第105話

文字数 3,663文字

 その後も、正造からは、連絡もなかった…

 れんらくのれの字もなかった…

 だから、私は、忘れることにした…

 なかったことにした…

 が、

 本当は、そんなことが、できるはずもなかった…

 私の心の奥底では、澱(おり)のように、正造に対する怒りが、溜まっていた…

 それは、まるで、ヘドロのようだった…

 たとえは、悪いが、私の心の奥底に、淀んで、へばりついていたと、言っていい…

 だから、普段は、自分でも、気付かなかった…

 なぜなら、自分の心の奥底に、どんよりと沈んでいる…

 ジッと沈んでいる…

 だから、自分でも、気付かない…

 自分でも、気付きようがなかった…

 が、

 それは、あくまで、普段…

 通常の場合…

 日常の場合だ…

 が、

 偶然、駅で、米倉正造の姿を見たときに、途端にスイッチが入った…

 自分でも、自分の反応に、驚くほどだった…

 私が、会社帰りに、偶然、駅で、米倉正造の姿を見たのだ…

 そのときに自分でも、驚くほどの行動に出た…

 偶然、正造を見かけただけなのに、走って、正造を追いかけたのだ…

 正造は、私が下りた反対側のプラットホームにいた…

 私は、その姿を見ると、急いで、反対側のプラットホーム目指して、駆けだした…

 電車から降りて、階段を昇って来る人々の波をかき分けて、プラットホームに向かった…

 周囲の人間は、明らかに、私を見て、困惑した…

 私を見て、戸惑った…

 なにしろ、いきなり、走り出したのだ…

 会社帰りの一般の女が、走り出したのだ…

 ヒールを履いた女が、一目散に走り出したのだ…

 何事かと、思ったに違いない…

 私は、全力で走って、

 「…米倉正造!…」

 と、叫んで、正造の前に立った…

 一言、言ってやりたかったのだ…

 「…正造…オマエは!…」

 自分でも、自分に驚いた…

 まさか、自分が、正造を、

 「…オマエ呼ばわり…」

 するとは、思わなかった…

 だから、自分でも、驚いた…

 が、

 相手は、もっと、驚いた…

 ひと違いだったのだ!…

 唖然とした表情を浮かべる男に、

 「…申し訳ありません…人違いでした…」

 と、詫びた…

 丁寧に、頭を下げて、詫びた…

 相手は、びっくりしたが、すぐに、苦笑いを浮かべた…

 私は、急いで、その場を離れた…

 恥ずかしくて、たまらなかった…

 みっともなくて、たまらなかった…

 私は、これまで、33年生きてきて、他人様に、そんな真似をしたことは、一度もない…

 だから、冷静に考えれば、とても、自分の行動とは、思えなかった…

 自分が、したこととは、思えなかった…

 が、

 これを、きっかけに、私は、正造を、求めている…

 正造を欲していると、今さらながら、思った…

 思ったのだ…

 自分が、こんなにも、正造を、求めているとは、自分でも、気付かなかった…

 自分でも、自分の気持ちに、気付かなかった…

 これは、驚きだった…

 文字通りの驚きだった…

 同時に、

 …もう、会えないかも、しれない…

 と、気付いた…

 本当は、好子さんや新造さんに、連絡を取れば、会える…

 が、

 そんなことは、できなかった…

 なぜなら、プライドが、許せなかった…

 さんざん、私を利用して、使い捨てた…

 にも、かかわらず、実は、

 …正造が好き…

 と、今さらながら、気付いた…

 遅まきながら、気付いた…

 が、

 自分でも、どうすることも、できなかった…

 さんざん、私を利用した相手を好きだなんて、どうしても、言えなかった…

 だから、自分でも、どうしようもなかった…

 私は、仕方なく、肩を落として、家に向かって、トボトボと歩いた…

 ふと、気が付くと、いつのまにか、自分が、涙を流していることに、気付いた…

 自分が、泣いていることに、気付いた…

 これは、自分でも、驚きだった…

 一体、涙を流すなんて、いつ以来だろ?

 考えた…

 中学生のとき?

 いや、

 小学生のとき以来だ…

 最後に泣いたのは、いつだろう?

 小学生5年生?

 小学生4年生?

 考えても、わからなかった…

 それほど、遠い昔だった…

 私は、そんなことを、考えながら、歩いた…

 歩き続けた…

 下を向いて、歩き続けた…

 誰かに、泣いている姿を見られるのは、嫌だったからだ…

 と、そのときに誰かに、ぶつかった…

 私は、慌てて、顔を上げながら…

 「…スイマセン…」

 と、詫びた…
 
 が、

 返って来たのは、

 「…いえいえ、どう致しまして、美人の当たり屋さん…」

 と、いう言葉だった…

 私は、その言葉で、急いで、相手の顔を見た…

 それは、透(とおる)だった…

 好子さんと、別れた水野透(とおる)だった…

 「…透(とおる)さん?…」

 思いがけない相手だった…

 まさか、こんな場所で、会うとは、思わなかった…

 透(とおる)は、まじまじと、私の顔を見た…

 それから、

 「…やっぱり、美人だ…」

 と、感嘆の声を上げた…

 「…泣いている姿も、美しい…」

 私は、透(とおる)と会って、いきなり、そんなことを、言われたから、どうして、いいか、わからなかった…

 「…それって、私を、褒めているんですか? それとも、からかっているんですか?…」

 と、聞いた…

 強気に、聞いた…

 すると、

 「…そのどっちでもないよ…」

 と、透(とおる)が、あっけらかんと、答えた…

 「…じゃ、なんですか?…」

 「…事実さ…ただ、事実を言っているだけさ…」

 「…」

 「…よく女は、誤解する…」

 「…なにを、誤解するんですか?…」

 「…よく、好きな男の前で、泣いてみる…男の気を引くためだ…でも、それが、逆効果だって、知ってる?…」

 「…逆効果? …どうして?…」

 「…泣くと、顔が、崩れる…だから、普段より、顔が悪くなる…ブスに見える…」

 「…」

 「…でも、美人は、変わらない…泣いても、美人…いや、泣くことで、一層、美人が、引き立つ…どんなときでも、美人だって、わかって、一層惹かれる…」

 「…それって、もしかして、私を慰めている? それとも、口説いている?…」

 「…さあ、どっちかな?…」

 「…それとも、私は、好子さんの代用品?…」

 「…かもな…」

 透(とおる)が、笑った…

 が、

 その透(とおる)の顔もまた、寂しそうだった…

 別れた好子さんに、未練があるのは、ありありだった…

 「…世の中、なるようにしか、ならない…」

 透(とおる)が、笑いながら、言った…

 「…でも、それでも、なんとか、自分の思い通りに、してみたい…」

 「…それって、水野と米倉の合併のこと? … それとも、好子さんのこと?…」

 「…両方だ…」

 「…」

 「…高見さんも、正造が、好きなら、ハッキリと、正造に、言うべきだ…」

 「…正造さんに?…」

 「…好きなんだろ?…」

 私は、答えなかった…

 答えられるはずもなかった…

 正造は、私を利用した…

 にもかかわらず、正造を好きだなんて、言えなかった…

 言えば、正造に、笑われる…

 正造に、バカにされる…

 そう、思ったからだ…

 「…正造は、高見さんに、感謝しているよ…」

 「…感謝している?…」

 「…高見さんが、いてくれたから、好子は、ボクと、離婚できた…」

 「…どういう意味ですか?…」

 「…ボクの母の春子が、高見さんに、興味を持ったことさ…高見さんが、いなかったら、好子は、ボクと、離婚できなかった…」

 「…それは、どういう…」

 「…母の春子は、好子を子供の頃から、知っている…だから、好子を嫌いなわけじゃない…ただ、米倉が、水野と、合併するのは、困るということだけだ…」

 「…」

 「…だから、高見さんの存在を知って、安心して、ボクと好子を別れさす決断をした…高見さんが、いなかったら、難しかったと、思う…」

 私は、その告白を聞いて、以前、好子さんと、春子さんと、会ったときのことを、思い出した…

 たしかに、二人の間にわだかまりは、なかった…

 むしろ、二人の仲の良さを知って、意外だと、思ったものだ…

 「…新造から、聞いたよ…高見さんも、今回の内幕は、わかっているだろ?…」

 「…」

 「…高見さんは、利用された…その一端を正造が、担った…これは、事実だ…」

 「…」

 「…でも、これは、仕方のないことさ…正造の立場に立てば、仕方のないことさ…」

 「…それは、わかってます…でも…」

 「…でも、なんだ?…」

 「…納得がいかない…」

 私は、言った…

 「…どうして、私が、利用されなきゃ、いけないの?… どうして?…」

 私は、言った…

 言いながら、いつのまにか、大粒の涙を流していることに、気付いた…

 それを見て、透(とおる)が、驚いた…

 そして、

 「…凄い…」

 と、呟いた…

 「…なにが、凄いの?…」

 「…そんなに、泣いているのに、美人で、いられる…いつもの、高見さんのままだ…」

 「…冗談は、やめて…こんなときに…」

 「…では、冗談は、やめましょう…」

 というや、透(とおる)は、いきなり、私に覆いかぶさり、キスをした…

 まさに、ありえない行動だった…

 あまりの展開に、私の頭の中が、真っ白になった…

               
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