第86話

文字数 3,877文字

 一月が過ぎた…

 風の噂で、米倉正造が、すでに、五井記念病院を退院したことを、知った…

 が、

 とりたてて、驚かなかった…

 もはや、私には、関係のないこと…

 無縁のことだった…

 なぜなら、私は、今、日々の業務に、忙殺されていた…

 一度は、休職に、追い込まれ、それが、復職しても、仕事を与えられず、いわば、飼い殺し状態だった…

 が、

今度は、真逆に、殺人的に、忙しい…

 私は、すでに、リストラの標的から、外れたはずだが、この様子では、だいぶ怪しかった…

 もしかしたら、私は、まだリストラ候補のリストに入っているのかも、しれない…

 そう、思った…

 が、

 それを、迂闊に口に出すわけには、いかない…

 なにより、その証拠に、私が、復職してからも、これまで、仲の良かった内山さんも、ほとんど、私と口を利かなかった…

 明らかに、私を避けていた…

 そして、そんな状況だから、米倉正造のことを、考える時間がなかった…

 私の一日は、家と会社の往復のみ…

 そして、それは、ずっと以前から、変わらなかったが、このところは、殺人的に、忙しい…

 それが、以前との差だった…

 そして、その忙しさは、すべてのことを、忘れさせた…

 水野のこと、

米倉のこと、

そして、

五井のこと…

そんな諸々(もろもろ)のことを、すべて、忘れさせた…

なぜなら、忙し過ぎて、考える時間が、なかったからだ(苦笑)…

会社から、帰っても、疲れ切って、お風呂に入って、食事を取れば、すぐに、布団に入って寝てしまった…

だから、考える時間は、あっても、考えるだけの体力が、残ってなかった…

誰もが、そうだが、時間は、あっても、疲れ切っていては、なにも、できない…

それは、例えば、大学の受験生が、バイトをしながら、受験勉強をするのと、似ている…

誰もが、バイトで、疲れていれば、勉強どころではない…

それと、同じだ…

だから、大学に行きたければ、まずは、受験で、合格できる学力をつける時間が、必要…

そのためには、バイトをする必要がない、お金が、必要だ…

歳をとって、つくづく、そう思った…

まあ、もっとも、最近は、AО入試等が、普及して、私が、学生時代とは、受験環境が、違うから、比べることは、できないかも、しれない…

が、

一般入試では、今も同じ…

とにかく、受験には、お金が必要…

家庭が、貧しくて、バイトしながら、受験するとすれば、それは、とんでもないハンデだからだ…

今の私と同じで、仕事=バイトで、疲れていては、考える時間など、ないからだ…

私は、そんなことを、思った…

今さらながら、そんなことを、思った…

そして、むしろ、それが、良かったのかも、しれない…

と、心のどこかで、考えた…

どうしても、疲れていなければ、私は、米倉正造のことを、考える…

米倉好子のことを、考える…

水野透(とおる)のことを、考える…

今さら、自分とは、なんの縁もゆかりもないにも、かかわらず、つい、考えてしまう…

そんな生活から、離れることができたからだ…

私と彼ら、あるいは、彼女らと、なんの関係もない…

所詮は、身分違い…

生きている場所が違う…

住んでいる世界が違う…

そういうことだ…

それが、自分でも、わかっているにも、かかわらず、彼ら、彼女らと接すると、つい、自分も、彼ら、彼女らと大差が、ない人間と誤解する…

これは、ヤバい…

実に、ヤバい…

自分では、十分、わかっているはずなのに、実は、わかってない…

つい、誤解してしまう…

もっとも、これは、私に限らず、誰もが、同じかも、しれない…

普通に、彼ら、彼女らと、接していれば、つい、自分と同じ人間だと思ってしまうからだ…

これは、例えば、高卒と、東大卒の人間でも、同じ…

いっしょに、仕事をして、その仕事が、特段、難しい仕事でない限り、仕事に差がでない…

だから、高卒も、東大出も、たいして、変わらないと、思ってしまう…

そういうことだ…

そして、それは、冷静に考えれば、違うのだが、それが、わからない…

いつのまにか、自分と相手との違いが、わからなくなる…

そういうことだ…

だから、今、自分も、米倉正造や、米倉好子、水野透(とおる)と、距離を置くことで、今さらながら、自分の立ち位置がわかったというか…

社会での、自分の地位がわかった…

それが、なにより、よかったと、思った…

言葉は悪いが、私は、彼らや彼女らと、なんの関係もない…

一刻も早く、彼ら、彼女らのことを、忘れるべきだと、思った…

なにより、彼ら、彼女らと、付き合い続ければ、それだけ、未練が残る…

もしかしたら、米倉正造や、水野透(とおる)と、結婚して、自分も、玉の輿に乗れるのではないか?

と、妄想する…

それが、なにより、いけなかった…

自分は、自分…

彼ら、彼女らと、生きる世界が違う…

彼ら、彼女らと、住む世界が違う…

そういうことだった…


そして、そんなことを、考えながら、会社から、家に帰る、ある日だった…

あの秋穂が現れた…

私の目の前に現れたのだ…

私は、最初、気付かなかった…

なぜなら、秋穂は、ひとりでは、なかったからだ…

男といたからだ…

誰もが、そうだが、例えば、街中で、出会っても、ひとりだけなら、すぐに、気付いても、夫婦や、子連れの家族、あるいは、恋人同士の方が、案外、気付きにくいものだ…

よほど、目立つ人間なら、ともかく、ありきたりな容姿をしていれば、数人でいると、気付きにくいものだからだ…

ならば、どうして、私が、秋穂に、気付いたか?

それは、私や好子さんに、似た、人目を引く、美人だというのが、一つ…

が、

それ以上、大きかったのが、隣に、私の知る人物が、いたことだった…

透(とおる)…

水野透(とおる)が、いたことだった…

あの米倉好子と、別れた、透(とおる)がいたことだった…

これは、一体、どうしたことか?

意味が、わからなかった…

どうして、この二人が、いっしょに、いるのか?

皆目、わからなかった…

この二人は、以前、フライデーに、いっしょに、いた姿が、載せられた…

泥酔した透(とおる)が、この秋穂と腕を組んで、コンビニに入る姿を、写真に撮られた…

だから、二人が、知り合いだということは、わかる…

いつから、知り合ったかは、わからないが、二人が、知り合いだということは、わかる…

が、

今、こうして、二人きりで、いるとは、思わなかった…

…もしかして、二人は、付き合ってる?…

ふと、そんな言葉が、脳裏に、浮かんだ…

そして、次に浮かんだのは、二人が、いつから、付き合っているか?

ということ…

あのフライデーに撮られた、ずっと、前か?

それとも、あのフライデーに撮られた直前…

あるいは、アレをきっかけに、二人は、付き合いだした?

さまざまな可能性が、脳裏に浮かんだ…

が、

同時に、それは、自分とは、もはや、なんの関係もないこと…

自分の住んでいる位置とは、なんの関係もない、お金持ちのひとのことだと、思った…

私と、彼らは、違う…

身分が、違う…

だから、関係ない…

そう、思った…

いや、

無理やりにでも、そう、思うことにした…

そうでなければ、誤解してしまう…

私自身が、誤解してしまう…

もしかして、私も、あちらの世界に行けるのでは? 

と、誤解してしまう…

お金持ちの一族の一員になれるのでは?

と、誤解してしまう…

勘違いしてしまうからだ…

だから、透(とおる)と、秋穂さんに、気付いても、私は、見て見ぬふりをした…

とっさに、顔を伏せ、二人に、気付かれないように、した…

自分でも、自分の行動に、笑った…

心の中で、笑った…

これでは、まるで、犯罪者…

私が、まるで、なにかをしたようだ…

私は、まるっきり、悪いことは、なに、一つしていない…

にも、かかわらず、まるで、逃げるように、目立たないように、している…

まるで、犯罪者のように、二人に、気付かれないように、している…

が、

それがいけなかった…

顔を伏せて、歩くことは、周囲が、なにも、見えないことを、意味する…

顔を伏せていれば、見えるのは、地面だけだからだ…

アスファルトの道路だけだからだ…

私は、二人に、気付かれぬように、とっさに、路上のアスファルトを見て、歩いていたが、それが、いけなかった…

思いがけず、二人が、私の近くに、来たことに、気付かなかった…

私が、もういいだろうと、思って、顔を上げると、隣に、二人が、いた…

これは、まさに、驚き…

驚きだった…

「…なに、コソコソ、顔を伏せて、歩いているの?…」

透(とおる)が、面白そうに、聞いて来た…

私は、

「…」

と、絶句した…

どう答えて、いいか、わからなかった…

そして、むしろ、私には、透(とおる)の隣にいた、秋穂の姿が、気になった…

私や、好子さんに似た、秋穂の姿が、気になった…

だから、私の視線は、透(とおる)ではなく、秋穂に、向かった…

つい、秋穂を見た…

私や、好子さんに、似た、秋穂を、見た…

すると、秋穂が、

「…お久しぶりです…」

と、私に告げた…

とっさに、覚えている…

私を覚えていると、思った…
 
そして、そんな私の感情が、面に、出たのだろう…

「…高見さん…ビックリしているみたいだね…」

と、透(とおる)が、面白そうに、聞いた…

私は、

「…」

と、黙った…

とっさに、どう返答していいか、わからなかったからだ…

「…ボクが、この秋穂といるから、驚いた?…」

私は、黙って、首を縦に振った…

その通りだったからだ…

「…これは、ボクの敗北宣言さ…」

思いもしないことを、透(とおる)が、言った…

敗北宣言…

「…どういう意味ですか?…」

私は、聞いた…

聞かずには、いられなかった…

「…オヤジや、オフクロに対する…」

実に、意味深な言葉を続けた…

              
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