第102話

文字数 1,023文字

大体一年くらい前に書いたエッセイを読み返すと、意識の冴えとか、思考の価値などを重視しているなという印象を受けた。

だが、これらの感覚は、今のぼくが大事に思っていることでは、もはやないのだ。

思考に没頭して、意識が高揚するというのは、浪人や高校生くらいの時に経験していた事で、今はリアルでの充実があるかないかの方に重きを置いている気がする。

仕事をして、お金を稼ぎ、そのお金で美味しい物を食べたり、着たい服を着たりする、あるいは、ちゃんと猫の世話をして猫たちと平和に生きて行く、というのが大事だな、と。

そのうえでまだ考えることがあるならば考えたら良いし、なんなら思い切り集中して考えるのも良い。しかし、考えるということも、なかなか疲れる事ではある。

ただ思考によって、自尊心が回復するというのは本当か?

それはあると思う。特殊な生き方にはなるが。ふつうは、まっとうな仕事をして、社会と関わる事によって自尊心が築かれてゆく。人との関わりの中で自尊心を築いてゆく。自尊心というのは、一つキーワードだ。そして社会がそれ自体を目的としているのかもしれないという、我が社会の、そんな性質にも最近注目している。

個人が個人として意味を探してもなかなか見つからず、社会の中での役割において案外簡単にそれらしきものが見つかったりするという、不思議な構図。ぼくはそれが分かってくるまで、フラフラとさまよい続けてきた。

自分自身を価値あらしめるのではなく、無条件で自分に価値を見出してくれる、やさしい人や生き物の間で生きてゆきたい。ぼくには、大した才能はない。ただやれる事だけやっていこうと想う。やれることをきっちりとやって、なるべく仕事を休まず、丁寧に働き、そして漢字の勉強を続けていく、と。そういう事を大切にしていきたい。

ぼくのようなにんげんは、世の中は、ただ黙っていても必要だとは言ってくれないかもしれない。だからこちらから働きかけていくのだ。世の中の価値に、別の価値観をぶつけて行くことにした。そんな生き方しか出来はしない。それにしたって、たとえそんな風だとしても、世の中との関わりを重視する。自分自身の感情を多少犠牲にしたとしても。

そうやって自分がわからなくなっていくのだろうか?そしたらまた、孤独に籠るのだ。そして自分を回復して、ふたたび社会に突撃するのだろう。自己完結した回路なのではなく、開かれた自分でありたい。孤独なだけではなく、社会との接点を大切に持ち続けたい。
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