第21話
文字数 1,640文字
明後日は、選挙の日である。
過日、ぼくは自由についてたびたび思索をし、本も少し読んだ。その中で少し知ったのは、自由の型の中の一タイプのことである。
それは『師である人物』が『好ましい選択肢』を提示できるか否かにかかっている、というものだ。
『好ましい選択肢』とは何か?弟子が、環境により深く適応するという事、すなわち自己実現を可能にしていくような選択、かなと、とりあえず思う。自分の生命をより深く味わい、生きていることの貴重さを深く思い、言葉だけでなく概念だけでなく単なるきれいごとでなく、この命を燃焼させるにふさわしい何かを見つけだしていくこと。たとえば今のぼくにとっては、漢字の勉強なんかでもいい。
そういう意味では、いまのぼくにとっては、精神科の木下先生や福祉でお世話になっている人、職場の上司や先輩、妻も、『師』である。彼らは関わりの中で絶えず投げかけてくれる、『好ましい選択肢』というものを。
同時に、この選択肢が強制である必要はないものと思う。手塚治虫の漫画を『読め』と強制しなくても、面白いから今でも図書館で借りてみんなが読むようなものだ。
自由はあまりにも漠然としているし、人は自分一人の力だけでは自由にはなれないかもしれない。良き人は良き師になれるが、この『良き師』にふさわしくない人物も、たまにはいるように思う。余談になるが、ぼくの親は、ぼくにとって良き師ではなかった。今でも、あまり好んで接触を取りたいとは思えない。
より深い適応、とはなんだろうか?より深い自己実現とは、何だろうか?ひとは半ば無意識のうちに、そこへ向けて選択を重ねていく。その中で大きく失敗することもあるとしても、徐々に徐々に、その何かは姿を現してく。
なんどもなんども名前を聞いてこられる利用者さんが、働いている施設におられて、その方に、『これ誰?』と自分を指さして逆に訪ねてみたところ、「せんせい」と言われた。ぼくもまた、(いつしか)師たる人間の一員になっていたのかもしれない。
施設では、自閉症の方にタブレットをあてがうことが昨日問題として挙げられた。タブレットにあまりにも長時間没頭すると、自閉症が悪化する恐れがある、と言うのだ。
実際問題として、タブレットを全面撤廃することは、今のところ実用的ではない。しかしタブレット一択、という現状は、変える必要があると思う。タブレットをやりたいというのも、利用者様の自由である。しかし、自由を語るならば、師である者が提示する自由、すわわち、『より好ましい』自由についても考えねばならない。
絵本とタブレットで、どちらがより好ましいかを、一概には言えない。しかし、長時間接していてもあたまがぼーっとならないような娯楽や楽しみもあるとは思う。自分を強くしてくれたり、深く考えさせてくれるものや、たすけてくれるものが、この世にはあると思う。
それを提示できるというのも、ステキなことだ。
利用者さんに、「より好ましい選択肢」と思えるものを提示した時、「ぐわっ」っとおっしゃってそれをつかまれる方がいる。そういうときにはその方こそ、ぼくにとって真の師であるように思える。
現状、この社会で、知的障害者は自由とは言えないような立場に置かれがちである。
だが、自由のポテンシャルを持っているのはむしろ彼らの方なのだとぼくは信じている。だから知的障害者の方々が真に自由を謳歌されるようになるまでは、人類は自由について本当のことを何も知らないままでいるだろうとぼくは想うのである。
真の師、世の光は、彼らなのだ。(そして、明後日、選挙の日である)
ツールがなければ、自由は学べない。弱い立場の者に対して、より好ましい選択肢を提示せずに、『自由を行使しなかった』とぬけぬけほざくのは、管理する側のご都合主義である。
(だから、明後日、選挙に行こう。自由の行使は、たとえわずかな自由であっても、いや、ささやかな自由であればあるほど、その積み重ねが結果に大きな違いをもたらすものではないだろうか?)
過日、ぼくは自由についてたびたび思索をし、本も少し読んだ。その中で少し知ったのは、自由の型の中の一タイプのことである。
それは『師である人物』が『好ましい選択肢』を提示できるか否かにかかっている、というものだ。
『好ましい選択肢』とは何か?弟子が、環境により深く適応するという事、すなわち自己実現を可能にしていくような選択、かなと、とりあえず思う。自分の生命をより深く味わい、生きていることの貴重さを深く思い、言葉だけでなく概念だけでなく単なるきれいごとでなく、この命を燃焼させるにふさわしい何かを見つけだしていくこと。たとえば今のぼくにとっては、漢字の勉強なんかでもいい。
そういう意味では、いまのぼくにとっては、精神科の木下先生や福祉でお世話になっている人、職場の上司や先輩、妻も、『師』である。彼らは関わりの中で絶えず投げかけてくれる、『好ましい選択肢』というものを。
同時に、この選択肢が強制である必要はないものと思う。手塚治虫の漫画を『読め』と強制しなくても、面白いから今でも図書館で借りてみんなが読むようなものだ。
自由はあまりにも漠然としているし、人は自分一人の力だけでは自由にはなれないかもしれない。良き人は良き師になれるが、この『良き師』にふさわしくない人物も、たまにはいるように思う。余談になるが、ぼくの親は、ぼくにとって良き師ではなかった。今でも、あまり好んで接触を取りたいとは思えない。
より深い適応、とはなんだろうか?より深い自己実現とは、何だろうか?ひとは半ば無意識のうちに、そこへ向けて選択を重ねていく。その中で大きく失敗することもあるとしても、徐々に徐々に、その何かは姿を現してく。
なんどもなんども名前を聞いてこられる利用者さんが、働いている施設におられて、その方に、『これ誰?』と自分を指さして逆に訪ねてみたところ、「せんせい」と言われた。ぼくもまた、(いつしか)師たる人間の一員になっていたのかもしれない。
施設では、自閉症の方にタブレットをあてがうことが昨日問題として挙げられた。タブレットにあまりにも長時間没頭すると、自閉症が悪化する恐れがある、と言うのだ。
実際問題として、タブレットを全面撤廃することは、今のところ実用的ではない。しかしタブレット一択、という現状は、変える必要があると思う。タブレットをやりたいというのも、利用者様の自由である。しかし、自由を語るならば、師である者が提示する自由、すわわち、『より好ましい』自由についても考えねばならない。
絵本とタブレットで、どちらがより好ましいかを、一概には言えない。しかし、長時間接していてもあたまがぼーっとならないような娯楽や楽しみもあるとは思う。自分を強くしてくれたり、深く考えさせてくれるものや、たすけてくれるものが、この世にはあると思う。
それを提示できるというのも、ステキなことだ。
利用者さんに、「より好ましい選択肢」と思えるものを提示した時、「ぐわっ」っとおっしゃってそれをつかまれる方がいる。そういうときにはその方こそ、ぼくにとって真の師であるように思える。
現状、この社会で、知的障害者は自由とは言えないような立場に置かれがちである。
だが、自由のポテンシャルを持っているのはむしろ彼らの方なのだとぼくは信じている。だから知的障害者の方々が真に自由を謳歌されるようになるまでは、人類は自由について本当のことを何も知らないままでいるだろうとぼくは想うのである。
真の師、世の光は、彼らなのだ。(そして、明後日、選挙の日である)
ツールがなければ、自由は学べない。弱い立場の者に対して、より好ましい選択肢を提示せずに、『自由を行使しなかった』とぬけぬけほざくのは、管理する側のご都合主義である。
(だから、明後日、選挙に行こう。自由の行使は、たとえわずかな自由であっても、いや、ささやかな自由であればあるほど、その積み重ねが結果に大きな違いをもたらすものではないだろうか?)