第67話

文字数 1,575文字

にんげんの自由と孤独。

にんげんには、好きなように生きる自由がある。そしてこの日本では、にんげんの自由は、少なくとも建前としては、保障されている。

しかしこの自由の、なんと窮屈なことか。

子どものころから塾だ習い事だ、偏差値と学歴社会に意識を縛られ、社会に出たら今度は世間や人様の目を意識して行動せねばならない。

自由に生きようと思えば、うっかりすると孤独に陥りかねない。

特に、統合失調症だったりADHDだったりするぼくのようなにんげんは、常に孤独と隣り合わせで生きてきた。

その割にはまだまだ自由ではないなあと自分でも思うのが、辛いところだが。

自由とは、素晴らしいものだ。好きなことをやる自由。好きなことに没頭する時間。なんと幸せなことか。

だが、自由には、『現実』という手ごわい敵がいる。現実は、ひとりのにんげんが、意のままに世界を操ることを拒絶する。人はしばしば、自由の代償を払わねばならなかったりもする。代償を払わされるくらいならば自由なんぞ要らない、とばかりに自分をあえて制約にゆだねる人々もいる。勤勉な、まじめな人たちだ。その一方で、自由な空気を出来るだけ吸いたいと、制約を振り払って飛び出してしまう人々もいる。

世界には、どちらの人をも受け入れる場所があるらしい。その世界に広さこそが驚異なのかもしれないなと、ふと思った次第です。

って、何もそんなことが言いたかったのではなくって。

自由自由というが、元来不自由なところもにんげんにはあるのではないかって思うのです。

たとえば、生き物の命を簡単に奪ってもいいものかどうか、など。迷信的な、あるいは宗教的な、『畏れ』。そこからの解放までも、『自由』と呼んでいいものか、どうか。ここが一番難しいところだと思う、現代において。

奇しくも、アメリカで、このあいだ、避妊手術を認めないという法律が成立し、世論を騒がせた。あれには「宗教」が介在しているのだが、(リベラルでない)宗教がまさに、自由を妨げたのだ。望まれない胎児の命を消す『自由』を。

ぼくにはこの問題の答えが分からない。むしろ、『結婚もしていないのにむやみとなかだしをしてしまう自由』を制限すべきなのではないかと思う。『望まれない胎児の命の灯を消す自由』を制限するかしないかという議論よりは、『なかだししまくる自由』をあっさり制限してしまえば、理性的なんではないか。

問題は、子供ではなくて、命ではなくて、欲望なのだ。子供は、生まれてきたら、自由を学びながら、欲望を適度に抑えることを学びながら、それぞれの生を謳歌するだろう。

欲望は、場合によっては制限しても良いと思う。

しかし「自由」と「権利」は、みだりに制限してはいけないと思う。欲望と自由は違う。欲望が自由を邪魔することだってある。欲望が消えて自由が残ることもあると宣言する宗教だってある。

そのへんだ。

しししかし、しかしである。欲望も実はたいしたものだ。

欲望は、ただ一つの欲望ですら、実に大きいのだ。『あの子のすきゃんだる』を、わがものにせんと、せんと君、君は、君は、君はああああ!!

ずっと妄想ばかりしてきました。

だから、宗教では、簡単に「欲望を消せ」みたいなことを言っちゃったりもするが、欲望というものの持つ、人生における価値にも、もっと光を当てねばならないのかもしれない。

欲望と自由との対立で、実際問題として、欲望に軍配が上がることの方が多い。多少自由が制限されても、欲望を「抑えない」「抑えられない」という、みぢめな連中が、ああなんと多いことか!!

結局、人生だけが残るのだ。その中で何を成し遂げたかだけが指標なのではないか。スティーブ・ジョブズはiPhoneを残した。イエス・キリストはキリスト教に結実する何かを残し、コッホは結核菌を発見した。

ぼくのあとには何が残るだろうか?まぁだまだ、時間はある。
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