第39話
文字数 876文字
ファン。
自分自身のファンというものが、誰にもいるものだと思う。いずれかはできるものである。自分のことを好み、愛してくれる人が、この世には必ずいるものである。
ぼくにもいた。
昔は、この愛してくれる人のことを、十分には評価できていなかったように思う。どこまで自分のことをわかってくれているのか、と、どこかでたかをくくっていたように思う。人をナメテいたのである。どれほどの知識も見識もある人物が、あえて膝を屈してぼくの『考え』を聞こうとわざわざ傍までやってきてくれているのかに気づかなかったのである。
そして同時に、ぼくの『考え』が、本来ならばそんな値打ちもないという事も全く気付いていなかったのである。
自分を愛するという事は、自分を愛してくれる人を愛せるという事だと思う。自分を愛してくれる人を蔑んだり軽んじたりし、むやみと遠ざけてしまうようでは、この世の栄光は遠ざかるばかり。
孤独になってしまう。
本当の自分を愛してもらうためには、本音で喋らなきゃならない。時には言いにくいことだって言ってしまえるのでなければ、真の愛は得られない。そうやって得た大切な『ファン』を、裏切るような真似はしてはならないと想う。『ファン』は、ぼく以上にぼくの思想の純粋な継承者なのだ。
この人たちの中にこそ、ぼくの魂は生き続ける。そのファンを大事にしなければ、ぼくは次の九千年を北極星のそばでただ一人孤独に過ごすことになるだろう。
自分の表現を愛し、好み、喜んでくれる人のためにこそ、人は生き、しゃべり、書くのである。愛するって言うのは、そういうことなのだ。それは何の戦いでもない。ただ与え、与えられる、という関係である。
(ぼくはたしかに特殊なことをやるときがある。奇特な表現もまれにする。この特殊性が人の注目を惹き、人からの愛を得ることだってあるのだが、問題はそこからなのだ。自分のことを愛し注目してくれる、センスのある立派な人々を、自分もまた愛し返すという事さえできるなら、ぼくの孤独は終わるのではないかと思うのだ。ぼくには今現在、それ以外の『ひととのつながり方』が思い浮かばない)
自分自身のファンというものが、誰にもいるものだと思う。いずれかはできるものである。自分のことを好み、愛してくれる人が、この世には必ずいるものである。
ぼくにもいた。
昔は、この愛してくれる人のことを、十分には評価できていなかったように思う。どこまで自分のことをわかってくれているのか、と、どこかでたかをくくっていたように思う。人をナメテいたのである。どれほどの知識も見識もある人物が、あえて膝を屈してぼくの『考え』を聞こうとわざわざ傍までやってきてくれているのかに気づかなかったのである。
そして同時に、ぼくの『考え』が、本来ならばそんな値打ちもないという事も全く気付いていなかったのである。
自分を愛するという事は、自分を愛してくれる人を愛せるという事だと思う。自分を愛してくれる人を蔑んだり軽んじたりし、むやみと遠ざけてしまうようでは、この世の栄光は遠ざかるばかり。
孤独になってしまう。
本当の自分を愛してもらうためには、本音で喋らなきゃならない。時には言いにくいことだって言ってしまえるのでなければ、真の愛は得られない。そうやって得た大切な『ファン』を、裏切るような真似はしてはならないと想う。『ファン』は、ぼく以上にぼくの思想の純粋な継承者なのだ。
この人たちの中にこそ、ぼくの魂は生き続ける。そのファンを大事にしなければ、ぼくは次の九千年を北極星のそばでただ一人孤独に過ごすことになるだろう。
自分の表現を愛し、好み、喜んでくれる人のためにこそ、人は生き、しゃべり、書くのである。愛するって言うのは、そういうことなのだ。それは何の戦いでもない。ただ与え、与えられる、という関係である。
(ぼくはたしかに特殊なことをやるときがある。奇特な表現もまれにする。この特殊性が人の注目を惹き、人からの愛を得ることだってあるのだが、問題はそこからなのだ。自分のことを愛し注目してくれる、センスのある立派な人々を、自分もまた愛し返すという事さえできるなら、ぼくの孤独は終わるのではないかと思うのだ。ぼくには今現在、それ以外の『ひととのつながり方』が思い浮かばない)