第6話

文字数 960文字

いま現在、知的障害者の方の日中生活を支援する施設で働かせていただいている。

自分には合った仕事だと思う。この7月まで六か月間、無職で過ごし、このコロナ下にもかかわらずゲットできた、貴重な仕事である。給料が安いなどと不服を言わずに一生懸命働きたい。

糸賀一雄という人がいて、福祉で大きな仕事をされた方なのだが、知的障害児のことを、「この子たちは世の光だ」とおっしゃった。支援させていただきながら、この言葉の大事さを嚙み締めている。本当に、その通りだと思うことがある。

ぼくは自分で自分のことをギフテッドではないかと疑っている。ぼくの社会不適応の原因の一つは、なまじっか知性が高かったからではないか、と思うのだ。知力があるけれども、それがちゃんと活かされてはいない、と言うか。勉強にも読書にもそこまで集中できないから、知識不足であり、訓練不足でもある。この、むき出しのままの知性というものは、放射能に近いのではないか?人を傷つけたり、自分をも傷つけたりする。

翻って、知的障害者と言われる方々と接していると、(辛いときや困るときもあるけれど)温かい、癒されるような気持ちになる。心をはっと洗われる時もある。たまらず愉快な気持ちになることもある。

こういう部分を、糸賀一雄先生は、「世の光」とおっしゃったのではないか?

余談だが、神秘思想家のルドルフ・シュタイナーは、知的障害者のことを、「過去生において人類の指導者の立場にあった人々」と言っている。これもまた、「世の光」という事ではないかと思う。

なまじっかな知能は、放射能のようなものである。それに対して、知的障害は、ある意味では不幸なのかも知れないが、ひょっとしたら本当はそこまでの不幸ではなく、むしろ自分をも周りをも幸せにする「光」なのではないだろうか?

にんげんは、知能によって極限状態に自らを運んできた。滅亡か、さらなる、神秘的なまでの発展か。そのことに知能が関わっていることは疑いはない。しかしそれと同じくらい、知的障害もまた、人類にとって、否、世界そのものにとって、大切な存在なのだ。

頭の良い人を必要としあがめるのは、人類それだけかもしれないが、障害者の不思議な温かさ、そして彼らが時に魅せてくれる道徳的な高潔さは、世界そのものが必須としていることだと、ぼくは堅く信じている。
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