第76話

文字数 3,600文字

 …知っていた!…

 この好子さんは、私が、あの水野良平に連れられて、あの水野の邸宅に行き、良平の妻の春子に会ったことも、知っていた…

 これは、驚き…

 驚き以外の何物でも、なかった…

 まさか、この好子さんが、そこまで、知っているとは、思わなかったからだ…

 私が、そう考えていると、

 「…とにかく、春子さんは、高見さんが、どういうひとなのか、見てみたかったんだと、思う…」

 と、説明した…

 「…だから、良平さんに頼んで、高見さんに会った…」

 「…」

 「…そういうこと…」

 好子さんが、笑った…

 「…きっと、高見さんが、どういう状態だか、見てみたかったんだと思う…」

 「…どういう状態って?…」

 「…だって、自分が、高見さんを、リストラに追い込んだのよ…その高見さんが、どんな状態だか、知りたいじゃない?…」

 好子さんが、笑った…

 私は、驚いたという言葉どころでは、なかった…

 もはや、絶句するしか、なかった…

 まさか、自分で、私をリストラ寸前にまで、追い込んで、そんな私が、どういう状態にあるのか、見てみたいなんて…

 まさか、そんなことがあるとは、夢にも、思わなかったからだ…

 「…きっと、春子さんは、高見さんを試したのよ…」

 「…試した? …私を?…」

 「…血の繋がりがないとはいえ、次期水野家当主の透(とおる)が、好きだった女が、どういう状態になったのか、試した…そういうことだと、思う…」

 「…」

 「…あの春子さんは、一筋縄では、いかないひとよ…」

 好子さんが笑う…

 たしかに、私があの春子さんに会ったとき、私は、あの春子さんを豪胆な女だと、思った…

 水野本家のお嬢様と聞いていたから、深層のご令嬢が、歳を取った姿を想像した…

 事実、外見は、その通りだったが、中身が違った……

 つまりは、繊細な、人形のような容姿だったが、中身は、豪胆な女だった…

 外見と中身が、まるで、違う女だった…

 そして、それを、思い出したとき、

 …さもありなん…

 と、思った…

 あの春子ならば、そんなことは、やりかねないと、思ったからだ…

 と、同時に、もしかしたら、私は、あの春子を敵に回した?

 と、気付いた…

 今、言った、好子さんの言葉が、本当ならば、私は、あの春子の不興を買ったということだ…

 あの春子の逆鱗に触れたということだ…

 それを、思うと、私は、絶句した…

 どうしていいか、わからなかった…

 あの水野良平すら、敵わない相手…

 そんな巨大な権力を持つ、春子が、私に激怒していたとしたら、もはや、私に身の置き所はない…

 金崎実業に、居場所はない…

 あらためて、気付いた…

 だから、

 「…私は…私は、一体、どうすれば?…」

 思わず、好子さんに、聞いた…

 聞かずには、いられなかった…

 すると、電話の向こう側から、

 「…どうすればって? …どういうこと?…」

 と、好子さんが、聞いた…

 「…春子さんのことです…」

 「…春子さんが、どうかした?…」

 「…だって、私は、春子さんの逆鱗に触れたのでしょ? だから、どうすれば?…」

 慌てて言った…

 「…放っておけば、いいのよ…」

 あっさりと、答えた…

 「…放って?…」

 「…春子さんが、高見さんに、なにかするとしても、高見さんは、手の打ちようが、ないでしょ?…」

 「…」

 「…だから、放っておくしかない…なるようになるしかない…」

 あっさりと、好子さんが、繰り返した…

 「…それに…」

 「…それに、なんですか?…」

 「…あの春子さんは、そんなに執念深くはないと思う…」

 「…どういうことですか?…」

 「…高見さんに、嫌がらせをしても、それ以上のことは、しないと思う…」

 「…」

 「…だって、水野家当主よ…」

 突然、電話の向こう側で、好子さんが、大声を出した…

 「…当主?…」

 「…そう…当主…そんな水野家の当主が、いかに血の繋がりがないとはいえ、自分の息子が離婚した原因かもしれない女とはいえ、自分とは、身分の違う一般人に、嫌がらせをしたのが、世間にバレたら、いい笑いものよ…」

 「…笑い者?…」

 「…そうよ…」

 好子さんが、いつになく、強い口調で、言った…

 そして、それは、すぐに、自分と、あの春子を重ねたからだと、気付いた…

 共に、本家の正統後継者…

 共に、女…

 年齢こそ、母子ほど、違うが、同じ立ち位置…

 だから、そんな、一般人とは、違う立場の自分たちが、一般人である私に激怒したとあっては、お笑い草というか…

 仮に、激怒しても、それを態度にすることは、できない…

 そういうことだ…

 これは、おおげさに言えば、皇室の人間を考えればいい…

 例えば、天皇陛下といえども、同じ人間…

 喜怒哀楽は、ある…

 が、

 それを、誰の前にも、出すことは、できない…

 それでは、一般人と同じだからだ…

 だから、簡単に、喜怒哀楽を出すことはできない…

 そういうことだろう…

 が、

 この好子さんも、あの春子も、私の前で、喜怒哀楽は、出している…

 つまりは、天皇陛下ではないのだから、その程度は、許容範囲というか…

 感情を極端に出さなければ、問題は、ないのかも、しれない…

 が、

 追放命令というと、違うというか…

 大げさ過ぎると、いうことだろう…

 仮に、私を、金崎実業から、追放せよと、春子が、命じれば、

 「…なにも、そこまで…」

 と、周囲の者が、思うだろう…

 例え、口にこそ、しなくても、皆、心の中では、思うに違いない…

 だから、それは、できない…

 それでは、自分も、普通の人間と同じだと、思われてしまうからだ…

 大昔でいえば、官位の高い人間ほど、感情をむき出しにして、生きて行くことは、できない…

 殿上人の貴族が、一般人と大差ないと、思われては、困るからだ…

 つまりは、お偉いさんは、常に、自分の感情を抑えて、生きてゆかねば、ならない…

 そういうことだ…

 そして、そう考えれば、私の身は安全…

 これ以上、春子から、嫌がらせは、されないということだろう…

 私は、そう思った…

 そして、その会話を最後に、好子さんとの電話も終わった…

 後は、たわいもない会話というよりも、会話自体、続かなかった…

 私と好子さんは、決して、親しい間柄ではないからだ…

 だから、共通の話題がなかった…

 半年前に、偶然知り合っただけ…

 たいして、親しい間柄では、ない…

 が、

 今も、そうだが、それでも、この好子さんが、私に、ときどき、電話をくれるのは、私と好子さんが、外見が似ているから…

 姉妹といっていいほど、外見が、そっくりだから…

 だから、なんでも、相談できるとまでは、言わないけれども、他人に言えないことが、言えた…

 そして、それは、美人に生まれたものの悩み…

 こればかりは、経験してみないと、わからない悩みだし、うかつに、他人様に、相談できない悩みだ…

 うかつに、そんな悩みを周囲に、漏らせば、

 「…あの女…少しばかり美人だからって、調子に乗りやがって!…」

 と、周囲の人間が、激怒するのが、わかっているからだ…

 もちろん、大部分ではないが、一部には、確実に存在する…

 人間は、嫉妬の生き物…

 自分より明らかに優れた能力や外見を持つ者に、嫉妬する生き物だ…

 だから、私は、好子さんと、たいした知り合いでもないにも、かかわらず、こうして、連絡を取り合うようになった…

 私が、好子さんにとって、美人という共通の悩みを持つ、得難い人物だったからだ…

 そういうことだった(苦笑)…


 その後は、好子さんの言う通りだった…

 私の身になにも、起きなかった…

 心配は、杞憂に終わった…

 が、

 当然、それだけでは、終わらなかった…

 あの松嶋が、現れたのだ…

 と、言っても、私の目の前ではない…

 現れたのは、週刊誌だった…

 自分が、どうして、金崎実業をクビになったのか?

 と、訴えていた…

 と、言っても、厳密には、金崎実業ではなく、水野グループを訴えていた…

 松嶋は、あの澄子の娘の秋穂に、唆されて、私、高見ちづるを、リストラしようとしていた…

 そう、思っていた…

 が、

 違った…

 現実には、あの松嶋を動かしたのは、春子だった…

 水野家当主の春子だった…

 良平の妻の春子だった…

 春子の命を受けて、松嶋は、私をクビにしようとした…

 それが、事実だった…

 それが、真実だった…

 もちろん、春子からの直接の指示ではない…

 松嶋は、春子と、面識すらなかった…

 ただ、人づてに、指示を受けただけだった…

 そして、その人づてというのが、他ならぬ秋穂だった…

 澄子の娘の秋穂だったというわけだ…

 私には、わけがわからなかった…

 どうして、あの秋穂が、春子の指示を受ける立場にいたのか?

 理解できなかった…

 わけが、わからなかった…

 が、

 松嶋の告白を読んで、知った…

 秋穂の背後には、あの米倉正造の影があった…

               
 
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