第59話

文字数 953文字

知能が人間を幸福に導くだろうか、それとも不幸に導くだろうかと考えて、精神科の木下先生が出して下すったヘパリン保有のクリームが今まさに傷となって痛んでいる腕の痛みを和らげてくれたことをとっさに思い出し、知能が人間の苦痛を取り除(き、幸福に導く)のは当然しかるべきことだと思い直した。

たぶん、こんな問いが出るのも、知能によって得られた数多の幸福を、人類が、当然とみなしているからかもしれない。その一方で、東洋には、知を手放しで讃えず、そこに危険を見て取ろうとする文化があるのも事実だ。

だがぼくは、この年になって思うのだ、やはり知には、にんげんを幸せに導くことのできる性質があるのではないか、と。それはひとり個人の幸福に益するのみではなく、社会全体の幸せのためにも役立ちうる力なのだ。そのことを(身をもって)良く表してくれているのが、医者が患者を治療する、というありがたい行為で、人々が医学を研究し、医学生や医師たちが医学を学び教えるという日々があって初めて、私たちは病やけがの苦痛から逃れることが出来るのだ。

医療という行為は、知が公共の福祉に役立つものでもあることを、非常に分かりやすい形で人に示してくれていると思う。(そしてその知とは、西洋由来の科学に基づくものであろう)。

科学を疑う事は簡単だ。科学が人を幸福に導くのみならず、破滅に追いやるかもしれないという事も、言うのは容易だ。だがそれでは、いま現在享受している生活の中の苦痛の少なさやありがたさを、当たり前のものとみなしてしまうことになりかねない。

科学は、いまのぼくらの『生活』の基盤となり、これを支え、便利なものとし、苦痛を取り除いてくれている。そしてその背後には、木下先生をはじめとして(ぼくの場合は、だが)、多くの立派な方々が、遊びたい、怠けたい気持ちをこらえて科学の勉強に邁進し、彼らの生活を成り立たしめると同時にぼくらの福利厚生をも考えてくれるという、ありがたい心性があるのだろう。

科学も技術も、ひとびとの努力抜きには存在し得ない。科学の世界を覗くと、そこにはにんげん臭さがあふれかえっているはずである。科学は冷たい学問ではなく、それ自体が一個の熱なのだ。それは、『生活』という、生物にとって第一のものを、やさしく包み込む羊水のごときものだ。
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