第11話

文字数 1,451文字

『気』が狂う、という。統合失調症に罹患する、ともいう。この二つは、同じことなのだろうか?

ぼくは、気が狂っていると思う、または気が乱れていると思う。特に、頭から肩にかけての凝りがひどく、普段から頭を酷使しすぎるのかもしれない。絶えずこうして考えてばかりいる。思考が高級な性質だとどこかで考えていて、そのために無用な思考でもやめることが出来ないのだ。

昨日、梅田の駅前第三ビルディングの、健康圏という、良いマッサージ屋さんでマッサージを受けてきた。久々である。普段太極拳を学んでいて、気についてはある程度考える生活を送っていると思っていたが、それでも改めて気やツボの実在について深く感じるところがあった。中国人の若い人から受けた、ツボを押さえたマッサージは、それほど良質のものだったのだ。

とくに、こめかみのところを強く押された時、非常に痛かったけれども、同時に、いかに自分が知に頼った生き方をしているかとか、智に傾きすぎていることなどが思い知らされる感じがして、それが自分自身の体の苦しみを生み出しているのではないかと思われた。

本を読んだりものを考えたりすることが好きなぼくは、頭のマッサージやメンテナンスを怠ってはならないと思った。色々なことを考えすぎるのである。そしてそれらの考えは、宙に消えてしまうか、こうして時折文章にとどめられたりもする。

気というものを考える時、足掛かりになるのはツボの概念である。気について何も知らないではツボについても分かることが何もないに等しいのかもしれないが、気を考える前にツボについて考えてみるのは手助けにはなるかもしれない。というのは、たぶんまだツボのほうが概念として分かりやすいからだ。

ツボは、何らかの走行と関係している。体表のツボを、自分の手で押さえてみる。それは筋肉の走りの中にある。筋肉の走りの中に、手で押さえると響く場所、特に大切に思える場所がある。実際には筋肉だけの走りではなく、血管や神経の走りも交わったうえでその位置がたどられるのだろうが、そうしたツボを押さえる、あるいは押さえてもらうことによって、筋肉の凝りは若干ほぐれ、そして生命力、気が少しは滞りを解消される。

石の目、というのもツボの一種なのかもしれない。

建築業界で働いた時、外構の職人さんから、「石の目」について教わった。石屋さんという、石を扱う職業があり、長年この仕事に従事する職人さんは石の目を読んで、小さな力で石を割ることが出来るのだという。

石にツボがあるのなら、石にも気が宿るのか?なんてことまで考えてしまう。気脈や龍脈、土地の力。それらのことは流れや走行なのだが、ただ単なる流れなのではなくて、その中に大切なポイントを帯びた流れなのである。

頭の中にも流れがある。この流れがあまりにも滞っていると、しんどい。流れを流れさすことが重要なのだ。だから太極拳ではたえずゆっくりと、動き続ける。ポイントと、流れである。この二つのものにたいして人の興味は集中する。生の面白さが、そこから生まれる。ポイント(ツボ)を強く押さえると、滞りが一部なりと解消されるけれども、大事なのは流れそのものであって、いかに流れるかであって、むやみと凝視しても目が疲れるだけで何も見えてはこないかもしれない。(どこかに、『現代科学』から離れるポイントがある。それでも科学は有能で優秀ではある。)

死なないように。自ら死を選ばぬように。そのように生きたいと思っている。体全体の生の流れを滞らせぬよう、時折注意を払いながら。
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