第20話

文字数 5,566文字

 結局、その日は、ただ水野春子と会っただけ…

 水野のお屋敷で、会っただけで、帰った…

 実際には、あの後、春子の夫の良平と、水野のお屋敷の庭を散策して、少し話したが、それだけ…

 それだけだった…

 水野良平は、しきりに、恐縮していた…

 「…本当に、今回は、申し訳ない…」

 もう、何度目か、わからないセリフを繰り返した…

 「…高見さんを、巻き込んで、申し訳ない…」

 「…いえ…」

 「…僭越ながら、高見さんの休職の件ですが…」

 「…ハイ…」

 「…高見さんの勤める、金崎実業に手を回して、高見さんの休職を撤回させるのは、容易ですが、正直、それは、したくない…」

 「…」

 「…ですから、代わりと言っては、高見さんに、申し訳ないですが、うちの水野のグループ会社で、しかるべき、ポジションを用意するというか…」

 「…会長…なにも、そこまで…」

 「…いえ、高見さんを休職にまで、追い込んだ責任があります…」

 「…」

 「…だから…」

 「…責任って、具体的には、今回、どうして、私が、休職に追い込まれたんですか?…」

 私は、ハッキリと、水野良平に、聞いた…

 良平の息子の透(とおる)が、好子さんと、うまくいかなくなったと、聞いては、いたが、なぜ、私が、金崎実業を、休職しなければ、ならなくなったのか、今一つ、わからなかったからだ…

 「…水野内部の権力闘争です…」

 良平が、苦々しげに、告白した…

 「…権力闘争?…」

 「…今回、透(とおる)が、好子さんと、不仲になったことで、さっきも、言った、水野の分家の面々が、動き出した…」

 「…」

 「…春子に取り入り、春子の後ろ盾を得て、透(とおる)に取って代わって、水野の次期当主になろうとしている…」

 「…そんな…でも奥様は、一体?…」

 「…春子ですか? …春子は、さっきも、言いましたが、水野の繁栄が、すべて…おおげさに言えば、水野が、未来永劫、栄えること…これが、春子の願いです…」

 「…」

 「…そして、今、春子の心は、揺れています…このまま、透(とおる)が、次期当主の座に就けたままでいいのか、それとも、他の人間に変えたら、いいのか? 揺れています…」

 良平が、語る…

 が、

 そんな良平を、間近に見ながら、ふと、不思議になったことがある…

 良平の言葉が、どこか、他人事というか…

 自分の血が繋がった、息子の透(とおる)が、もしかしたら、水野家の次期当主の座から、降りねば、ならなくなるにも、かかわらず、危機感というか…

 要するに、透(とおる)に対する愛情が、どこか、欠落しているように、思えた…

 だから、

 「…会長…」

 と、聞いた…

 「…なんですか? 高見さん…」

 「…会長のお言葉を聞いていると、どこか、他人事というか…」

 「…他人事?…」

 「…ハイ…透(とおる)さんのことを、語るとき、どこか、他人事というか…言葉は、悪いですが、達観しているというか…」

 私の言葉に、良平は、考え込んだ…

 しばし、悩んだ…

 それから、少しして、

 「…それは、私が、経営者だからかもしれない…」

 と、ゆっくりと、考え込むように、言った…

 「…経営者だから…」

 「…経営者に必要に必要なのは、思い込みと、それとは、真逆の冷静さです…」

 「…どういうことでしょうか?…」

 「…誰でも、そうですが、この事業が、今後、伸びる…あるいは、将来的には、縮小する…それは、データを、見て、部下に説明されれば、わかります…ですが、データに現れないもの…直観というか…データでは、まだ、現れてないんですが、これは、伸びると、思えば、その分野に、積極的に投資する…そんな思い込みが、経営者には、必要です…」

 「…」

 「…そして、それとは、真逆に、冷徹に、データから、市場を読み解くこと…これも、大切です…」

 「…」

 「…だから、思い込みと、冷静さ…この相反する感情を持つことが、大切です…そして、それを透(とおる)にも、当てはめると、どうでしょうか?…」

 「…どうなんでしょうか?…」

 「…さっき、この家に来るときに、高見さんに、クルマの中で、言ったように、微妙です…」

 「…微妙?…」

 「…透(とおる)は、まだ、経営者としては、海のものとも山とも、わからない…」

 「…」

 「…そもそも、経営者としての適性があるか、否かも、わからない…」

 「…」

 「…だから、もし、その適性がなければ、今の地位から、去って、違う人生を歩むのも、ありかと…」

 「…随分、冷たいんですね…ご自分の血を分けた息子さんなのに…」

 つい、言ってしまった…

 なんだか、この良平の言葉が、あまりにも、他人事だったからだ…

 が、

 良平は、私の言葉に、怒らなかった…

 「…冷たい? …たしかに、冷たいと言われれば、その通りです…ですが、才能がなければ、早々に辞めたほうがいい…それが、経営者の先輩としての客観的なアドバイスです…」

 「…客観的なアドバイス…」

 「…そうです…また、それを言うのは、透(とおる)が、水野の家の人間ということもあります…」

 「…どういう意味でしょうか?…」

 「…お金に、困らない…」

 「…」

 「…仮に、今の立場から、去っても、生活に不自由しない…それが、大きい…」

 「…」

 「…血を分けた私の子供です…かわいくないはずは、ない…ですが、それとこれとは、別…」

 「…別?…」

 「…仮に本人に、経営者としての適性がなければ、本人にとって不幸ですし、水野にとっても、不幸です…」

 「…水野にとって、不幸…」

 「…ろくでもない経営者が、先頭に立って、道を誤れば、水野は、衰退する…最悪、倒産の憂き目に遭う…」

 「…」

 「…私も妻も、それが、心配なんです…」

 良平が、言った…

 そして、その言葉が、すべてだった…

 父親として、子供の幸せを願わない父親は、いないだろう…

 が、

 同時に、子供の適性を考える…

 息子の経営者としての適性を考える…

 すると、別の景色が、見えてくるというか…

 無理して、経営者の道に進まなくてもよいのではないか? 
 
 と、考える…

 そして、それを冷静に語ることが、できるから、この水野良平は、優れている…

 経営者として、優れている…

 当たり前のことに、気付いた…

 いかに、優れた実績を残した経営者でも、こと肉親のことになると、わけが、わからなくなる人間が、いかに、多いか(爆笑)…

 イトーヨーカドーを追放された元社長の鈴木敏文など、その好例だろう…

 自分の後継者に、息子を据えようとする…

 本人は、そんな考えは、まったくないと、メディアで、否定しているが、その言葉とは、裏腹に、たいして、実績のない息子を、確実に、社内で、出世させている…

 一歩一歩、階段を上がるように、地位を上げている…

 そして、ついには、取締役まで、昇らせて、自分の後継者に据えようとしている…

 つまり、息子の昇進具合を見ると、言っていることと、やっていることが、まるで、違う(爆笑)…

 私は、息子を自分の後継者にしようと、思ったことは、一度もない、と言いながら、誰が見ても、自分の後継者に据えようとしている…

つまりは、自分は、優れていても、こと息子のことだと、わけが、わからなくなるのだろう(笑)…

 血が繋がってなければ、相手にも、しない能力の人間を、祭り上げようとする…

 親バカと言ってしまえば、それまでだが、自分が、後ろ盾になれば、周囲の人間も抑えられるだろうと、甘く見ているのだろう…

 が、

 自分は、普通に考えれば、息子よりも、長生きはできない…

 自分が、いなくなった後、どうするか?

 そこまでの考えは、ないのだろうか?

 そして、そんな人間と比べると、この水野良平は、優れていた…

 自分の息子でも、冷静にその能力を判断する…

 その一点に、置いて、優れていた…

 私は、そう思った…

 
 私は、水野家に招かれたときと、同じく、黒のベンツに、乗って、自宅まで、帰った…

 もちろん、ベンツに、乗るのは、運転手を除けば、私だけ…

 水野良平は、同乗しなかった…

 当たり前だった…

 水野良平は、水野・米倉グループの総帥…

 忙しい身であることは、わかりきっている…

 その多忙な業務の合間に、私に遭ったに決まっている…

 いや、

 いかに、多忙な身の上でも、どうしても、私に遭いたかった…

 この高見ちづるに遭いたかった…

 そういうことだろう…

 いや、

 あの水野良平が、会いたかったわけではない…

 良平の妻、春子が、私に会いたかった…

 それが、真相だった…

 そして、そんなことを、考えながら、帰途に着いた…

 そして、そんなことを、考えると、以前、あの好子さんの実家である、米倉家を訪れたときにも、感じたことと、同じことを、思った…

 あの米倉の豪邸を訪れて、良平の息子である、透(とおる)が、

 …私か、好子さん、どっちと、結婚しても、水野は、米倉を救う…

 と、断言したときの、ことを、だ…

 あのときが、あの米倉の豪邸を訪れた最後の機会だったが、あのとき、感じたこと…

 …お金持ちでも、幸せでも、なんでもない…

 そんな、当たり前のことを、実感した…

 誰もが、悩み、苦しんでいる…

 そんな当たり前のことを、間近に、見て、あらためて、実感した…

 たとえ、天皇陛下に生まれようと、当然、悩みは、ある…

 ただ、悩みの種類が、一般人と違うだけだ…

 そして、ハッキリ言えば、天皇陛下に代表されるお金持ちの家に生まれれば、生活の不安は、なくなる…

 それだけだろう…

 そして、その生活の不安が、私のような一般庶民では、誰もが、一番、大きい…

 今のご時世、誰もが、生活の不安から、逃れられないからだ…

 会社員であるなら、誰もが、リストラの不安から逃れられないからだ…

 自分は、絶対、リストラされないと、豪語するものは、この水野の家のような人間など、ごく一部の人間だけ…

 普通は、誰もが、当てはまる…

 それが、わからずに、自分は、絶対大丈夫とでも、言えば、頭が、おかしいか、なにか、だろう…

 私は、思った…

 そして、そんなことを、考えていると、さっき、水野良平が、言った、

 「…金崎実業に代わる会社を紹介します…」

 と、いう言葉を思い出した…

 たしかに、今回、私が、金崎実業を休職に追い込まれたのは、水野のせい…

 私個人に、なにか、瑕疵(かし)があったわけでも、なんでもない…

 私が、仕事で、なにか、ミスをして、会社に損害を与えたわけでも、なんでもない…

 すべては、水野の争いに巻き込まれたせいだ…

 私が、悪いわけでも、なんでもない…

 が、

 正直、それだけではない…

 すでに、もうすぐ34歳になろうとしている年齢…

 営業所の女子の中では、すでに一番年上だ…

 だから、今回のことが、なくても、いずれは、切られる運命というか…

 数年後には、露骨に肩叩きをされるに、決まっている…

 現に、そういう事例を、すでに、何度も見てきた…

 私だけ、例外というわけには、いかないだろう…

 だとすれば?

 だとすれば、今回の話は、乗って見るべきでは、ないだろうか?

 水野良平の好意に、素直に甘えるべきでは、ないだろうか?

素直に、救いの手を受けるべきでは、ないだろうか?

それが、ベストの選択なのでは、ないだろうか?

それとも…

それとも、この際、キッパリと、金崎実業を退職すべきなのだろうか?

私は、キャリアウーマン志向でも、なんでもない…

ただ、大学を出て、金崎実業に、就職しただけ…

たまたま、この歳まで、会社に在籍しただけだからだ…

それが、今また、水野良平の助けを受け入れれば、会社勤めを続けることになる…

それは、それで、嬉しい…

なにしろ、金崎実業を辞めても、行く先は、決まっていない…

 もうすぐ、34歳になるであろう、中年女の身で、取り柄と言えば、なにひとつない…

 英語ができるとか、中国語ができるとか、あるいは、司法書士の資格を持っているとか…

 そんな誰もが、わかる資格は、なにひとつ、持っていない…

 私が、他人様よりも、優れていることと、いえば、美人なだけ…

 女優の常盤貴子さんを、小柄にしたルックスだけだ…

 が、

 そのルックスも、だいぶ怪しくなった(苦笑)…

 34歳と、言えば、もはや中年に近い…

 それならば、一回り若い、大学を出たばかりの、22歳の女の子を採用した方が、いいと、人事担当者は、思うに決まっているからだ…

 現に、私が、人事担当者でも、そう思う…

 女は、若い方が、いい…

 そして、そう、考える男が、多いのは、事実…

 紛れもない事実だからだ…

 いいとか、悪いとか、言っているわけではない…

 それが、まぎれもない現実である限り、私は、自分一人の力では、転職は、難しいに違いない…

 いや、

 難しいに、決まっている…

 だったら、やはり、見栄を張らずに、素直に水野良平の援助で、再就職先を探すべきでは、ないだろうか?

 それが、もっとも、現実的な手段だからだ…

 現実的な判断だからだ…

 が、

 果たして、それで、いいのだろうか?

 そんなことを、すれば、結婚が、ますます、遠のく…

 一方で、そんな思いも湧いた…

 水野良平の助けを借りて、転職すれば、無難だが、それでは、金崎実業でいたときと、同じ…

 同じかもしれない…

 ただただ、平々凡々と退屈な毎日が続く…

 それが、いいに決まっているが、それでは、やはり、結婚は、できないのでは、ないだろうか?

 いや、

 それを、思えば、たとえ、自力で、転職先を探しても、同じ…

 同じに違いない…

 自力で、探しても、輝ける未来が、待っているわけでは、ないからだ…

 それを、思えば、やはり、水野良平の支援を受けるべきでは、ないだろうか?

 私は、悩んだ…

 悩み続けた…

               
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み