第52話

文字数 1,016文字

障害者(というコトバは大嫌いなのだが)の支援の仕事をさせていただいており、自身、障害者のカテゴリーにも入るニンゲンである。

昨日の精神科の先生との話から推測すると、スキゾフレニアの既往があり、ADHD(注意欠陥多動性障害)があるとの見立てで、ぼく自身もそれで間違いないように思う。その診断に納得している。

それはともかくとして、ぼくが働いているのは生活介護の施設で、そこでは利用者さんが主に軽作業をして過ごされる。

工賃はものすごく安くて4千円くらい、しかも利用者さんは必ずしもそれらのお金を自由に使えるわけではない。

ジュース一本買うのにも、施設の承諾が必要だったりするのだ。

管理しているのだが、その管理は必要なものと考えられている。

ぼくなんかは、その必要ってことに疑問を抱いたりもする。(当然であろう)

一方で、健康管理などが必要なのは分かる。ただし、利用者さんたちを十分に「大人として」扱えているかとなると、本当にわからなくなるのだ。

それは別の言い方をすると、大人とは何かがわからないってことで、だからこそこの仕事で死ぬほど頭を使うのは意味のあることだと思う。

村上龍など読みながら、日本の大人についてぼちぼちぼくは考えてきた。

大人のふりした、子どもっぽい情念の人達も多いように思う。

大人とはなんなのだろうと思う。ただ、まず思うのは、大人としての自由を与えられなければ、その人は決して大人にはならないだろうってことで、大人について考えるには、大人になってもらうには、大人として扱い、ある程度の自由と尊厳を享受してもらわねばならないのではないかとぼくは思う。

こんなことを書いているぼくは、見る人から見ればずいぶん子どもっぽいやつなんだろうと思う。けれど大人というのは、見た目ではない、本質のことだと思う。

ぼくも大人になりたいが、なかなかなれないでいる。だからこそ支援の中で、大人ってものを探したいと思うのだ。46歳になっても、大人って何なのかがわからない、ボクである。

利用者支援でぼくが一番大切にしたいこととは、生活介護という支援の本質がなんなのかぼくにはまだわからないにしても、大人としての生活をそこで送ってもらいたい、ということだ。どんなに外見上子どもっぽくみえたとしても、中味は十分な大人であり、彼らには大人の生活を送る権利がある。

彼らに大人としての生活を送らせる事が出来ないとすれば、それは我々自身が十分に大人でないからなのである。
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