第63話

文字数 1,323文字

無様な生き方しかできない。人生は痛い。

統合失調症のワークブックを妻と一緒にやり始めて、学ぶところもあった。今更というところもあったが。改めて振り返ると、治療と投薬を受けている中で、ぼくの人生は大きく回復過程に入っているという事だ。なかんずく、今の主治医になってからのぼくは、本当に大きく成長したと思えるし、『病気』という点でも安定している。

統合失調症は人によって表れが微妙に違う。ぼくは幻聴は全く体験していないが、妄想や思い込みが強く、またかんしゃくを起こすことが良くあり、ある面では修復不能なほどに、人生を傷つけてしまった。

ぼくの妄想は日常生活的な妄想で、身近な誰かがぼくを傷つけようとしているとか、陥れようとしているとか、監視しているとか思ったりすることだ。薬を飲んでいても、そういう風に思ってしまうことは良くある。

その面に気づけたのは、ワークブックをやった効能だと思う。

ぼくは自分が統合失調症であることを良くオープンにするが、それは自分がそんなにおかしくはないと思っているからで、このそれほどおかしくない自分をオープンにする事で、統合失調症への偏見が薄らげばよいと考えているのである。

実際、ぼく自身も、二十年前、統合失調症に罹患して近畿大学医学部の窓から飛び降りるまでは、精神病と言えば気違いを指すのだと思っていたし、きちがいとは、もっと了解不能な存在だと思っていた。

きちがいって、なんなのだろうか?仮に了解不能な部分があるにしても、もうすこし、微妙なことなのかもしれない。

何かでわめいたり、大声でクレームを付けたりすることがあるとしても、その行為は怖くておどろおどろしいものかもしれないが、その背景にある感情や動機、理由を聞いていけば、案外理解できるものだったりもするのではないか?

といいつつぼくだって、精神病の人のことをそんなにも多く知っているわけではない。けれどもA型就労支援作業所で働けば、精神病の知人をたくさん持つことが出来るし、彼らがまったくおどろおどろしい存在ではないことだってわかるだろう。

実際、薬と医療と福祉の進歩によって、統合失調症は、多くの場合、修復不能な人生の汚点ではなくなりつつある、と思う。そうなると、統合失調症ならではの表現も出てくるわけで、あえて言えばプラスの面だってないわけではなかったなとまで思えてくる。

まあそんなこんなで、普通の人生を、ようやく少しは楽しむことが出来るようになってきている。8月5日、スムルースというバンドのコンサートを予約した。トクダケンジさんの曲しか知らないので、「イチ」「ニィ」のアルバムからも何曲かやってくれたらなと思う。

コンサートに行くのは久々である。ぼくは大きな会場でやるコンサートは苦手で、大体百人規模くらいまでのコンサートホールの雰囲気が好きだ。

「ぼくには世界がこんな風に見えていた」という、統合失調症の若者が書いた先駆的な本を昔妻に勧められて読んだのだけれども、その時は気に食わなくて手放してしまった。いまならもっとあそこからくみ取れたかもしれない。

統合失調症って、何なのだろうか?

そもそも現実って、なにさ?

生きなきゃね、たくましく。そして人と和解しなきゃ。雄々しく。
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