第49話
文字数 1,365文字
ぼくが大学を中退して、実家で犬の散歩だけやって生活を始めた頃。妹がミクシィを教えてくれ、そこに思うことなど書くようになった。
もう二十年近くまえの事になるか。
それまでは自分が書いた文章を公表することはなかった。小学校の作文の時間くらいのものだったろう。
それでいて、文章を書くことは好きだったし、作家になりたいとも熱願してもいた。
小説は、新人賞などに応募したことは今までも一度もない、けれどネットでこういう文章を発表することは、ずっとずっとやってきた。
自分の考え、たとえば放置少女はクソゲーでそれをやる人も馬鹿だといった過激な言葉を、電脳を通じて世界中にばら撒くというテロ行為、それをそんなにも好意的に受け止めてもらえるとは思わないけれど、
けれどこの間は思わず書いてしまった。なんだか腹がたっていたからだし、高校生の頃、アニメを観るのをやめたときに感じたのと同じ事がやはり感じられたからだ。
なんだか、オタク向けの商売が、ヌルいという気がしたのである。
オタク向けの商売に限らないかもしれない。この日本でだから通じる、ということが、商売の世界にもある気がする。
真似をしすぎる、というのがそれで、ちょっとカフェが流行ってるなとなれば、マクドナルドもマックカフェって言ってみたり、モスはモスカフェである。
追随する商売が多すぎて、商売していてもそんなに楽しくないのではないかと余計な気までまわしてしまう。
昔テレビでみうらじゅんに教わったことだけど、芸術家というものは、同じ事を2度繰り返さないそうだ。同じものを二度は作らない原則があるらしい。
この言葉もまた、日本この国で聞いた言葉だから、ビジネスの世界と芸術とで、ひどい乖離があるのかもしれない。
ぼくは、近大の医学部に入学して、9年間そこにいて、そこで這いずり回っていたのだけど、その時に色んなことを感じて、考えた。
そのすべてが無駄になってしまったような気もしている。ぼくの人生は無駄が多いという気もする。
大学選びを、もっと本当の意味で真剣にやるべきだったと想う。親が医者だからとか、有利だからと安易に考えて、医学部に固着した。その実、医者である父親の事は尊敬なぞしていなかったし、亡くなったいまでも、あまり好きではない。
医学部をやめた途端に冷徹な態度を示すようになった親戚の叔父とか。
医療にまつわるエトセトラは、科学のクールで有能な印象と、かけ離れた何かをはらんでいる。
良い意味でも悪い意味でも、「あまりにもニンゲン的」なのだ。
四十六歳になり、2022年という時代にもなり、テクノロジーは、なかんずくエレクトロニクスは、生活の髄の部分を支配するようになってきた。
この今、ぼくは科学に回帰しつつある。
二十歳の頃のぼくにとって科学は敵みたいなものだった。唯物論という憎むべき敵でしかなかった。だがいま気がついてみると、生活は科学のなかにどっぷりとはまり込んでいる。生活の8割までが科学になってしまったなら、科学は敵だなんてとても言えない。
今、分かるのは、人は生活のために生活するのだ、ということで、その中に科学すら入り込める。生活とは時間の事だ、時間を愛すると言うことだ。その、時間への愛が、科学への愛と重なる、そんな時代が、いつしか来ていた気がする。
エレクトロニクスによるあまたの革命によって。
もう二十年近くまえの事になるか。
それまでは自分が書いた文章を公表することはなかった。小学校の作文の時間くらいのものだったろう。
それでいて、文章を書くことは好きだったし、作家になりたいとも熱願してもいた。
小説は、新人賞などに応募したことは今までも一度もない、けれどネットでこういう文章を発表することは、ずっとずっとやってきた。
自分の考え、たとえば放置少女はクソゲーでそれをやる人も馬鹿だといった過激な言葉を、電脳を通じて世界中にばら撒くというテロ行為、それをそんなにも好意的に受け止めてもらえるとは思わないけれど、
けれどこの間は思わず書いてしまった。なんだか腹がたっていたからだし、高校生の頃、アニメを観るのをやめたときに感じたのと同じ事がやはり感じられたからだ。
なんだか、オタク向けの商売が、ヌルいという気がしたのである。
オタク向けの商売に限らないかもしれない。この日本でだから通じる、ということが、商売の世界にもある気がする。
真似をしすぎる、というのがそれで、ちょっとカフェが流行ってるなとなれば、マクドナルドもマックカフェって言ってみたり、モスはモスカフェである。
追随する商売が多すぎて、商売していてもそんなに楽しくないのではないかと余計な気までまわしてしまう。
昔テレビでみうらじゅんに教わったことだけど、芸術家というものは、同じ事を2度繰り返さないそうだ。同じものを二度は作らない原則があるらしい。
この言葉もまた、日本この国で聞いた言葉だから、ビジネスの世界と芸術とで、ひどい乖離があるのかもしれない。
ぼくは、近大の医学部に入学して、9年間そこにいて、そこで這いずり回っていたのだけど、その時に色んなことを感じて、考えた。
そのすべてが無駄になってしまったような気もしている。ぼくの人生は無駄が多いという気もする。
大学選びを、もっと本当の意味で真剣にやるべきだったと想う。親が医者だからとか、有利だからと安易に考えて、医学部に固着した。その実、医者である父親の事は尊敬なぞしていなかったし、亡くなったいまでも、あまり好きではない。
医学部をやめた途端に冷徹な態度を示すようになった親戚の叔父とか。
医療にまつわるエトセトラは、科学のクールで有能な印象と、かけ離れた何かをはらんでいる。
良い意味でも悪い意味でも、「あまりにもニンゲン的」なのだ。
四十六歳になり、2022年という時代にもなり、テクノロジーは、なかんずくエレクトロニクスは、生活の髄の部分を支配するようになってきた。
この今、ぼくは科学に回帰しつつある。
二十歳の頃のぼくにとって科学は敵みたいなものだった。唯物論という憎むべき敵でしかなかった。だがいま気がついてみると、生活は科学のなかにどっぷりとはまり込んでいる。生活の8割までが科学になってしまったなら、科学は敵だなんてとても言えない。
今、分かるのは、人は生活のために生活するのだ、ということで、その中に科学すら入り込める。生活とは時間の事だ、時間を愛すると言うことだ。その、時間への愛が、科学への愛と重なる、そんな時代が、いつしか来ていた気がする。
エレクトロニクスによるあまたの革命によって。