第18話

文字数 1,488文字

子どもの頃よく、経験と思考について考えた。

経験だけでも駄目だし、思考だけでも駄目だ、と。真理を知りたいと思っていた。(我ながら、大それた野心である)

真理に迫ることが人の務めなのではないのかもしれない。日々生きるだけでも十分だ。そんなふうな感慨も、最近生じたりはする。ただそれでも、ふと思い出したのだ。自分は、考えにふける事が好きな子供だったという事を。

経験と思考。思考に没頭して一生を終えようとは思わないし、思えなかった。それはそれで正しい本能だったのではないかと思う。ぼくはADHDだし、走り回りたいような衝動性もある。電車に乗ってどこかに出かけるのもとても好きだから、色々旅をして、その中で生まれてくる感慨やなんかを思索の材料とするのも良い。

今のぼくは、思索にふけるという事がそれほど得意ではないのかもしれない。

経験して、それを思索の種をして、自分なりの哲学を作り上げていく、なんていう壮大な営みから、いつしか外れてしまった人生だ。それはそれでいい。ぼくは精神疾患を患ったものとして、失われたものを、すなわち社会性や健全な社会生活というものを、一つずつ取り戻していこうと想う。

夕方飲む、向精神薬のブロナンセリンが、6mmから8mmに増えたことで、頭の中が妙にすっきりとしている気がする。同時にこれは、ぼくの中の被害念慮が消えやすくなる力を期待できるものであるようだ。ただ、増やしたばかりだからか、眠気が強くて、また昨日も仕事を休んでしまった。(風呂も二日入れなかったのだ)

頑張りたい。仕事をして生きていくという事を頑張りたい。今の仕事は、金には代えられないようなやりがいがあると思う。なんとか、なんとか。

今日、また木下先生のところに行ってみようと思う。そして、眠気が強くて昨日会社を休んでしまったけれども、それでも(ブロナンセリン)8mmで行きたいと言ってみようと思う。

ブロナンセリンと言う薬は、レキサルティやエビリファイほど有名ではないかもしれないが、妄想に効くらしい。となると、この薬で救われる人は案外多いのではないかという気もする。

昔の、いわゆる精神病者のイメージにありがちな、派手な、わかりやすい妄想ではなくって、微小な、いわばニキビのようなちいさな分かりにくい妄想で社会性を微妙に破壊され、周囲から厄介な人間とみなされている、『人生からの疎外者』は、今の世の中に、ぼく以外にも結構いるのではないかという気がする。

ぼくは、統合失調症の治療を始めてから、自分の疾患は微妙(で軽度に見えるけれど)深刻なんだ、と深く思ってきた。同時に、ぼくみたいなタイプの病者は、実は現代に典型的なのかもしれないとなんとなく考えてきた。

例の、『微妙だからこそ厄介』問題である。なにか小さなかけ違えは、見つけにくい。よくぞここまで、ぼくの病の本質に迫っていただけているものだと思う。

そもそも、統合失調症(狂気)と健全との境目は微妙で曖昧であろう。ただぼくのように、なにかがおかしくて、まるで何かを掛け違っているかのようにあらゆるチャンスを逃してしまう、それにはどうもぼく自身のメンタルな何かが関わっているらしい、と自覚するときにはじめて精神科の門をどんどんッと叩くのである。考えや想定の、どれが妄想でどれが真実なのか、微妙な線においてはまことに見極め難い。しかし、その中にこそ、恐い病気が潜んでいる場合もあると思う。

『見極め難い』で済まさずに、とことんぼくのこの病気と向き合ってくれている、先生や福祉の方々、そしてオープン雇用で採用してくださったいまの職場に、深く深く感謝の辞を捧げたい。
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