。
久しぶりに仲間と会える。
4人の懐かしい仲間がやってくる。
18日からの1週間。
いろんなことを話そう。
いろんなことを聞かせてもらおう。
こんなに楽しみな気分になるのは、いつぶりだろうか。
やってくるのは各クラス4人だから、全学年合わせて36人。
N組からは、慈乗院、来栖、穐山に御山。
会ったら、どんな顔するんだろう。
授業終わったら、遊びにいけるよね、きっと。
「神姫ねぇ」
反応したのは、玲子だった。
彼女は先月末、交流で先方を訪問してきたばかりである。
「なんだかあそこ、レベル低そうだったわ」
わざとらしくつまらなそうな表情で、どうでもいい感想を語り始める。
「え、そうなんですか?」
「でも、歴史はあちらの方が長いですよね」
ほかの4人も興味津々だ。
「歴史が長ければいいってもんじゃないわ。どの生徒も変に明るくって、明るさだけが取り柄って感じだったわよ」
『たった1週間見ただけで、知ったようなこと言ってればいいわ。井の中のカワズ』
春菜は無視して黒板を拭き続ける。
「男子が少しいるじゃない。だからどの女生徒ももてようと必死で、ちゃらちゃらしてるのよ。スカートなんかこーんなに短いのよ」
「ええーっ! なにそれぇ。まるで佐伯さんみたい」
「下着見えちゃうじゃない」
『それが内地の標準なんだってば。ホント、何にも知らないわね』
チョークを各色並べ、あすの日直名を書く。
「なのに男子生徒ったら、わたしを見たら『樺太ってどんな気候ですか』『そのブレザーかわいいですね』って言い寄ってくるんだから」
『物珍しくて相手してくれてるだけだって。男に手も握られたことないから舞い上がっちゃってまあ』
「不味い食堂で、美味しくもないコーヒーご馳走してくれて。『ありがとうございます』って言ったら、みんな喜んじゃって。ふん、バカね。それで、授業終われば駅前とかあちこち連れまわされて、ホント、人のこと何て思ってるのかしら」
『…』
「私が行ったのナタリエ組っていうのだけれど、どの人も馴れ馴れしくって、ホントうんざりでしたわ。担任の女の先生も、いちいち親切な顔してちょっかい出してくるし。あそうだ、写真あるのよ、ご覧になる?」
「えー、見る見る!」
「そんなのあるなら早く見せてよ」
『…みんなの、こと…』
玲子はカバンから姫高の生徒が手作りした学校紹介の冊子を取り出すと、4人組の前に汚らわしいものでも触るかのようなそぶりで開いてみせた。
「で、これがナタリエよ」
「あ、制服かわいい!」
「いいなあ、セーラー服」
「へえ、これが男子かぁ」
何だか涙が出そうになる。
懐かしさなんかじゃない。
仲のよかったみんなの親切を踏みにじるようなことを平気で言う玲子。
これはわたしに聞かせようと、わざと言ってるんだろうけど、でも、酷い。
何も知らないくせに!
「ねえ、佐伯さん」
玲子が春菜に矛先を向けた。
顔だけ向ける。
「あちらで、あなたの元彼に会ったわよ」
「ええっ! どれどれ? 玲子ちゃん教えてよ!」
「こいつかな? それとも、こいつ?」
理由もなく、勝ち誇ったような玲子。
どんな返事が聞けるか、ウズウズしているのが手に取るように分かる。
「元彼じゃなくって、薫とは今も付き合ってるよ、わたし」
「へえ、薫って呼んでるの。でも、親しいのに全然こちらには訪ねてこないじゃない」
「高校生に‥そんなお金ないわよ」
「どうかしら。ほかにいい人でも見つけて、あなたの事なんか忘れちゃったんじゃないのかしら」
「薫は…そんなこと、しない」
「それもそうよね。あんな親切だけが取りえみたいな男を好きになるのなんて、あなたぐらいよね。コーヒーおごってくれたの、この人よ。『春菜が世話になってるね』ですってぇ」
「…」
「佐伯さん、こっちこられてよかったじゃないの。あんな人と付き合ってたら、今以上にダメになってしまうわ」
春菜の理性も限界に達したか。
「……あのさ」
震える声で玲子を睨みつける。
「何かしら」
「…あのさ。わたしのこと、どう言ってくれても構わないけどさ」
「ええ」
「薫のこと、それとみんなのこと、悪く言うのやめてくれない」
「あら、心外ねえ。本当のこと言ってるだけよ。悪口なんか言ってないわ」
「言ってるじゃない!」
「佐伯‥さん。ちょっと男がいたぐらいで、調子付いてるんじゃないわよ」
「そうよ偉そうに」
「玲子に謝りなさいよ」
「土下座しなさいよ」
「わたしが悪かったですって、言いなさいよ」
「調子付いてなんかいないよ。黙って聞いてれば、みんなの親切踏みにじるようなこと言って」
「あれが親切ですってぇ? 笑わせるわ。ただのおせっかいよ。ムシズが走るわ」
「たった1週間で何が分かるのよ! 知りもしないくせに侮辱して」
「必死になっちゃって、おかしい。で、どうなのよ? あなた、あの東城って男と、どこまで行ったの?」
「そんなこと関係ない! みんなのこと謝って!」
「謝れって、あなた誰に向かって口きいてるのよ」
「偉そうな口たたくな」
「いやらしいメス犬」
「『ああん、東城さんっ』てここで言ってみろよ」
「玲子に謝れ!」
「わたし悪くない! 間違ったこと言ってないじゃない!」
「このぉ!」
4人が突然春菜を押さえつけ、引き倒す。
「いやだぁ! 離せっ!」
抵抗するが、髪をつかまれ、腕を、首根っこをつかまれ、玲子の足元の床に無理やり額を押し付けられる。
「無様な姿ねぇ…このわたしに、謝れ、ですってぇ?」
玲子は春菜の前にしゃがむと、にやにやしながら苦悶の表情を眺める。
「くぅっ‥‥」
「謝るのはあなたよ。まさか、このままで済むと思ってないでしょうねぇ」
「く‥わたしは…悪く‥ない」
「謝りなさい」
「‥い‥や」
「謝りなさい」
「いや…だ」
「謝りなさい」
「だ‥れが‥あんた‥なんか‥にっ」
言葉を聞き終えると、玲子は冊子を両手で引き裂き、床に捨てた。
ちょうどクラスの集合写真。
並ぶ笑顔。
懐かしい顔。
東城の顔。
ちぎれた冊子を指さし、玲子は「ねえ、このゴミどうしようかしら」と、4人の方を見る。
「捨てちゃえ」
「燃やしちゃえ」
「トイレに流しちゃえばぁ?」
「そんなことしたら詰まっちゃうよ」
「‥やめて‥よ」
床に顔を押さえつけられても、必死で腕を伸ばそうとする春菜。
勝ち誇ったように見下ろし、玲子は続ける。
「じゃあ、謝りなさいよ」
「…う」
「どうしたの? 言葉、忘れたの?」
「‥どうして‥こん‥な」
「謝ったら、これ、あなたにあげるわ」
「くぅ」
「さあ」
「…う」
「さあ」
「…」
「さあ!」
「うっ‥うっ」
「さあ、謝りなさい!」
「‥ごめんな…さい」
邪悪な歓喜の表情を浮かべる玲子。
「分かれば、いいのよ」
立ち上がると、
春菜の目の前で、
表情も変えず、
冊子を
踏みつけに
した。
どんな仕打ちにも一度も涙を見せなかった春菜。
ちぎれ、醜いシワだらけになった冊子に手を伸ばし、ついに弾けた。
「薫、薫…薫ぅ! もう嫌だよ。助けてよ、薫。わたしを助けにきてよぉ!!!」
「ん?」
「どうしたの、東城さん」
「いや、なんか声がしたような気がして…空耳かな」
ベッドの上で重なったままの2人。
「そんなの‥いいから‥もっと」
「あぁ…美砂」