第101話:決別
文字数 4,180文字
そう短く挨拶すると、東城は教室を出て行った。
東城はきょう、美砂に別れを告げるはずだ。
もう一度確認したい衝動には駆られるが、それをするのはみっともない。
あとは東城を信じ、時間が流れるのを待つことしかできない。
美砂は今朝、相変わらず俺のことを無視してはいるが、それを除けば、ここ数日の荒れた雰囲気はなく、むしろどことなく嬉しそうな様子で家を出て行った。
ただ、東城と「同伴登校」していた時間とは違い、すこし遅めで、おそらく放課後にでも会う約束をしていたのだろう。
春菜の元へ行き、再び戻り、きょうの昼は仲間に報告。
そして、これから美砂に会う。
東城にとっては、ぎっしり詰まった濃厚な数日間だったわけだが、それもこれで終わりだ。
俺だったら、そこまでやってられるだろうか。
こればかりは、分からない。
東城の後姿を見送り、帰宅準備に入った。
◇
◇
◇
花房神社の裏手にある
学校から駅への道沿いにある神社で、恋愛の願掛けにくる生徒もいるが、この祠は奥の目立たぬ場所にあるため存在そのものを知らない者も多く、落ち着いて話すにはうってつけの場所だ。
ここで待ち合わせることになっていた東城と美砂。
数日ぶりで、しかも今までとは違う場所を指定されたことで、何か重大なことでも告げられるのかと期待した美砂は、約束を守らず校門前で東城を待ち伏せた。
「東城さん!」
植え込み越しに姿を確認すると、門柱の影から東城の前に飛び出す。
「!」
不意を突かれた東城は一瞬、狼狽の表情を見せる。
お構いなしに、腕にしがみついた美砂は「どうして連絡くれなかったんですか」「この数日、何をやっていたんですか」「心配してたんです。病気だったんじゃないですよね」と、矢継ぎ早に質問を浴びせる。
同級の兄がいるとはいえ、冷戦状態で聞くこともできない。
一方で東城からはメッセや電話に何のリアクションも返ってこないとなれば、それも当然だろう。
普通ならまず愚痴の一つでも出るところだろうが、家では不機嫌を通してもいざ本人を目の前にすると惚れた弱みとでもいうのか、甘えた声、媚びた姿しか出てこない。
東城は、そんな美砂の姿に、これが最後だからと、いきなり腕をほどくことはせず好きなようにさせたまま神社への道を下っていった。
市街地へ続く曲がった下り坂の両側は、途中までは学校所有のみかん畑になっている。
学校ができた大昔の女学校だった時代からあり、経営の助けにということで、教職員や在校生が収穫シーズンになると街の人に販売している。
歴史が長いため、いつしかそれは美咲の風物詩、そして名物となり、「女学校蜜柑」という名前で知られるようになった。
名前の良さから、遠くから来て買い求める人もいるそうだ。
学校の土地は畑を含めた丘一つがほぼ丸ごとで、日当たりや水はけがいいことも栽培できた理由だという。
美砂は相変わらずほとんど一人でしゃべっている。
テストが終わったらどこに行きましょうか、夏休みは一緒にアルバイトしませんか、など思いつく限りに。
言うたびに東城の顔を窺うが、曖昧な返事しかもらえない。
みかん畑を過ぎると普通の雑木林に姿を変える。
ところどころ開けたところには、弓道部の練習場やテニス部のコートが見える。
以前のテニス部は校舎と同じ敷地内にあったそうだが、手狭なうえ、アーチェリー部が全国大会に出場するなど力をつけ専用練習場を造ることになり、いってみれば追い出されたのだそうだ。
弓道部は学校の方針で「売り」のひとつにしたいらしく、どこかから有名な指導者を呼び、生徒も他府県から集めるなどテコ入れをしている真っ最中だ。
反対側の歩道を陸上部の生徒がファイトと掛け声をかけながら登ってゆく。
2人、3人と連れ立った生徒たちが何に盛り上がっているのか、時折大きな声でわあわあ言いながら坂を下ってゆく。
つい先日までの東城だったら、一歩歩くたびに美砂の方に顔を向け、あるいは頭を撫でたりしながら駅までの時間もあっという間だったのだが。
美砂もいつもと違う様子に、話す言葉にもなにか焦りみたいなものを滲ませ始めた。
きょうは久々に会うため、髪形も変えてきたのに東城は気付いてもくれない。
いや、気付いているのかもしれないが、そのことには触れてこない。
痺れを切らす。
美砂は自分から、東城に絡めた腕を放すと前に回り込み、バックで歩きながらツインテールの根元を両手で握って、「どうですか?」と尋ねた。
「東城さん、いつもぐしゃぐしゃにするんだもん。だから結んじゃった」
どことなくハスキーな声。
サブバッグの長い握り手を両腕に通して背中にしょったまま、上目遣いで答えを求めてくる。
「タカちゃんも、似合ってるって」
催促するように、クラスメートの名前を出す。
「うん」
東城は小さな声で頷くだけだった。
少し泣きそうになる。
でも、何か「嬉しいこと」がこの後に用意されているのではないかと好意に解釈し、「やったぁ」と再び腕に絡みつく美砂は気丈であり、痛々しい。
暑くて駅まで歩きたくない生徒を乗せたバスが、満員で坂を下っていった。
それを追いかけるように下っていく自転車。
キーキーとブレーキの音を軋ませながら、サドルから腰を浮かせ、前かがみでほとんど立ち乗りに近い女生徒のセーラー服の襟がはためいている。
ペダルに向けてまっすぐに伸びた紺ハイの脚が、よく焼けている。
左手に神社が見える。
付き合っている2人の最終目的地。
学校ができる遙か以前からあったという花房神社は、曇った梅雨空の下でも、うっそうと茂った高い樹木と足元に生える苔のおかげで境内は涼しく、そして寂しい。
花見や大晦日以外は立ち寄る市民も少なく、無人となって
それとは対照的に、それだけ最近塗りなおされたような赤い鳥居。
「火気厳禁」の立て札は錆び、願掛けの絵馬にマジックで書かれた恋人の名前は吸った水で滲んでいる。
「私、まずお願いしてきます」
美砂はここがどんな場所なのか分かっているだろう。
生徒の間で恋愛成就の神様として知られているこの神社。
「お願い」とは、もちろん自分と東城のこと。
立ち尽くす東城の前で、美砂は、長く、熱心に手を合わせていた。
笑みをたたえ、東城に駆け寄る。
「奥に、行こうか」
美砂はまだ行ったことのない、神社の奥。
そこに何があるのか、そこで何が起こるのかは分からないが、2人だけの新しい秘密が紡がれるであろう場所へ、狭く、苔むした石段を登る。
濡れた石に滑り、「あっ」と声を上げるが、東城の後ろからしっかり手を握っているから大丈夫。
温かい東城の手。
一瞬振り向いた彼の表情も、優しく感じた。
「意味分かんないです! 何ですか、それ!」
ひと気はない。
表からの音も、ここには届かない。
祠のある、少しだけ開けた雑木林の中。
美砂の泣き叫びが響いた。
春菜のことを聞いた。
春菜が帰ってくると聞いた。
春菜以外は守れないと聞いた。
そして、別れなきゃならないと、聞いた。
この人、何、冗談を言ってるんだろう。
そんなこと、突然言われても納得できるはずはない。
空白の数日。
その前の日に会ったときは、あんなに愛してくれた東城から告げられた残酷な話。
「どうしてですか! 私の何がいけなかったんですか! 春菜さんが帰ってくるって、じゃあ私ってただの当て馬だったんですか?」
春菜なんか、そんなの関係ない。
帰ってくるからって、自分にはあなたしかいない。
取り乱してる。
こんなみっともない姿見せるのは嫌だ。
でも、つかみかかる。
両のこぶしを男の胸に叩きつける。
「私のこと、大好きだって、愛してるって言ったじゃないですか!…何が足りないんですか? 言ってください! 言ってよ!」
覆るはずはない。
「何も、悪いこと……してないのに」
しゃがみこむ。
湿った土がスカートや脚を汚す。
雨粒のように、膝に滴り落ちる水滴。
風が吹き、木々が冷たい音をたてる。
「謝って済むことじゃないのは分かってる…でも、ごめん」
「…私のことおもちゃにして…都合のいい、はけ口にしたんだ」
「違う! そんなことはないよ。美砂のこと…」
へたり込んでいる美砂に手を貸そうとする。
「…」
上半身で拒絶する。
そのまま、2人は動かない。
長い沈黙。
顔を背けたままの美砂。
その横顔には生気がなく、前髪に隠されて目は見えない。
口を固く結び、小刻みに震える。
鼻をすする音だけが響く。
嫌いになったから別れるのではない。
そんなことは東城だって分かっている。
こんなふうに女の子を傷付けたくない。
そんなことは分かってる。
でも、春菜は苦しい思いをして、自殺までしようとして、
それを守ってやれるのはオレしかいなくて、
再会したあの晩の彼女の顔。
美砂のことが邪魔なんじゃない。
全力で彼女を守るためには、別れるしかないんだ。
美砂と付き合ったままでは守れない。
せっかく帰ってくる春菜をまた傷つけるようなことなどできるわけがない。
そんなことをしたら、彼女の居場所が本当になくなってしまうんだ。
だから、嫌いだから別れるんじゃない。
心の中で繰り返す。
しかし、「嫌いじゃない」などと言えるわけはなく、言うべきでもない。
時間が止まっている。
このまま一生ここにいることになるのではないかと思うほど、固まっている時間。
音がない。
木の枝は揺れているのに風が聞こえない。
「もういいです…帰って…ください」
姿勢はそのまま。
肩で息をしている美砂の言葉には棘も勢いもなく、弱弱しいものだった。
「一緒に…」
「嫌です。触らないで。いいですから……ちゃんと、一人で帰れますから、一人で…」
手を差し出したが、はねのけられた。
本当は送っていくべきだろう。
彼女を独り、残すべきじゃないだろう。
だが、これ以上いることはもっと美砂を傷つけることになるだろう。
美砂との日々が思い出される。
恋人だったのに、妹のようだった美砂。
大好きだと言ったのはうそじゃない。
でも、ごめん。
けじめをつける相手が美砂だったこと、本当に済まない。
重い体を動かし、その場を離れる。
背中に刺さる弱弱しい視線を感じる。
これでよかったんだ、お互い。
そう信じなければ、こんなこと…
石段を下りる。
一歩、一歩。
小さな金属の音が響く。
東城を追い抜いて、石段を跳ねるように落ちてゆく、銀色のリング。
音が響かなくなると同時に、小石の中、見えなくなった。