第79話
文字数 4,538文字
「…原田…原田さんを、知っているんですか?…」
「…いえ、知りません…」
「…だったら、どうして、原田さんの名前を…」
「…蛇の道は蛇ということです…」
「…どういう意味ですか?…」
「…米倉奉公会…」
「…米倉奉公会?…」
たしか、以前、聞いた…
米倉奉公会とは、米倉が、戦前、財閥として、活動していたが、戦後、GHQに財閥解体されて、米倉財閥は、なくなった…
が、
東西の冷戦が始まり、その縛りが、緩くなると、元の米倉財閥に関係する人間が、集まり、米倉の旗の元に、集まった…
それが、米倉奉公会…
いわば、その名の通り、米倉に奉公する人間たちの集まりだった…
「…米倉奉公会の人脈です…」
「…どういう意味ですか?…」
「…ボクは、原田というひとは、知らない…でも、米倉奉公会の人間を通じて、間接的に、知っている…そういうことです…」
「…」
「…要するに、友達の友達というやつですよ…友達の、友達の、また友達と、延々と続けば、原田に繋がる…」
私は唖然としたが、言っている意味は、わかった…
なにしろ、米倉正造だ…
あの米倉家の人間だ…
大日産業の取締役だ…
私のような身分の者とは、違う…
なにが、違うかと言えば、人脈…
それが、違う…
私は、一般人…
米倉正造は、大金持ちの息子…
その違いだ…
一般人と、大金持ちの息子とでは、付き合う人間が、違う…
例えば、私は、一般の公立の小学校や中学校を出ている…
が、
お金持ちの子弟は、皆、慶応や青山学院の幼稚舎や、小学校、中学校を出ている…
そして、そんな有名校を出ている人間は、皆、政治家や有名芸能人、有名企業の創業者の子弟など、つまりは、親や祖父母が、世間に知られた存在…
つまり、お金持ちの子弟が、多く集まっている…
そして、そのお金持ちの子弟同士が、知り合い、仲良くなる…
つまりは、金持ちのネットワークができあがるわけだ…
それが、一般人との差…
要するに、付き合う人間の差だ…
ハッキリ言えば、この日本の頂点に位置する人間同士の繋がりができる…
それが、一般人との最大の差だろう…
私は、思った…
そして、それが、その人間たちの強みとなる…
なにしろ、普通ならば、知り合うことのない、お金持ちや有名人の子弟と知り合うことができるのだ…
そして、その知り合うときが、子供時代であること…
それが、最大の強み…
大人になって、知り合っても、プライベートで、仲良くなるのは、至難の業…
大人になって、知り合うのは、極端な話で言えば、ビジネス友達…
会社で、知り合って、仲良くなっても、大抵が、会社を辞めれば、付き合わなくなる…
学校でも、学校を卒業すれば、付き合わなくなるのが、大半だけれども、学校時代に知り合った人間の方が、心を許せるというか…
要するに、子供時代に知り合った人間の方が、親しくなれるということだろう…
私は、思った…
そして、そこまで、考えたとき、やはり原田を思った…
原田は、一体、どうしたのだろうと考えた…
やはり、金崎実業をクビになったのだろうか?
と、考えた…
なにしろ、私のリストラを命じられて、たった二週間で、私のいる、営業所を去った男だ…
私を、無理やりリストラをするのを、嫌がって、去った男だ…
要するに、命令違反…
上司の命令を聞かなかった男だ…
私にとっては、ある意味、恩人だが、会社の上司の命令を聞かなかったのは、サラリーマンとしては、失格だ…
組織人としては、失格だ…
だから、原田自身が、リストラされても、おかしくはなかった…
「…原田さんは、今…一体、どうしているんですか?…」
「…どうしていると、言うと…」
「…金崎実業をクビになったんですか?…」
「…まさか?…」
米倉正造が、笑った…
私は、その笑いを聞いて、ホッとした…
すると、正造が、
「…どうしました? …原田の身が、心配でしたか?…」
と、聞いて来た…
私は、迷わず、
「…ええ…」
と、答えた…
すると、正造が、
「…惚れましたか?…」
と、いきなり、言った…
私は、そんなことは、考えたこともなかったので、
「…どうして、そんなことを、言うんですか?…」
と、怒った…
正造の真意が、わからなかった…
「…原田が、言っていたそうです…」
「…なにを、言っていたんですか?…」
「…高見さんに、惚れたと…」
「…なっ!…」
思わず、絶句した…
思わず、顔が赤らむのが、わかった…
まるで、中高生のように、自分の顔が赤らむのが、鏡を見なくても、わかった…
なにしろ、そんなことを、言われたのは、久しぶり…
いつ以来だったか、わからない…
それほど、久しぶりだったからだ…
が、
私の口から出たのは、
「…からかわないで、下さい…」
と、いう言葉だった…
ホントは、嬉しかったが、それを、認めるには、私は、歳を取り過ぎていたというか…
なまじ、まもなく34歳にもなるから、それを素直に認めるには、変にプライドが高くなっているのかも、しれない…
要するに天の邪鬼になっているのかも、しれなかった…
「…でも、事実ですよ…」
正造が、告げた…
私は、なんと言っていいか、わからなかった…
だから、話を変えた…
「…で、その原田さんは、今も金崎実業に…」
「…いますよ…」
「…」
「…別に、高見さんを追い込んでクビに出来なかったからって、すぐに、クビになるわけじゃないですよ…」
「…」
「…それは、そうと、原田は、独身だそうです…」
「…独身?…」
「…高見さん、ひとつ、原田と付き合ってみたら、どうですか?…」
「…えっ? なにを一体?…」
二の句が告げなかった…
つい、さっきは、
「…ボクと結婚しませんか?…高見さんの面倒は、一生見ます…」
と、言ったばかりなのに、その舌の根も乾かない間に、今度は、別の男と、付き合えば?
と、言う…
まったく、この米倉正造という男は?
ひとを愚弄するにも、ほどがある…
私は、頭に来た!…
文字通り、怒髪天を衝くほど、頭に来た!…
だから、
「…正造さん!…」
と、私は、電話口で、怒鳴った…
「…ひとをからかうのも、いい加減にして、下さい…」
「…からかう?…」
「…そうです…さっき、ボクと結婚して、一生面倒を見ると、言ったばかりなのに、今度は、原田さんと、付き合えばいい、なんて、ひとをバカにするのも、たいがいにして、下さい!…」
「…」
「…私は、人間です…もうすぐ34歳になる女です…まだ独身です…そんな女に、結婚をネタにからかうのは、止めて、下さい…この歳で、結婚は、デリケートな話題なんです!…」
「…」
「…男のひとには、わからないでしょうけれども、女にとっては、切実な問題なんです!…」
私は、怒鳴った…
怒鳴らずには、いられなかった…
これまでの積年の恨みと言えば、おおげさだが、松嶋や、原田から受けたリストラの仕打ちで、積りに、積もったストレスを一気に吐き出すようかのように、怒鳴った…
すると、正造が、黙った…
「…」
と、沈黙した…
そして、それは、私も、同じだった…
「…」
と、なにも、言わなかった…
だから、互いに、電話を握り締めながら、黙ったままだった…
互いに、相手の出方を窺うだけだった…
そして、30秒か、そこら、経った頃だろうか?
「…また、ご連絡します…今回は、申し訳ありませんでした…」
と、正造が、言って、電話が、切れた…
私は、電話を握り締めたまま、だった…
自分でも、自分の感情を、どう、捉えて、いいか、わからなかった…
たしかに、今回、自分が、おもちゃにされたというか…
自分が、利用されたのは、わかる…
私をリストラしようと、して、周囲の人間を、巻き込んだのは、わかる…
が、
実を言えば、それほど、嫌でもなかった…
まさか、正造に、そんな本音は、明かせないが、それほど、嫌でも、なかった…
なぜ、嫌でなかったのか?
それは、その体験が、非凡だからだった…
日々の生活は、判を押すように、退屈なものだった…
毎日が、自宅と会社の往復を繰り返すのみ…
それでも、会社に入社したばかりの、十年ちょっと前までは、同じ同期の女のコたちと、会社帰りに、お茶をして、ああでもない、こうでもないと、よもやま話に花を咲かせたものだ…
それが、もはや、この歳では、そんなことはない…
だから、日々の生活は、判を押すように、退屈で、無為なものだった…
そして、そんな退屈な日常をありがたがらなければ、ならないことは、百も承知だったが、一方で、やはり、ドラマや映画のように、スキャンダラスな出来事に遭遇したかったのも、事実だった…
これは、例えは、悪いが、生真面目で、自分しか、女を知らない男と結婚した女が、旦那に感謝する一方、女遊びが、盛んなモテ男に、心惹かれるのと、同じ…
いわば、真逆の体験に憧れるのと、同じだ…
生真面目な男と結婚すれば、旦那の女関係で、悩むことはない…
そんなことは、十分、わかっているが、それでは、つまらない(笑)…
あっちの女、こっちの女に手を出すモテ男と自分も遊んでみたい…
一方で、そんな誘惑に駆られる…
実に、自分勝手だが、それが、人間というものだろう…
安全圏で、暮らすのは、いいが、もしかしたら、砲弾が、飛び交うような危険な場所にも、行ってみたい…
そんな危険なことも、ときには、してみたい…
誰もが、同じだろう…
だから、それを、思えば、私が、金崎実業をリストラになりかけたのは、苦痛だったが、同時に、内心、どこかで、それを楽しむ自分が、いたのも、事実だった…
これまで、誰にも、明かしたこともないが、一方で、実は、そんな感情もあった…
そして、それは、例えば、推理小説を読むようなもの…
推理小説を読みながら、一体、この先、どういう展開になるのだろうというドキドキする気持ちと、いっしょで、この先、自分は、一体、どうなるのだろう?
と、いう気持ちもあった…
つまりは、どこかで、自分を物語の主人公になぞらえて、見る感覚というか…
自分自身が、危機に直面しているにも、かかわらず、それを楽しむ自分が、いたということだ…
だから、ハッキリ言って、人生の危機だが、それほどでもない…
これが、戦争ならば、そんなことは、言っていられないに違いない…
戦争ならば、文字通り、命の危機に晒されるからだ…
だから、つい、感情的になって、正造を叱り飛ばしたが、実は、それほど、嫌ではなかった…
そして、それは、今も言ったように、命の危険を晒すほどのことではなかったからかも、しれない…
また、私が、男でなかったからかも、しれない…
私が、妻子持ちの中年男であれば、文字通り目も当てられない危機だからだ…
だから、本当は、ちょっとばかり、正造に言い過ぎたと、思った…
だから、本当は、謝らなければ、いけないとも、思った…
が、
その機会は、訪れなかった…
その前に、米倉正造が、事故にあって、入院したという報告が、こともあろうに、あの透(とおる)から、あったからだ…
「…いえ、知りません…」
「…だったら、どうして、原田さんの名前を…」
「…蛇の道は蛇ということです…」
「…どういう意味ですか?…」
「…米倉奉公会…」
「…米倉奉公会?…」
たしか、以前、聞いた…
米倉奉公会とは、米倉が、戦前、財閥として、活動していたが、戦後、GHQに財閥解体されて、米倉財閥は、なくなった…
が、
東西の冷戦が始まり、その縛りが、緩くなると、元の米倉財閥に関係する人間が、集まり、米倉の旗の元に、集まった…
それが、米倉奉公会…
いわば、その名の通り、米倉に奉公する人間たちの集まりだった…
「…米倉奉公会の人脈です…」
「…どういう意味ですか?…」
「…ボクは、原田というひとは、知らない…でも、米倉奉公会の人間を通じて、間接的に、知っている…そういうことです…」
「…」
「…要するに、友達の友達というやつですよ…友達の、友達の、また友達と、延々と続けば、原田に繋がる…」
私は唖然としたが、言っている意味は、わかった…
なにしろ、米倉正造だ…
あの米倉家の人間だ…
大日産業の取締役だ…
私のような身分の者とは、違う…
なにが、違うかと言えば、人脈…
それが、違う…
私は、一般人…
米倉正造は、大金持ちの息子…
その違いだ…
一般人と、大金持ちの息子とでは、付き合う人間が、違う…
例えば、私は、一般の公立の小学校や中学校を出ている…
が、
お金持ちの子弟は、皆、慶応や青山学院の幼稚舎や、小学校、中学校を出ている…
そして、そんな有名校を出ている人間は、皆、政治家や有名芸能人、有名企業の創業者の子弟など、つまりは、親や祖父母が、世間に知られた存在…
つまり、お金持ちの子弟が、多く集まっている…
そして、そのお金持ちの子弟同士が、知り合い、仲良くなる…
つまりは、金持ちのネットワークができあがるわけだ…
それが、一般人との差…
要するに、付き合う人間の差だ…
ハッキリ言えば、この日本の頂点に位置する人間同士の繋がりができる…
それが、一般人との最大の差だろう…
私は、思った…
そして、それが、その人間たちの強みとなる…
なにしろ、普通ならば、知り合うことのない、お金持ちや有名人の子弟と知り合うことができるのだ…
そして、その知り合うときが、子供時代であること…
それが、最大の強み…
大人になって、知り合っても、プライベートで、仲良くなるのは、至難の業…
大人になって、知り合うのは、極端な話で言えば、ビジネス友達…
会社で、知り合って、仲良くなっても、大抵が、会社を辞めれば、付き合わなくなる…
学校でも、学校を卒業すれば、付き合わなくなるのが、大半だけれども、学校時代に知り合った人間の方が、心を許せるというか…
要するに、子供時代に知り合った人間の方が、親しくなれるということだろう…
私は、思った…
そして、そこまで、考えたとき、やはり原田を思った…
原田は、一体、どうしたのだろうと考えた…
やはり、金崎実業をクビになったのだろうか?
と、考えた…
なにしろ、私のリストラを命じられて、たった二週間で、私のいる、営業所を去った男だ…
私を、無理やりリストラをするのを、嫌がって、去った男だ…
要するに、命令違反…
上司の命令を聞かなかった男だ…
私にとっては、ある意味、恩人だが、会社の上司の命令を聞かなかったのは、サラリーマンとしては、失格だ…
組織人としては、失格だ…
だから、原田自身が、リストラされても、おかしくはなかった…
「…原田さんは、今…一体、どうしているんですか?…」
「…どうしていると、言うと…」
「…金崎実業をクビになったんですか?…」
「…まさか?…」
米倉正造が、笑った…
私は、その笑いを聞いて、ホッとした…
すると、正造が、
「…どうしました? …原田の身が、心配でしたか?…」
と、聞いて来た…
私は、迷わず、
「…ええ…」
と、答えた…
すると、正造が、
「…惚れましたか?…」
と、いきなり、言った…
私は、そんなことは、考えたこともなかったので、
「…どうして、そんなことを、言うんですか?…」
と、怒った…
正造の真意が、わからなかった…
「…原田が、言っていたそうです…」
「…なにを、言っていたんですか?…」
「…高見さんに、惚れたと…」
「…なっ!…」
思わず、絶句した…
思わず、顔が赤らむのが、わかった…
まるで、中高生のように、自分の顔が赤らむのが、鏡を見なくても、わかった…
なにしろ、そんなことを、言われたのは、久しぶり…
いつ以来だったか、わからない…
それほど、久しぶりだったからだ…
が、
私の口から出たのは、
「…からかわないで、下さい…」
と、いう言葉だった…
ホントは、嬉しかったが、それを、認めるには、私は、歳を取り過ぎていたというか…
なまじ、まもなく34歳にもなるから、それを素直に認めるには、変にプライドが高くなっているのかも、しれない…
要するに天の邪鬼になっているのかも、しれなかった…
「…でも、事実ですよ…」
正造が、告げた…
私は、なんと言っていいか、わからなかった…
だから、話を変えた…
「…で、その原田さんは、今も金崎実業に…」
「…いますよ…」
「…」
「…別に、高見さんを追い込んでクビに出来なかったからって、すぐに、クビになるわけじゃないですよ…」
「…」
「…それは、そうと、原田は、独身だそうです…」
「…独身?…」
「…高見さん、ひとつ、原田と付き合ってみたら、どうですか?…」
「…えっ? なにを一体?…」
二の句が告げなかった…
つい、さっきは、
「…ボクと結婚しませんか?…高見さんの面倒は、一生見ます…」
と、言ったばかりなのに、その舌の根も乾かない間に、今度は、別の男と、付き合えば?
と、言う…
まったく、この米倉正造という男は?
ひとを愚弄するにも、ほどがある…
私は、頭に来た!…
文字通り、怒髪天を衝くほど、頭に来た!…
だから、
「…正造さん!…」
と、私は、電話口で、怒鳴った…
「…ひとをからかうのも、いい加減にして、下さい…」
「…からかう?…」
「…そうです…さっき、ボクと結婚して、一生面倒を見ると、言ったばかりなのに、今度は、原田さんと、付き合えばいい、なんて、ひとをバカにするのも、たいがいにして、下さい!…」
「…」
「…私は、人間です…もうすぐ34歳になる女です…まだ独身です…そんな女に、結婚をネタにからかうのは、止めて、下さい…この歳で、結婚は、デリケートな話題なんです!…」
「…」
「…男のひとには、わからないでしょうけれども、女にとっては、切実な問題なんです!…」
私は、怒鳴った…
怒鳴らずには、いられなかった…
これまでの積年の恨みと言えば、おおげさだが、松嶋や、原田から受けたリストラの仕打ちで、積りに、積もったストレスを一気に吐き出すようかのように、怒鳴った…
すると、正造が、黙った…
「…」
と、沈黙した…
そして、それは、私も、同じだった…
「…」
と、なにも、言わなかった…
だから、互いに、電話を握り締めながら、黙ったままだった…
互いに、相手の出方を窺うだけだった…
そして、30秒か、そこら、経った頃だろうか?
「…また、ご連絡します…今回は、申し訳ありませんでした…」
と、正造が、言って、電話が、切れた…
私は、電話を握り締めたまま、だった…
自分でも、自分の感情を、どう、捉えて、いいか、わからなかった…
たしかに、今回、自分が、おもちゃにされたというか…
自分が、利用されたのは、わかる…
私をリストラしようと、して、周囲の人間を、巻き込んだのは、わかる…
が、
実を言えば、それほど、嫌でもなかった…
まさか、正造に、そんな本音は、明かせないが、それほど、嫌でも、なかった…
なぜ、嫌でなかったのか?
それは、その体験が、非凡だからだった…
日々の生活は、判を押すように、退屈なものだった…
毎日が、自宅と会社の往復を繰り返すのみ…
それでも、会社に入社したばかりの、十年ちょっと前までは、同じ同期の女のコたちと、会社帰りに、お茶をして、ああでもない、こうでもないと、よもやま話に花を咲かせたものだ…
それが、もはや、この歳では、そんなことはない…
だから、日々の生活は、判を押すように、退屈で、無為なものだった…
そして、そんな退屈な日常をありがたがらなければ、ならないことは、百も承知だったが、一方で、やはり、ドラマや映画のように、スキャンダラスな出来事に遭遇したかったのも、事実だった…
これは、例えは、悪いが、生真面目で、自分しか、女を知らない男と結婚した女が、旦那に感謝する一方、女遊びが、盛んなモテ男に、心惹かれるのと、同じ…
いわば、真逆の体験に憧れるのと、同じだ…
生真面目な男と結婚すれば、旦那の女関係で、悩むことはない…
そんなことは、十分、わかっているが、それでは、つまらない(笑)…
あっちの女、こっちの女に手を出すモテ男と自分も遊んでみたい…
一方で、そんな誘惑に駆られる…
実に、自分勝手だが、それが、人間というものだろう…
安全圏で、暮らすのは、いいが、もしかしたら、砲弾が、飛び交うような危険な場所にも、行ってみたい…
そんな危険なことも、ときには、してみたい…
誰もが、同じだろう…
だから、それを、思えば、私が、金崎実業をリストラになりかけたのは、苦痛だったが、同時に、内心、どこかで、それを楽しむ自分が、いたのも、事実だった…
これまで、誰にも、明かしたこともないが、一方で、実は、そんな感情もあった…
そして、それは、例えば、推理小説を読むようなもの…
推理小説を読みながら、一体、この先、どういう展開になるのだろうというドキドキする気持ちと、いっしょで、この先、自分は、一体、どうなるのだろう?
と、いう気持ちもあった…
つまりは、どこかで、自分を物語の主人公になぞらえて、見る感覚というか…
自分自身が、危機に直面しているにも、かかわらず、それを楽しむ自分が、いたということだ…
だから、ハッキリ言って、人生の危機だが、それほどでもない…
これが、戦争ならば、そんなことは、言っていられないに違いない…
戦争ならば、文字通り、命の危機に晒されるからだ…
だから、つい、感情的になって、正造を叱り飛ばしたが、実は、それほど、嫌ではなかった…
そして、それは、今も言ったように、命の危険を晒すほどのことではなかったからかも、しれない…
また、私が、男でなかったからかも、しれない…
私が、妻子持ちの中年男であれば、文字通り目も当てられない危機だからだ…
だから、本当は、ちょっとばかり、正造に言い過ぎたと、思った…
だから、本当は、謝らなければ、いけないとも、思った…
が、
その機会は、訪れなかった…
その前に、米倉正造が、事故にあって、入院したという報告が、こともあろうに、あの透(とおる)から、あったからだ…