第74話

文字数 1,628文字

書くという事を、大学生の時からずっと続けてきた。

書く内容は、その頃とは違っているだろうが。スタイルも随分変わっただろうが。

最近ぼくは、『老い』を意識し始めている。再来月で47歳になるのだが、超高齢社会の日本では47はまだまだ現役世代に入れていて、その点の心配はない。

だが、体力がもたなくなったなあとつくづく痛感する。

もともと、そんなに体力のある方ではない。けれども40歳くらいで倉庫の仕事をした時やちょっと土方めいたことをしたときには、あふれかえるような活力を自分の中に見出して驚いたりしたものである。それがいま、ちょっと無理をすると翌日の仕事に響いたりするのだから。(今日午前仕事休んでしまいました)

仕事と風呂との間の密接な関係。

統合失調症の症状の一つに、どうやら風呂に入れなくなるというのがあるらしい。ぼくも風呂が苦手だ。入るとさっぱりして、特に二日ぶりに入った日などには、『ああさっぱりした。やっぱり風呂はいいものだ』などと一人ごちたりもするのだが、汗まみれで帰ってきても、とりあえずパンツ一丁になって飯を食い、パンイチのままで布団にごろりと横たわり、最近は新聞なぞ読みながら途中で寝たりするのだが、とにかく、いつどのタイミングで風呂に入ればいいのかがわからないのである。

仕事をしているときはそれでも明日の仕事に影響が出るからとなんとか夜中に風呂に入れたりするのだが、翌日休みとわかっている日には、一日のはじめからもう風呂に入る気など毛頭なくて、歯も磨かず平気でそのまま寝たりする。

この、やる気のなさみたいな『症状』が統合失調症なのか。

だとしたら、なんとか次の日仕事があるときだけは必ず風呂に入って、仕事にもキチンキッチンといけるやうになりたひ!!!

やはりこのぼくといえど、風呂にも入らずに人と会うのは気が引けるのだ。

自由って怖いと思った。何事も自己責任と言ってしまえるからだ。それが、それこそが、『新自由主義』なのか?!ぼくはずいぶんと人のせいにしがちな人間なのだが、『自己責任』で返されてしまうと、ぐうの音も出ない。それでも、年金や支援など、人生の道半ばにしてヨウキョウとなってしまった者たちに対する手厚い(のか?)福祉が存在してはいる。

それでも、それでも、それでも。誰か特定の人ではなくて、『この社会全体』に対する復讐を試みてトラックや刃物を持ち出すものがあるとき、その馬鹿者だけが間違っているのだとは言えない気持ちになることがある。

今、日本の自殺者は年間二万人である。それだけの人が、『この社会に』絶望して命を断つ。すべてを自己責任で済ます気か。

環境因子ってものもあるのだ。その環境因子の末端に、このボクがいる。ぼくもカゲで、自殺を助長しているのかもしれない。『こんな社会』と絶望する理由の一端に、このぼくも含まれるのかもしれない。

社会への信頼と、足りない部分は足りないときちんと把握して、言ってゆく、批判する、その能力は保持しておきたい。色々と足りない部分、目につく部分はアリながらも、みんな頑張っているのだ。自分のことで精いっぱいなのだ。

あと、30年近く、生きれるかもしれないとは思う。70歳までに死にたい。貯金もないし、働けなくなって、年金だけで生活する生き地獄を思うと、切実にそんな気になる。この歳になって、はっきりと思うようになった。生死は社会のことだ、と。もしもそれだけのことなのならば、70歳になって働けなくなるころ、ポキリと死んだって、惜しくはないのである。今の日本の老後というものは、そういったもののように見える。

老人(男性)たちが、ミスドで、四人、にぎやかに話していた。なんだか醜いと思った。

老人は、ミスドで一人老眼鏡で本を読め。

老いて、なにをする?老いて居場所を失くす社会、もしも老いたなら、置物みたいになって生き延びようと思う!!!時々、きれいな布で拭ってくれ、やさしい声で問いかけるものがあれば答うる、生きた置物に。
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