第12話

文字数 1,348文字

妻が立派すぎて参る(のろけているつもりはない)。

来週、妻と一緒に漢検を受けるのだが、ぼくは早々と勉強に飽きてしまい、休日も漢字の勉強はほっぽり出しているのに、妻は努力家で、『(家事で)勉強の時間が取れない』とぼやきながらもいまもこつこつと、すき間時間での勉強を続けている。

ぼくはやる気がない、と言うか、面倒くさがり屋の怠け者で、福祉施設での常勤アルバイトの仕事にありついても、精神障害をオープンにしての雇用であるのをいいことに(?)、休んだり、遅刻したりと、甘えるだけ甘えてしまっている。(でも、仕事に出たら、利用者さんたちのパワーと純粋さにひきずられて、ずいぶん頑張っているつもりだが)。

死ぬ、という事についてよく考える。

死が遠い歳ではなくなってきた(もうすぐ46歳である)。

それとともにか、自死の可能性についてもずいぶん考えるようになった。自死は辛い。どんな死に方よりも、とまでは言わない。戦争で捕虜になり、陰険な拷問の果てに殺されるのに比べたら、楽な自死はまだしもましな方かもしれない。けれどもこの平和で明るい日本の国で普通に生活して生きて、死にたくなる日が時々あるのだけれど、その暗い、辛い気分にどこまでも賽の目を預けてしまって、「くそっ。死んでやるっ」とばかりに死んだりするのは、理性と知性の名がすたるというか、恥ずかしい、悲しいことだと想うのだ。

(ここまで書いて、妻がちらっと一瞬だけ画面を見て、『良かったね、病気のこと分かってきて。病気でもそこまで悪くなくて』と言うので、続きをどう書けばいいかちょっとわからなくなってしまった。)

死についてはねちねちと何千字でも書けると思っていたけれど、書いてみるとこんなものだ。とにかく、ぼくは『死なないように』と言うのが合言葉のように今を生きている。死なないように生き続けていれば、それが勝ちなのだと思う。特に、今の日本においては、特段そういうことが言えるのではないか?自殺した人を敗者だと決めつけたくはない。そんなことをするのは、本当にひどい、冷たい心の持ち主だと思っている。けれども、死なずに、というのは自ら死を選ぶことなく生きていける幸せというものが、他でもないただその幸せが、(ほかのもっと華々しい幸せもあるのだろうが)今のこの日本にはあるのではないだろうか?

つまり、生き続けるためには何かを肯定しなければならないのである。その何かが見つかるという好運が、たとえば良い配偶者や性に合った仕事や納得のいく人間関係に恵まれているとき、心に入ってきやすいと思うのだ。

今この日本で生きて、『肯定する』ということが、どれだけ困難で、そしてどれだけたやすかったことか。言葉にするのもとても難しい。たとえば、仕事帰り駅から直結した薬局で購い求めた193円の目薬(『サンテ快滴40』)の差し心地のすばらしさに我を忘れて叫びそうになる、そんなことが、この現代文明の都NIPPONで暮らすという事なのである。

45年生きて、ようやく手にした幸せである。ひと時の激情でこのありがたさを否定することのないようにしたい。

いまのぼくが、なにを肯定できるというのだろうか?特に自分の中の何を。

それでも、ほんのわずかな良心が(自分の中にも)あるのかもしれない、とは思う。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み