第100話

文字数 2,502文字

考えてみると、人生の輝きは、二十代前半に集約する、という事に気づいた。

人生で辛酸を嘗めたから、もう一度人生をやり直せるとしてもやり直さない、という言葉を読んだ事があるし、自分もそうだ、と思っていた。

しかし、二十代前半の輝きに戻れるのならば、1から人生をやり直すのも悪くはないかもしれない。

若さというものは有限なのだ。

だからこそ、若さは、若さでしかありえないものをキラキラとふりまく。その若さには、若さでしか対応できないのである。

二十代前半に何をし、どんな風に物事を見ていたか。それが重要なのだ。一番勢いのある時に、気の合う娘と旅行して、旅先でエッチをすると。

若いから、一晩で3回はやれる。

そうして、やるだけやったら、あとは死んだって悔いは残らないものだ。

このぼくでさえ、考えてみると、二十歳の頃には彼女がいて、セーターをあげたりセックスをしたりしたものである。

ボクはまじめだったから、その子の事を愛しているのかどうかを気にしていたが、とにかくセックス出来ていたのだからなんの問題もなかったのかもしれない。

その上、もっと気が合う女の子だったならば、より申し分がなかったかもしれないが、そういう相手もいたかもしれないけれど、勇気をもってそっちに乗り換える努力は怠ってしまった。

そうこうするうちに、二十二歳のときにはその彼女にもう振られていた。そしてそのあとの十五年間というもの、彼女はできなかったのである。従って、セックスの機会も、飛田新地を除けば、まったくなかった。

社会の窓が閉まっていたのだ。若い女にとって、若い男はそれだけである程度条件に当てはまる。そして若い女というものは、社会の色んなところに生息しているものである。ところがぼくは、私立の医学部に通ってはいたが、その中で完全に浮いていて、勉強も出来ず、やらず、やれず、その社会と関係をもっていなかったから、その社会に属する、あるいはその周縁に存在する、キラキラと輝く若い女たちの関心を惹くことが出来なかったのである。壁とだけ対話をしていたら、いつのまにか五十歳が間近に迫っていたというわけだ。

一晩に女と四回やって、その直後、死ぬ、死んでも構わぬというくらいの覚悟が必要なのだ。そのくらいの覚悟で女を観て、そして社会を見て、社会の中でさり気なく女と接触する、そういう機会を何度も作ることが、二十代前半にすべき事なのである。

大学に進学するか、高卒で働くか。さしてそれは重要な事ではない。なぜならば、社会に居さえすれば、女とは出会えるからだ。

大学では、勉強することが大事なのではなく、勉強するふりだけして、あとは(適当に)本を読み、そして女と出会っていれば良いのだ。女から関心を持たれるように振る舞い、そして注意深く女を観察し、女の好みを知り、女の望むところ、欲するところを察知し、女に合わせる。合わせ方を知る。

二十代前半の時期にしか、出会えない女というものがある。キラキラ輝いている、若い女と釣り合うのは、自分自身も若いような、そういう男だ。

五十歳を目の前にして、若い女の事を考えたって仕方がない。熟れた実を愛でるしかないのだが、それにしても一晩に二回も3回も逝く力はもうないわけだ。そうなると、女との旅行の楽しみも半減するのではないか?自分自身の感性だって、もうキラキラしてはいないわけだし。

というわけで、齢をとると、死ぬことを考えるようになる。いま、この国で。

死ぬ時期を、自分で決められたらと想う。ぼくの場合それは、出来るとしたら70歳だ。年金が薄いので、働けなくなったら極度の貧乏人になってしまう。その前に死にたいのである。

日本国よ、財源がないから社会補償が薄くなるのは仕方がないとして、ならばせめて安楽死を合法化することが不可欠ではないか。社会的最低限度以下の生活を強いるのは、ある程度歳を重ねたものに対して、逆に人道的でないような気もする。

コリン・ウィルソンの本の中に、『いかなる生も、もはや重荷ではない』という言葉がでてくるが、そんなコトバはもう信じられない。

いかなる生、とまでは言わないが、ほとんどの生は重荷である。

今どきの非正規雇用中年が70歳になる頃には、その『重荷度数』は、生で得られる喜びや楽しみ、生きがいといったものを、多くの瞬間、凌駕しているだろう。苦痛の連続に、貧困の身で耐えねばならなくなるはずだ。

ひょっとしたら、とは思う。

生き延びて、成し遂げられる事も何かあるのではないか、と。歳をとっても、若さを失っても、地味なその姿の中に、わずかな価値がまとわりつくように残っているのではないか、と。

若さは確かに貴重かもしれないが、命はそれにもまして、少なくとも自分自身にとっては、貴重なものなのではないか、と。

ただ、それでも安楽死という選択肢はありえると思う。かなり齢を取った時に。

お金のことが一番の問題だ。自分自身の資産。それが尽きた時、今の社会で、生きている価値はあるのだろうかと。

ぬちぐわ、たから。命は宝だと、沖縄のコトバだ。その言葉は確かに今のぼくにとっても重い。

ぬちぐわ、たから。


生きるということは、何なのだろうか?少なくとも、バブルの頃流行ったように、ひと一人の命は地球よりも重いという価値観は、今はもうリアリティを感じなくなってきている。今はもう誰もそんな事を言わない。

逆に、若さは貴重だと、若い人たちに向かって言いたくなるような気持ちだ。特に若い女は、若いというだけでも『価値』がある。若い男だってある程度、そうかもしれない。ただその価値は、若い女から与えられるものなのだが。

生きるって事には、価値、値打ちがある気がする。自分自身にとっての、命の価値。最後の最後まで頑張り抜くというのも、大事なことなのかもしれない。

けれどもそれは、社会から強制されることではないと思う。社会が、老いを、本心では重荷だと思うのなら、その不毛な生を精算する手段も、一方で用意すべきなのではないかと思うのだ。

自殺者が、年間に2万人から三万人というこの国で、安楽死制度は、もっと穏やかで人道的な死を人々に提供することができるのではないか?

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