第10話

文字数 4,400文字

 「…透(とおる)さんが、敵?…」

 あまりにも、意外な言葉だった…

 ありえない言葉だった…

 なぜなら、水野透(とおる)は、この水野良平の息子…

 この眼前の水野良平の血の繋がった、唯一の息子だった…

 それが、敵とは?

 文字通り、意味がわからなかった…

 だから、

 もしや?

 ひょっとして、この水野良平は、冗談を、言ったのではないか?

 私を待ち伏せたと、告白したことで、場が凍ったというと、大げさ過ぎるが、この場の空気が、重たくなった…

 だから、透(とおる)が、敵と言うことで、冗談を、言って、この場の空気を和らげようとしたのではないか?

 そう、直観した…

 だから、

 「…会長…ご冗談を…」

 と、笑った…

 「…会長も、冗談を、おっしゃるんですね…」

 と、続けた…

 が、

 相手は、真顔だった…

 「…いえ、冗談では、ありません…」

 「…冗談ではない?…」

 「…ハイ…」

 水野良平は、真顔で、答えた…

 それゆえ、空気が、凍ったというか…

 信じられないくらい、重たくなった…

 実際、私も、

 「…冗談ではない…」

 と、目の前の水野良平に、言われると、どう返答していいか、わからなかった…

 当然、

 「…どうして、そんなことに?…」

 と、聞きたいところだが、それをむやみやたらに、聞くことは、できない…

 何度も、言うように、身分違い…

 ちょうど、交番勤務のお巡りさんが、気安く、警視総監に、

 「…どうして、ですか?…」

 と、聞くようなものだからだ…

 だから、当然、聞けなかった…

 だから、余計に、沈黙した…

 そして、沈黙が、嫌だった…

 いたたまれなかった…

 そして、それは、水野良平も、同じだったようだ…

 「…ここで、立ち話も、なんですから…」

 と、水野が、言った…

 「…高見さん…少し、いいですか?…」

 「…ハイ…」

 反射的に、答えた…

 何度も言うように、休職中とは、いえ、私、高見ちづるは、金崎実業の社員…

 その一介の社員に過ぎない私が、金崎実業の親会社の米倉・水野グループの総帥に逆らうことなど、できるわけがなかった…

 当たり前だ…

 「…でしたら…」

 水野良平は、自身が、乗って来たと、思われる、近くに停めた大きな黒いベンツに、私を誘った…

 「…このクルマに乗って、どこか、落ち着ける場所で、ゆっくり話しましょう…」

 そう言って、私を誘った…

 私は、迷うことなく、その誘いを受けた…

 まさか、水野良平が、私になにか、するとは、思えない…

 まさか、水野良平が、私に下心があるとは、思えないからだ(笑)…

 水野良平は、私の父親と、同じ年代…

 そんな高齢の男性が、私を狙っているとは、思えない…

 なにより、もし、水野良平が、狙うならば、私よりも、若く、ナイスバディの女を、狙うだろう…

 もうすぐ34歳になろうとする、身長、わずか、155㎝の女を狙うとは、とても、思えない…

 こう言っては、身もふたもないが、私が裸になっても、子供…

 小学生が、少しばかり成長したとでも、言えば、いいのだろうか?

 そんな小さな子供のような私を狙うとは、とても、思えない…

 なにより、水野良平は、名士…

 経済界で、知られた名士だ…

 そんな名のある名士が、下手なことをして、自分の名を汚すようなことをするとは、どうしても、思えなかったからだ…

 だから、私は、安心して、水野良平の誘いに乗った…

 「…わかりました…」

 私は、答えて、路上に停めた黒いベンツに向けて、歩き出した…


 ベンツの中に、乗り込むと、互いに、

 「…」

 と、沈黙した…

 本当は、一刻も早く、真相が、知りたかった…

 どうして、透(とおる)が、敵なのか、知りたかった…

 が、

 聞くわけには、いかなかった…

 何度も、言うように、私と、この水野良平は、対等ではない…

 対等の関係ではない…

 ちょうど、警察で、言えば、街のお巡りさんと、警視総監や、神奈川県警の本部長ほど、違う…

 いかに、金崎実業を休職中の身で、まもなく、退職するであろうとも、だ…

 が、

 世の中には、それが、わからないものも、一部には、いる…

 確実に、存在する…

 以前、例に挙げた、学生時代に、偶然、バイトで、知り合った女性社員など、その典型だった…

 自分も、他人も、いっしょ…

 例えば、東大を出て、会社で、出世コースに乗っていたり、していても、頼りなかったり、すると、

 「…どうして、あんなひとが?…」

 と、なる…

 いわば、外見でしか、そのひとを判断することが、できない…

 この場合は、頼りがいが、あるか、ないかの二択…

 いわば、どんなに、頭が良くても、頼りがいがなくては、ダメ…

 真逆に言えば、その程度でしか、ひとを判断できない(爆笑)…

 そして、また相手が、東大を出ていても、それが、どれほど、難しいことか、考えない…

 例えば、自分が、高卒や短大卒でも、普通は、どれぐらい難しいか、考えるものだ…

 例えば、出身高校の偏差値は、70とか、調べて、

 「…やっぱり、凄い!…」

 と、驚嘆するものだ…

 が、

 それが、できないというか…

 一切、考えない(爆笑)…

 与えられた、目の前の仕事が、できるか、できないか?

 それが、彼女の選択基準であり、できなければ、ダメだった…

 例え、東大を出ても、無名の高卒のひとより、できなければ、ダメ!

 ある意味、シンプルで、わかりやすい(笑)…

 そして、その評価を、周囲に、言うものだから、周囲は、苦笑するか、あきれ返る以外、なかった…

 そして、なにより、その評価を下す彼女自身は、まったくの平凡…

 無名の短大を出て、ルックスも平凡…

 まさに、平凡、極まりない人間だった…

 私が、ふと、そんなことを、考えていると、

 「…高見さん、今、なにを、考えて、いるんですか?…」

 と、ベンツの後部座席で、隣に座る、水野良平が、聞いて来た…

 私は、焦った…

 どう、答えていいか、わからなかった…

 まさか、透(とおる)のことを、ストレートに聞くわけには、いかなかった…

 だから、つい、

 「…どうして、ですか?…」

 と、聞いてしまった…

 「…どうして、会長は、突然、そんなことを?…」

 「…いえ、高見さんが、笑ったような気がして…」

 「…私が、笑った?…」

 …しまった!…

 彼女のことを、考えていて、つい、口元が、緩んでしまった…

 そう、思った…

 が、

 それを、この場で、言っていいものか、どうか?

 悩んだ…

 が、

 水野良平が、

 「…いえ、もしかしたら、私の間違いかも、しれません…答えなくないなら、答えなくて、結構です…」

 と、穏やかに、言った…

 その言葉で、私は、答えずには、いられなくなった…

 何度も言うように、私にとって、見れば、雲上人の水野良平が、私に丁寧に接してくれる…

 だから、そのお礼というか…

 水野良平の疑問に、答えるのが、今の私の責務と、考えた…

 「…昔、知り合った女性のことを、考えていたんです…」

 「…そうですか?…でも、どうして、今、その女性のことを?…」

 「…今の私と会長の立場の違いです…」

 「…私と高見さんの立場の違い? …どういうことですか?…」

 「…職場でたまに、見かけるでしょ? 自分も他人も、いっしょ…立場の違いが、わからないひと…例え、東大を出ていても、同じような仕事をして、自分の方が、できれば、自分の方が、上だと、心の底から思う…」

 「…」

 「…最近、休職中で、会社にいかなくなりました…それで、暇を持て余して…つい、昔のことを、考えてしまう…それで、彼女のことを、考えて…」

 「…」

 「…きっと、彼女なら、今、会長といっしょに、いれば、自分も会長も、なにも、変わらない…同じ人間なんだと、心の底から、思うんじゃないかと、考えて…」

 「…つまり、立場の違いが、わからない…」

 「…そうです…」

 私が、答えると、

 「…」

 と、会長は、沈黙した…

 考え込んだ…

 それから、

 「…コンプレックスかも、しれないですね…」

 と、ゆっくり、口にした…

 「…コンプレックス?…」

 「…自分で、気付いているのか、気付いていないかは、わからない…でも、それが、態度に出る…言葉に出る…例えば、今、高見さんが、言ったように、仕事で、東大を出た人間に勝つ…すると、学歴では、負けても、仕事では、負けないと、思う…」

 「…」

 「…実は、私も同じです…それは、平造も同じ…」

 「…どういうことですか?…」

 「…私も、平造も、水野や米倉の本家のお嬢様と結婚して、本家を継ぎましたが、元々は、分家の出…しかも、末端と言っていい…傍流の出です…」

 「…エッ?…」

 思いがけない言葉だった…

 この水野良平も、あの米倉平造も、共に、分家出身だが、そこまで、分家の中でも、格下の出身とは、思わなかった…

 「…ただ、自分で言うのも、なんですが、一族の中で、私は、優秀と、思われてました…だから、本家のお嬢様と結婚できた…そして、それは、平造も、同じです…」

 「…」

 「…でも、それが、重荷となり、コンプレックスにもなった…だから、自分が、本家を継いで、水野が、ダメになったと言われるのだけは、嫌だった…だから、むしろ、そのコンプレックスが、原動力となったというか…」

 そうだった…

 思い出した…

 この水野良平も、あの米倉平造も、同じ…

 同じだ…

 分家出身の者が、本家を継ぐ…

 当然、周囲の雑音は、あるだろう…

 が、

 それを、コンプレックスにして、なにくそ! と、なる…

 それが、二人の原動力だった…

 だから、そう言う意味では、決して、コンプレックスは、悪いことばかりではない…

 例えば、男であれば、学生時代、ルックスが平凡な男が、誰よりも、勉強して、クラスで、一番、カワイイ女のコを、振り向かせたいと、考えるとか(笑)…

 いわば、この場合の原動力は、女だが、それをきっかけに、勉強に目覚め、東大とまでは、言わないが、高い偏差値の大学に入って、いい会社に入ることが、できるかも、しれない…

 だから、コンプレックスは、決して、悪いものではない…

 だが、彼女の場合は、違った…

 ただ、ひとの悪口を言いたいだけだった…

 が、

 もしかすると、それすら、彼女のコンプレックスの裏返しかも、しれないと、気付いた…

 意識すると、しまいと、彼女には、なにもない…

 他人より、優れたものが、なにひとつない…

 だから、ひとの悪口を言う…

 悪口を言うことで、自分の方が、上だと、思うことができるからだ…

 私が、そんなことを、考えていると、

 「…コンプレックスというやつは、非常に、厄介です…とりわけ、今、それを実感しています…」

 「…どうして、今、実感しているんですか?…」

 「…透(とおる)が、今、動いている原動力…それが、コンプレックスだからです…」

 水野良平が、吐き出すように、言った…

               
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