第99話

文字数 2,030文字

コリン・ウィルソンはぼくの統合失調症と深く関わる作家だと思うのだが、彼の『宗教とアウトサイダー』下巻に、ホワイトヘッドの言葉として、「いかなる経験も省きえない」というのが出てくる。「素面の体験も酔っての体験も、失意の経験も高揚の時も」みたいな内容だったと思うが、しばしば、われわれは、経験全体の中に包括するのが困難な、砂利のような経験を体験する。

たとえば今日、仕事でこんなことがあった。

ぼくの仕事は障害者の生活介護なのだが、メンバーさんたちが帰宅しつつあるとき、メンバーさんの一人が靴をちゃんと直していないのに業を煮やしたスタッフのおばちゃんが、「おっきな子どもやからなあ」と言ったのである。その後もそのおばちゃんは、「おっきな子どもがたくさんおるから」「Nさん(メンバーさんの一人で、脳性麻痺の方)は違うで。大人や」と言った。

この発言と、その裏にある思考は、研修などの題材になるのではないかと考えたぼくは、ミーティングの時、発言し、その時のことを持ち出した。すると場に、いこごちの悪い空気が少し流れ、皆が気まずそうにしている感じが若干、した。そしてその場にいたもう一人のおばちゃんに話を振ると、あろうことかそのもうひとりは、あのおばちゃんは、『スタッフの男性のことを』『おっきな子ども』と言ったのだと主張し、あっというまにそれが「公式見解」になってしまったのだ。

もうひとりのおばちゃんはそのおばちゃん(先に帰っていた)のことをかばったのかもしれないが、それにしても、とっさのこういう『場を壊さない努力』とその嘘が、ぼくは苦手である。どう『経験』の中に統合していったらいいのかすぐにはわからないのだ。嘘だ、と感じる事さえも、難しい。かといって百パーセント納得するわけでは、無論、ない。

さて。

さかのぼること二十五年前、ぼくは統合失調症の急性期を体験した。その時の経験もまた、「はぶきえない」のが難しい体験である。たとえば、その頃、昼間にライトを点灯して走る車がちらほら見え始めていて、妄想で過敏になっていたぼくはこれになぜか恐怖を感じ、「世界がおかしくなってきている」ことの兆候の一つととらえた。今なら、『昼間ライト運動』というものの存在を受け入れ、落ち着いた気持でいられるのだが、当時は、心の片隅で、しかし敏感に、そのライトのことを『ぼくに対する警告だ』と妄想してしまう自分がいた。それもあって、昼間のライトにはかなり敏感になっていたのである。トラックの運ちゃんに、ライトを消せ、と言って迫ったときには、一緒にいた妹からたしか強くたしなめられた。

そんな『活動』をしていたある時、一台の「昼間ライト」をしているバイクを、またしても、勇気をもって停めてみると、なんか良く分からなかったけれど、そのバイクは、通常のライトの上から、バンドでくくりつけて、もう一つライトを重ね掛けしている変わったバイクだった。その変なバイクのお兄ちゃんに、「昼間ライトをつけるのって変じゃないですか?」と聞いたのだが、お兄ちゃんが何と言って答えたのか忘れたが、その人は去り際に「ありがとう」といったように思うのだ。たとえばこういう経験も、砂利のようにざりざりして、『経験の統合』に今でもあらあらしく反発する。

さて。

この稿で一番言いたい事は、統合失調症と『孤独』『孤立』との、深いふか~いかんけいである。

なんというか、それなりにやることをやって生きていると、ちょっとやそっと変な事が起きてもパニックにもならないしそもそも「変」がそこまで気になることはない。けれどもぼくの場合、私立の医学部で何年も留年を重ね、授業は頭に入ってこない、教科書を開いてもそれも頭に入ってこない、あげくパパからもらったお金で風俗には行く、といった生き方をして、なおかつプライド高く孤独を守っていると、『統合失調症』という『病』を発症しやすくなるのかもしれない。孤立や孤独が危険だという事は、きっとみんな本能的に分かっているのだろう。しかしすべての孤立が危険なのではなく、そのとき、様々な状況が重なってぼくがおちいっていた、あの孤独が危険なものだったのだろう。

そして、今は妻がいて、主治医にも心配をかけているからかもしれないが、多少職場で孤立したとしても、そこまでの孤立になることは滅多にないし、統合失調症が再発するリスクは今の職場でもそこまで高くはないように思えるのだ。

この違いは何かと言うと、「なんだかんだ言ってやることをやっているか、否か」だと思う。意味合いとしての社会参加が出来ていなければ、いくら周りに人がいても、また再発する危険はあると思う。けれども今のように、曲がりなりにもきちんきちんと仕事に行って、(たまにさぼりますが)、ある程度自活に近い形で生活出来ている、という状況は、ストレスからほど遠いのかもしれない。

そういうわけで、『社会』という受け皿は、統合失調者にとって、欠くべからざるものなのだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み