第64話

文字数 4,065文字

 「…退職を強要したことはない? ウソォ!…」

 つい、叫んで、しまった…

 「…ウソでは、ありません…」

 と、これも、田上が、冷静に返した…

 「…人事部として、高見さん…アナタに、退職を勧奨したことは、一度もありません…」

 私は、その言葉を聞いて、落ち着いたというか…

 ようやく冷静になった…

 この田上は、一度も、退職を強要と言っていない…

勧奨と言ったことに、気付いた…

 強要と、勧奨とは、違う…

 どう違うかと問われれば、強要は、無理やり…

 勧奨は、あくまで、勧める、だ…

 無理やりではない、ということだ…

 つまり、人事部としては、退職を強要するとは、言わない…

 あるいは、

 言えない…

 退職を強要するのは、ご法度だからだ…

 これも、この日本では、当たり前…

 この日本では、個人に退職を強要することは、事実上、不可能に近い…

 過剰なまでに、法律に守られているからだ…

 どうしても、その個人を退職させたいのならば、なぜ、その個人を退職させたいのか?

 詳細な理由を、裁判所等で、明らかにしなければ、ならない…

 あるいは、会社が、倒産寸前だから、仕方なく、社員を退職させるなど、合理的な理由を上げなければ、ならない…

 そして、それは、簡単ではない…

 だから、退職を勧奨する…

 退職を強要するのではない…

 あくまで、退職を勧奨するのだ…

 が、

 それは、名目だけ…

 実態は、誰が、見ても、強要だ…

 よく上げられる例が、追い出し部屋とか…

 あるいは、音を上げるまで、日本中をたらい回しに、転勤させるとか…

 とにかく、本人が、自分から、辞めるというまで、陰湿なイジメを繰り返す…

 大人のイジメだ…

 これが、退職の実態だ…

 が、

 人事の人間が、その実態を認めることは、断じて、できない…

 これも、当たり前だ…

 私が、そんなことを、考えていると、

 「…高見さん…アナタの退職の勧奨は、松嶋が、独断で、勧めたことです…」

 と、電話の向こう側から、田上が、言った…

 「…独断ですか?…」

 「…そうです…」

 「…ウソォ?…」

 「…ウソでは、ありません…」

 漫才のような、やりとりになった…

 一方が、ウソだと言い、もう一方が、ウソではないと、否定する…

 しかも、それを何度も、繰り返す…

 これが、漫才でなくて、一体、なんだろうか?

 私は、そんな漫才のようなやりとりを続けながら、考えた…

 この田上の言うことが、どこまで、本当か、考えたのだ…

 だから、

 「…ということは、私への退職の勧奨は、撤回ですか?…」

 と、聞いた…

 直球に聞いた…

 「…もちろんです…」

 「…だったら、極端な話、明日から、また出社しても、構いませんか?…」

 「…明日からと、いうわけにはいきません…高見さんは、今、一年間の休職ということに、なっています…ですから、正式に、休職を撤回して頂いた上であれば、出社は、可能です…」

 回りくどい言い方だが、それが、正論と思った…

 私も、子供では、ない…

 現在、休職中と会社に、届けているのに、いきなり、明日から、出社できるはずもない…

 たしかに、今、この田上と電話で、話しているから、私が、休職をただちに撤回すると言えば、田上も、了承するだろう…

 が、

 それでは、ただの口約束というか…

 やはり、日本の会社だ…

 正式に、書類を提出する必要があると、いうことだ…

 私が、勤務する、営業所に、私が出向いて、書類にサインするか?

 あるいは、金崎実業の本社に、出向いて、書類にサインするか?

 そのどちらかの手続きが、必要になると、いうことだ…

 私は、思った…

 そして、考えた…

 松嶋のことだ…

 この田上は、今、私の退職勧奨は、松嶋の一存だと、言った…

 が、

 本当に、そうだろうか?

 たしかに、松嶋は、あの秋穂に、そそのかされて、私に退職を強要した…

 それは、あの米倉正造から、聞いた…

 が、

 本当に、それは、あの松嶋だけの仕業なんだろうか?

 松嶋のほかにも、誰か、いなかったのだろうか?

 例えば、この電話をしている最中の田上という人物だ…

 最悪、この田上も、松嶋とグルだった可能性もある…

 マンガみたいな展開かも、しれないが、まさかということも、あるからだ…

 だから、とりあえず、田上の身分を聞くことにした…

 「…あの…失礼ですが?…」

 「…なんでしょうか?…」

 「…田上さんの役職は?…」

 「…人事部で、部長をしています…」

 「…部長ですか?…」

 「…ハイ…」

 「…これは、失礼しました…」

 田上から、すれば、私の姿が、見えないにも、かかわらず、私は、頭を下げて、謝っていた…

 我ながら、実に、日本人的な対応だった(笑)…

 相手の姿が、見えずとも、つい、頭を下げてしまう…

 私も、例外では、なかった…

 そして、考えた…

 この電話が、来たタイミングを、だ…

 この電話が、来たのは、あの水野透(とおる)と、電話をしてから、やって来た…

 そして、あの透(とおる)は、水野の御曹司…

 この私が、勤務する、金崎実業の親会社の水野の社長の御曹司だ…

 だから、この電話が、あったのは、偶然か?

 はたまた、透(とおる)が、動いたのか?

 考えた…

 いや、

 透(とおる)でなくても、透(とおる)の父親の良平の可能性もある…

 水野の社長の良平の可能性もある…

 が、

 あの良平は、以前、私が、金崎実業を休職に追い込まれたことを、知って、他の水野の会社を紹介すると、私に、言ってくれた…

 水野の内紛に、巻き込まれて、申し訳ないとも、言ってくれた…

 あのときは、気付かなかったが、アレは、一体、どういう意味だろうか?

 私は、あの米倉澄子の娘の秋穂のせいで、金崎実業を、退職に追い込まれたのでは、なかったのか?

 あの秋穂が、松嶋をそそのかして、私を金崎実業から、退職に、追い込もうとしたのでは、なかったのか?

 謎がある…

 が、

 いずれにしろ、この電話の背後には、水野父子が、いると、私は、気付いた…

 だから、

 「…田上部長…」

 と、聞いた…

 「…なんでしょうか?…」

 「…どなたの指示ですか?…」

 私は、直球に聞いた…

 すると、

 「…」

 と、間があった…

 しばし、沈黙した…

 それから、しばらくして、

 「…社長…内山社長からです…」

 と、ぶっちゃけた…

 私は、仰天した…

 まさか、ここで、内山社長の名前が出るとは、思わなかったからだ…

 が、

 考えてみれば、至極、当たり前だった…

 内山社長の娘の内山さんは、私の営業所の同僚…

 隣の席にいる…

 そして、以前、その内山さんに、私が、退職に追い込まれたときに、

 「…高見さん…お父さんに頼んでみる…」

 と、内山さんが、言ってくれた…

 が、

 私は、その申し出を断った…

 退職を強要されたときに、来るべきものが、来たと思ったからだ…

 もうすぐ、34歳にもなる女だ…

 同じ年に入社した同期の女は、皆、退職した…

 残っているのは、私一人だけ…

 だから、あの松嶋に退職を強要されたときは、驚かなかった…

 潮時かも、しれないと、思ったからだ…

 いつまでも、結婚もせず、ただ毎日が、無為に過ぎて行く…

 昇進したいキャリア志向もなければ、結婚願望もない…

 ただ、毎日が、流れてゆくだけ…

 それだけだ…

 こんな毎日を続けていて、いいのか? と、思う自分と、

 だったら、どうすればいい?

 と、悩む自分が、いる…

 会社を辞めるのは、簡単だ…

 が、

 その後、どうするか?

 やはり、どこかに、働きに出なければ、ならない…

 が、

 それでは、今と同じではないのか?

 それに、会社員生活を続けるのならば、今のままの方が良い…

 仮に、金崎実業を辞めれば、私の経歴では、金崎実業以上の会社は、無理…

 転職は、無理…

 できない…

 できるのは、まったくの無名の中小企業か、パートぐらいだろう…

 当然、給与や、その他、諸々の待遇が下がる…

 だったら、今のままが、いい…

 金崎実業に勤めたままの方が、いい…

 それが、私の結論だった…

 一種のモラトリアム…

 ただ、毎日、結論の出ないことを、考え続け、ひと知れず、悶々と悩んでいた…

 今のままで、いいのか?

 それとも、別の生き方を選ぶべきか?

 悩んでいた…

 そんなときに、松嶋から、退職を強要された…

 来るべきものが、来たと思った反面、それに、反発する自分もいた…

 落胆する自分もいた…

 同時に、運命とも、思った…

 ここらが、潮時だとも、思った…

 だから、内山さんが、
 
 「…高見さん…お父さんに頼んでみる…」

 と、言ってくれたときに、

 「…いいのよ…別に…」

 「…もう、どうでもいいの…」

 と、言って、内山さんの言葉を退けた…

 それを、思い出した…

 だから、もしかしたら、内山さんかも、しれない…

 水野父子ではなく、内山さんかも、しれない…

 が、

 いずれにしろ、誰かが、内山社長を動かして、私を救ってくれた…

 そう、思った…

 水野父子かも、しれないし、同僚の内山さんかも、しれない…

 いずれにしろ、誰かが、私を救ってくれたと、思った…

 そして、そんなことを、考えていると、

 「…高見さん…どうしますか?…」

 と、いきなり、田上が、聞いてきた…

 「…どうすると、言うと?…」

 「…金崎実業に、復職しますか? …それとも、このまま、当面、休職しますか?…」

 いきなり、聞かれて、返答に、困った…

 すぐに、

 「…復職します…」

 と、返答したいところだが、背後関係が、見えない…

 本当に、私を休職に、追い込んだのは、松嶋の独断なのか?

 わからない…

 背後に、別の誰かが、いるのではないか?

 わからない…

 松嶋は、澄子の娘の、あの秋穂に、頼まれて、私を、金崎実業から、追い出そうとしたと、考えられるが、本当に、それだけだろうか?

 わからない…

 そして、今、誰が、私を復職させようとしてくれたのか?

 それも、わからない…

 わからないことだらけだ…

 だから、返答に、詰まった…

 どう、答えて、いいか、わからなかった…

               
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