第81話

文字数 1,068文字

職場で、好きな先輩に、大昔のことを話した。

好きな、と言っても異性のそれではなく、ましてや男性で、人として尊敬している、というような意味のことだが。

きっかけはその先輩が、「新興宗教にはまるにんげんの真理って分からねえ」とおっしゃったことだ。ぼくはそれに対し、昔オカルト思想にはまっていたと白状した。オカルト思想とは、コリン・ウィルソンのことだ。

それは、ニ十年以上も前のことだった。ぼくはコリン・ウィルソンにはまっていたのだ。

すると興味を持ったのか、先輩が、オカルトが好きだったのかとかいろいろと聞いてきたので、ぼくはその頃のことで人にあまり言ったことのない話をした。

つまり、ぼくはオカルトというより、ウィルソンの『思想』にはまっていたのであり、自分自身のことを「思想家」とみなしていて、いつかは思想家になりたいと思っていたのだ。大体、高校生くらいから、二十代半ばくらいまで、そういうことを考えていた。

すると先輩は、「なればよかったのに」「なんでならんかったん?」と聞いてくるのであった。

結局ぼくは、「本が書けなかったから」と答えたけれども、それ以前にぼくには思想などなかったのだろうなあ、とも思っていて、「ブログとかで書き散らしたり、しゃべったりしていたことはみんな、その思想家の受け売りだったんです」と話した。そこから先輩は、その先輩が中学のころ知り合って良くいじっていた『変人』のことを話し始め(ぼくはぼくで、中退した近畿大学医学部ではなくて、本当は京大の医学部に行きたかったのだ、とか話した)のだが、それはさておき。

ぼくは高校生の頃、自分を思想家とみなしていて、「自分の思想」のことを「わたしのあかちゃん」と呼んだりしていたのだが、47歳の今になってみると、「思想って何だろう」とか、「自分には思想がないのだなあ」とか思う。

思想とは何だろうか?岡本太郎には思想があるように思う。思想とは一本とおった筋、背骨のことではないか?

あるいは、思想は、人類に影響を与えて、その文明を進歩させたりもする。それからその逆に、岡本太郎や立川談志の「思想」のように、「文明の進歩」とやらをあざ笑うかのような、筋の通った個人の生きざまを思想と呼びたくなることもある。

自分の中から湧き出てくる、「どうしてもこれだけは譲れない」という考え、それが思想なのだと思う。だとしたら、ぼくには今それをパッと思いつくことが出来ないので、ぼくはやはり無思想なにんげんなのかもしれない。(それなのに自分のことを「思想家」だとみなしていたのだ。やれもしない夢みたいな話だ)
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