第84話:寝覚め
文字数 2,786文字
アラームが鳴っている。
うるさい‥な
‥まだ眠らせてくれ
止まらない音。
‥いやだ、もっと‥寝るんだ
それでも音は止まらない。
浮いている。
いや、沈んでいるのか。
ここは、水の中なのか?
暗い中、長い水草のようなものが、ねっとりと脚に絡みつく感触。
このまま身を任せて楽になろうか…
こっちへおいでと、ゆっくりと引っぱられる。
苦しくはない。
怖くもない。
身を委ねても…いい…か
でも、明かりが見える。
薄い明かりが。
ゆらゆら揺れている。
脚に絡んだ何かを振りほどく。
行って…みようか…な
水をかき分け、
手を伸ばし、
きらきらと、光の帯が降り注ぎ、
ふぅっと浮き上がって…
あ
深い海の底から、水面の陽のゆらぎに近づくように、
目が覚めた。
薄目を開ける。
まぶしい日差しが眼底を焼く。
「くそ、カーテン、閉め忘れたか」
握ったままスマホを見ると、時計は6時半。
いつもの起きる時間だ。
辺りを見回す。
見慣れた自分の部屋の中。
すさまじく体がダルい。
まるでサキュバスにすべてを吸い尽くされたような、虚脱感。
「オレ‥いつの間に‥‥」
ぼんやりした頭の中に、沙貴子のことが断片的にフラッシュバックされる。
なぜ? あり得ない。
夢にしても妙に生々しくリアルだ。
きのうは一晩中部屋にいて、眠りについたことすら覚えていない。
悪趣味な夢。どうしてこんな夢を見たんだろう。
スマホを見る。
沙貴子からの返信はないままだった。
◇ ◇ ◇
<5月15日 朝 教室>
朝の教室。
ホームルームまでのわずかな時間に交わされる挨拶と雑談。
「どうしたの東城? 何か死にそう」
顔を見るなり船橋の第一声。
「目にクマができてるけど、大丈夫なの?」と、かすみも心配そうだ。
変な夢を見て、猛烈に精神と体力を消耗したことを考えれば、むべなるかなだろう。
「どうせ、明け方までゲームかなんかしてたんでしょ。これ、飲んでいいよ」
船橋は勝手に隣に座ると、カバンから「ウコンターボ」とか書いてある金色の瓶を取り出し、東城の目の前にドカンと置く。
何でこんなもんを女が、しかも女子高生が持ち歩いてるんだか。
目ざとく見つけた柏木がやってきて「これ効くのよねえ!」とまで応じる始末だ。
山葉やかすみもゲラゲラ笑っている。
沙貴子の席。
もはや彼女の欠席は眼中になく、クラスにいないことが当たり前のような、ごく自然な振る舞い。
仕方のないこととはいえ、ちょっとどうかなとは思うが…。
「にしても船橋よ、お前ほんとオヤジだな!」
山葉が腹をよじりながら指さす。
「ふ~ん、ハイパーブラックターボがそういうこと言うか‥」
船橋は不適に笑うと、指の関節を2、3本鳴らす。
「おまっ! 余計なこと覚えてんじゃねーよ」
「なによう。山葉がつっかかってきたんじゃない」
朝から元気いっぱいである。
「分かった、分かった、オレ飲むからさ。船橋ありがと」
東城は腰に手を当てると喉を鳴らして一気飲みしてみせた。
船橋は、そんな彼の姿を満足そうに眺める。
と、突然
「おはよう」
と、軽やかな声が響いた。
全員が一斉に声のした方に首を曲げる。
「‥あ、御山‥さん」
絶望の淵にでも追い詰められたような船橋の声。
それ以外、誰も声をあげることはなく、御山は自分の席の前に立った。
「あ、ご、ご、ごめんなさい」
船橋が焦って立ち上がる。
ぺこりとお辞儀し、着席する御山。
東城の方を向き、「おはよう」と明るく声をかける。
「お、おう」
それしか言えない。
みんな、無言のまま東城と御山を交互に見比べている。
狼狽する東城と、意外なほどにあっけらかんとしている御山。
彼女が欠席した理由を分かっているだけに、まさにキツネにつままれたような、そんな雰囲気なのだろう。
「きり‥」
「きりーつ」
東城が号令をかけようとしたのを制するように、御山がかえで先生の登場を告げた。
<5月15日夜>
昨日までの不安は嘘のように消えている。
東城の部屋の中。
睡眠前のひと時、ベッドで仰向けになり、ぼんやり天井を眺めている。
気持ちはとても落ち着いている。
昨晩の悪趣味な夢は確かに夢ではあったのだが、まるで実際に体験し、御山に許されたようなリアルな感覚で、不安が消え去りスッキリしたと言うことだけは事実だ。
もはや外の足音も気にならなければ、変に視線を感じることもない。
「許して…あげる…から」
夢の中での沙貴子の言葉。
夢であったのに、この言葉に偽りはなく、きょうの沙貴子は欠席前とはまるで違う、前からそうであったかのような、ただの同級生になっていた。
「東城くんごめん。欠席中のノート、よかったら見せて」
両手を合わせ拝むような頼み方。
前の沙貴子だったら、もっとぎこちない雰囲気で頼むか、いや、頼むことすらしなかったはずなのに、そこらへんの調子のいい同級生と変わらぬ軽いノリ。
教室に入ってきた朝のあの瞬間はさすがに身構えた東城だったが、彼女は気まずそうに視線をそらすこともなく自然体。
休み時間を重ねるにつれ、ほかのクラスメートの会話にも違和感なく加わり、昼休みには柏木や来栖と連れ立って学食に行くまでになっていた。
その背中を見送った東城は船橋を誘い、屋上へ向かった。
「おい船橋、この前の、中学のときの話だけど。本当なのか、あれ?」
「本当だよ。K組にもあの話知ってる子がいるから、何だったら呼ぶ?」
「いや、いいけどさ。なんか、逆に不気味でさ」
「その後、会ったりしたの?」
「まさか」
「理由は分からないけど、何か吹っ切れることでもあったんじゃないの」
吹っ切れる、か。
オレの都合のいい夢と、それにたまたまタイミングの合った登校再開。
ただの偶然とはいえ、今朝からのあの明るさは何か彼女が一皮剥けたような、そんな印象を与える。
「彼女も大人になったのよ、きっと」
船橋も確信じみて、自身の発言に首を縦に振り、納得している。
「ということで、これで私とも付き合えるわね?」
「ま、考えとくよ」
こういう軽い冗談を返せるのは、東城にとっても久しぶりのことだった。
その後、帰りには美砂にも会い、沙貴子のことを伝えた。
ここ数日不安だったことや、変な夢を見たことは伏せてはいるが、晴れやかな気分を共有したかったからだ。
彩ケ崎駅の北にある、東城の家に近い公園で合流。
話を聞くなり美砂は
「あの人、学校に来たんですか?」
と、いずれ登校してくるだろうことは理解しながらも、若干不快そうな表情だ。
そこで東城も、今日一日の、あっけらかんとした沙貴子のことを、漏らさず美砂に聞かせた。
「そうなんですか」
「だから、もう心配いらないと思うよ」
「これで、本当に東城さんは私だけのものになりましたね」
「うん」
沙貴子には悪いことをしてしまった。
しかし彼女は立ち直ったはずだ。
これでよかったんだ。
視線を気にせずに交わす美砂との口づけ。
「これから、うちに来ないか?」
「えへ」
不安は消え、東城は実感した。
「俺は、呪縛から解放されたんだ」と。