第63話

文字数 4,547文字

 「…エッ? 今、なんと?…」

 「…高見さんは、ボクと結婚したいか? と、聞いたんだよ…」

 透(とおる)が、怒鳴るように、言った…

 強い口調で、言った…

 私は、躊躇った…

 どう、答えていいか、わからなかった…

 たしかに、この透(とおる)は、嫌いではない…

 好き…

 が、

 どれぐらい好きかと、問われれば、また、これも、返答に、困った…

 すると、なぜか、とっさに、脳裏に、米倉正造の顔が、思い浮かんだ…

 自分でも、ビックリした…

 まさか、突然、正造の顔が、脳裏に浮かんでくるとは、考えもしないことだったからだ…

 私は、やはり、正造が、好き?

 あの米倉正造が、好き?

 自分自身に、問いかけた…

 自分でも、自分の気持ちが、よくわからなかったからだ…

 そして、そんなことを、考えていると、

 「…いきなり、ボクと結婚したいなんて、言われても、返答に困るな…」

 と、透(とおる)が、笑った…

 「…ごめん…」

 私は、どう返答していいか、わからなかった…

 「…でも、高見さん、これは、冗談じゃないよ…」

 が、

 私は、

 「…」

 と、答えなかった…

 どう、答えて、いいか、わからないからだ…

 この透(とおる)は、妻帯者…

 あの好子さんと、結婚している…

 この透(とおる)が、すでに、好子さんと、離婚しているのなら、いざ知らず、まだ、結婚している…

 そんな透(とおる)に、
 
 「…高見さん…ボクと結婚したい?…」

 と、聞かれても、答えることが、できなかった…

 だから、

 「…透(とおる)さん…」

 と、私は、言った…

 「…なにっ?…」

 「…そういうことは、好子さんと離婚してから、おっしゃって、下さい…」

 「…」

 「…それが、ルールって、ものでしょ?…」

 私が、キツイ調子で、言うと、

 「…」

 と、透(とおる)は、黙った…

 「…」

 と、答えなかった…

 しばらく沈黙した後、

 「…ゴメン…高見さん…」

 と、私に謝った…

 それから、

 「…今度、また、飲もう…」

 と、言って、電話を切った…

 いわば、社交辞令というか…

 本当は、今度、会っても、当たり障りのない、会話に終始するかも、しれないし、最悪、二度と、会わないかも、しれない…

 ふと、思った…

 なぜなら、私と、透(とおる)とは、身分が、違う…

 今、透(とおる)から、

「…金崎実業は、どこの企業グループに所属しているの?…」

 と、聞かれて、あらためて、気付いた…

 金崎実業は、水野グループ…

 あの透(とおる)の父、良平が、社長を務める水野グループの傘下の企業…

 しかも、私は、金崎実業に勤務する女子社員だが、本社勤務でもない…

 一支社…

 一営業所、勤務…

 いわば、言葉は、悪いが、末端だ(苦笑)…

 従業員も、わずか、二十名足らずの小さな営業所…

 そんな末端の営業所に勤務する一社員が、水野本社の社長の息子と、話していたんだ…

 冷静に、考えれば、ありえないこと…

 そんなお偉いさんの息子と、親しげに話すのは、ありえないことだからだ…

 が、

 それが、ありえている…

 半年ちょっと前に、あの米倉正造と、出会って、米倉の家に出入りした…

 それ以来、米倉の家族や、水野の家族と、知り合った…

 だから、ありえないことの連続に慣らされたというか…

 感覚が、麻痺している…

 本来、私と違う世界に、住んでいる人間と、気安く、接することで、自分自身を、誤解しているというか…

 「…本当は、オマエは、彼ら、彼女らと、住む世界が、違う人間なんだよ…」

 ということが、わからなくなってきている…

 自分自身の、この世界での、立ち位置がわからなくなってきている…

 そう、気付いた…

 同時に、これは、マズい…

 距離を置こうと、思った…

 これでは、困る…

 私が、私で、なくなってしまう…

 高見ちづるで、なくなってしまう…

 そう、思った…

 これでは、昔、学生時代に知り合った女と、同じだと、思った…

 その女は、自分は、男に、モテると、豪語していた…

 まったくの平凡なルックスであり、まったくの平凡なボディの持ち主であるにも、かかわらず、そう豪語していた…

 彼女が、そう豪語する理由は、簡単…

 いわゆる、お股が、緩く、誰でも、簡単に、彼女とヤレたからだ…

 だから、それが、男の間で、話題になり、モテていた…

 実に、単純明白な理由だった(爆笑)…

 彼女と親しくなれば、すぐにヤレる…

 そう、思われているから、男に、モテていた…

 が、

 当たり前だが、彼女は、決して、そうは、思わない…

 仮に、誰か、友人が、そう伝えても、反発することは、目に見えている…

 そして、そんな彼女を、誰もが、笑うことは、できない…

 彼女と同じ立場に、なれば、自分が、男にどう思われているか?

 気付くのは、難しいからだ…

 誰もが、他人のことは、簡単に気付くものだ…

 が、

 真逆に、自分のことは、わからないものだ…

 仮に、私が、もし、透(とおる)に、弄ばれているとしよう…

 本当は、水野透(とおる)の目的は、私とヤルことだと、しよう…

 だとしても、私は、気付かないだろう…

 仮に、透(とおる)と、一回、セックスをしたら、透(とおる)は、目的を果たしたと、思って、私から、離れてゆくかも、しれない…

 そういう可能性もある…

 が、

 私が、その事実に、気付かないだけかも、しれない…

 透(とおる)は、所詮、他人…

 赤の他人だ…

 なにを、考えているか、わからないからだ…

 そして、極端な話、自分でも、自分のことが、わからない場面もある…

 例えば、ホラー映画は、見るのも、聞くのも嫌いと、断言する人間が、友人に誘われて、仕方なく、ホラー映画を見たら、ハマったというのは、よく聞く話だ…

 つまり、自分には、合わない…

 あるいは、自分には、できないと、思っていたことが、やってみれば、できた…

 その結果、好きになったというのは、誰にも、ありえる話だからだ…

 だから、自分のことでも、自分のことが、わからないことが、誰でもある…

 そして、大学を卒業して、社会人になれば、仕事が、その代表だろう…

 自分には、できない…

 あるいは、

 自分には、向かない…

 と、思われる仕事をせざるを得ないことが、誰でもある…

 そして、実際に、向かない場合も、あれば、やってみて、案外、気に入ることもある…

 だから、食わず嫌いでは、いけないということかも、しれない…

 話が少々脱線したが、いつものことだ(笑)…

 とにかく、自分自身を律して、己の立ち位置を見直そうと、思った…

 そうでなければ、私が、いつのまにか、増長し、自分でも、気付かぬ間に、とんでもないことになっている…

 そう、気付いたからだ…

 そして、なにより、もう、米倉や、水野の人間と、会うのは、止めようと、思った…

 私は、お金持ちでも、なんでもない…

 が、

 彼ら、彼女らと、付き合いを続けると、私まで、もしかして、透(とおる)や、正造と結婚できるかも?

 と、誤解する…

 あるいは、夢見る…

 が、

 それは、あり得ない…

 現実には、あり得ないことだ…

 それを、自分自身、肝に銘じなければ、ならない…

 私は、思った…

 そう、固く、心に決めた…

 そうで、なければ、自分自身、つい、夢を見てしまうからだ…

 つい、あり得ない夢を、ずっと、見続けてしまうからだ…

 だから、会わない…

 会わないことだ…

 自分は、決して、強い人間ではない…

 意思の強い人間ではないからだ…

 会えば、また、夢を見てしまう…

 だから、会わないに限る…

 そう、心に決めた…


 それから、しばらく、経った、ある日のことだった…

 会社から、連絡があった…

 金崎実業から、電話があった…

 私は、一体、なんの用事だと、思って、電話に出た…

 金崎実業は、休職中…

 これは、すでに、何度も、言っている…

 だから、電話があったのは、驚いた…

 が、

 これもありなのかと、考え直した…

 なぜなら、まだ、私は、金崎実業を、退職していない…

 まだ、金崎実業に、在籍しているからだ…

 「…ハイ、高見です…」

 私は、電話に、出るや、名乗った…

 「…高見ちづるさんですか?…」

 「…ハイ…そうです…」

 「…初めまして、私、金崎実業の本社の、人事部の田上と、申します…」

 「…田上さん?…」

 聞いたことのない名前だ…

 いや、

 そもそも、私は、金崎実業の営業所の一社員に過ぎない…

 本社には、知り合いも、いない…

 現実に、私に、執拗に、退職を強要した人事部の松嶋には、面識がなかった…

 もっとも、だから、執拗に、私に退職を強要できたのかも、しれない…

 誰もが、顔見知りの人間に、退職を強要するのは、勇気がいる…

 ハッキリ言って嫌だ…

 だから、退職を強要するのが、私だから、良かったのかも、しれない…

 私、高見ちづるだから、よかったのかも、しれない…

 私が、まだ、三十路を過ぎたばかりの女だから、よかったのかも、しれない…

 これが、40代、50代の男なら、退職を強要するのも、嫌だ…

 壮年の男性…

 退職を強要する人間も、退職を強要しながらも、

 「…このひと、うちの会社を辞めて、この先、どう生きてゆくんだろ?…」

 と、心の中で、心配するものだ…

 あるいは、心の中で、同情するものだ…

 歳を取れば、取るほど、その会社しか、知らない人間が多い…

 高校や大学を新卒で、入社…

 その会社しか、知らない…

 社会に出る=その会社に入社する…

 だからだ…

 だから、その人間にとって、社会=会社の同僚となる…

 だから、よく世間で、

 「…オレは、社会を知っている…」

 と、豪語する人間が、いるが、その言葉の意味を突き詰めて見れば、その人間が、どんな会社に、所属していたか? だ…

 どんな人間と付き合っていたか? だ…

 例外は、あるが、大抵は、そんなものだ…

 要するに、3社、4社と渡り歩いて、さまざまな人間を、見てきたに過ぎない…

 話が、若干、逸れたが、要するに、私のような三十路を過ぎた女に、退職を強要する方が、40代、50代のオジサンに退職を強要することに、比べれば、はるかに、精神的に楽だということだ…

 私が、そんなことを、考えながら、つい、

 「…人事部の方ですか?…」

 と、聞いた…

 「…そうです…」

 「…私は、人事部は、松嶋さんしか、存じ上げませんが?…」

 「…松嶋ですか?…」

 いきなり、トーンが、下がった…

 明らかに、トーンが下がった…

 一体、松嶋になにが、あったんだろ?

 気になった…

 だから、

 「…あの…松嶋さんが、なにか?…」

 と、聞いた…

 聞かずには、いられなかった…

 「…退職しました…」

 「…エッ? …退職した?…」

 「…そうです…」

 「…ウソォ?…」

 思わず、叫んだ…

 まるで、女子高生のようだが、つい、叫んでしまった…

 まもなく34歳になる、社会人にあるまじき言動だった…

 が、

 叫ばずには、いられなかったというか…

 つい、叫んでしまった(苦笑)…

 が、

 電話の相手は、冷静に、

 「…ウソでは、ありません…」

 と、電話の向こう側から、告げた…

 それから、

 「…人事部として、高見さん…アナタに、退職を勧奨したことは、一度もありません…」

 と、続けた…

               
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